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「恋欲」は年をとらない その1 岩橋 那枝 

2015年07月27日 00時18分20秒 | エッセイ(模範)
 「日本語のこころ」 2000年版ベスト・エッセイ集  日本エッセイスト・クラブ編 

 「恋欲」は年をとらない その1 岩橋 那枝 

 恋は女を少女にする

 恋に年齢はない。六十過ぎても、七十代八十代になっても、恋の情熱は変わらない。
 若い人が聞いたら、「えっ、ウソー」と目をまるくするかもしれない。わたしも若い頃は、老年の恋なんて、よっぽどの例外で、ウス気味が悪いとさえ思っていた。恋に年齢はない、という自然で当たりまえのことがわかっていなかった。自分が六十代になってみると、やっと実感でわかってきた。
 いくつになっても、愛し愛されたいしぜんな欲求を失わないでいるかぎり、恋心は老化しない。
 作家野上弥生子は、五十歳のとき日記に書いている(旧かなづかいの原文のまま引用)。
<人間は決して本質的には年をとるものではない気がする。九十の女でも恋は忘れないものではないであろうか>
 その通りだと思う。
 
 中略

 野上弥生子は、六十代後半に熱烈な恋をした。恋文を交わしてはっきりと相思相愛をたしかめあったのは、六十八歳のとき。
 人生の終わりに近くになって、こういう日が訪れるとは夢にも考えたろうか、と弥生子が日記にしるしている大恋愛は、同い年の相手が亡くなるまで十年間続いた。
 彼女の老年の恋のいきさつは、あとでまたとりあげるとして、もう一人の女性作家平林たい子は、次のような名文をのこしている。
<恋愛とは、私のようなすれからしの女でも娘のような瞬間にかえりうることなのである>
 これまた、まさにその通りで、心が老いこまないで恋をする女ならば誰しも思い当たることだろう。
 平林たい子は女傑といわれ、文壇から総理大臣を出すなら見識力量ともに、この人をおいてほかにないとされながら、その彼女が片思いの恋に燃えたときの内明け話を読むと、胸のときめきも相手の反応に一喜一憂するさまも、うぶな小娘とちっとも変わりない。わたしと同じだなあ、と身につまされて笑ってしまうほどだ。
 年齢相応にしぶとくなったわたしのような者でも、生活に揉まれて感動の鈍ったオバさんでも老齢の女でも、ひととき娘にかえりうる。恋ならではの貴重な復活力だ。平林たい子の名言は、女はなぜ恋を求め続けるのか、それを解きあかすカギの一つといえる。

 中略
 
 恋は、若い人の専有ではない。とはいっても、恋愛のあり方は、年齢とともにちがってくる。
 年をとるにつれて、しぜんな欲求のままには行動できないものが、実生活にも心の中にも、人生経験とともにふえてくる。むろん人によりけりだけれど、若いときとちがってストレートに恋心を行動に移せないほうが普通だろう。枷のふえた暮らしや人間関係など外的な条件もさることながら、もう若くない本人の自覚がいようなしにはたらく。

 中略

 その2に続く