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呉清源」 その5 坂口安吾  

2015年03月02日 00時34分56秒 | 雑学知識
 「呉清源」 その5 坂口安吾  

 呉清源は、勝負をすてるということがない。最後のトコトンまで、勝負に、くいついて、はなれない。この対局の第一日目、第二日目、いずれも先番の本因坊に有利というのが専門家の評で、第一局は本因坊の勝というのが、すでに絶対のように思われていた。三日目の午前中まで、まだ、そうだったが、呉氏はあくまで勝負をすてず、本因坊がジリジリと悪手をうって、最後の数時間のうちに、自滅してしまったのである。
 もとより、勝負師は誰しも勝負に執着するのが当然だが、呉氏の場合は情緒的なものがないから、その執着には、いつも充足した逞しさがある。坂田七段は呉清源に気分的に敗北し、勝っている碁を、気分によって自滅している。呉清源には、気分や情緒の気おくれがない。自滅するということがない。
 将棋の升田は勝負の鬼と云われても、やっぱり自滅する脆さがある。人間的であり、情緒的なものがある。大豪木村前名人ですら、屡々自滅するのである。木村の如き鬼ですら、気分的に自滅する脆さがあるのだ。
 それらの日本的な勝負の鬼どもに比べて、なんとまア呉清源は、完全なる鬼であり、そして、完全に人間ではないことよ。それは、もう、勝負するための機械の如き冷たさが全てゞあり、機械の正確さと、又、無限軌道の無限に進むが如き執念の迫力が全てなのである。彼の勝負にこもる非人間性と、非人情の執念に、日本の鬼どもが、みんな自滅してしまうのである。
 この対局のあと、酒にほろ酔いの本因坊が私に言った。
「呉さんの手は、当り前の手ばかりです。気分的な妙手らしい手や、シャレたような手は打ちません。たゞ、正確で、当り前なんです」
 本因坊が、現に、日本の碁打ちとしては、最も地味な、当り前な、正確な手を打つ人なのであるが、呉清源に比べると、気分的、情緒的、浪漫的であり、結局、呉清源の勝負にこもる非人間性、非人情の正確さに、くいこまれてしまうらしい。
 結局は、呉清源の勝負にこもる非人間性、これが克服すべき問題なのだ。坂田七段の場合にしても、本因坊の第一局にしても、勝っていた碁が、結局、呉清源の非人間性に対して、彼らの人間の甘さが、圧迫され、自滅せしめられているのである。
 中国と日本の性格の相違であろうか。そうではなかろう。織田信長などは、呉清源的な非人間性によって大成した大将だった。結局、この非人間性が、勝負師の天分というのかも知れない。それだけに、彼らの魂は、勝負の鬼の魂であり、人間的な甘さの中で休養をとり、まぎらす余地がないのである。家庭的な甘い安住、女房、子供への人情などで、その魂をまぎらす余地がないのだ。
 しかも、彼らほどの鬼の心、勝負にこもる非人間性をもってしても、自己の力の限界、自己の限界、このことに就てのみは、機械の如く、鬼の如く、非人間的に処理はできない。否、その自らの内奥に於て、最大の振幅に於て、苦闘、混乱せざるを得ないのである。むしろ彼らの魂が完全な鬼の魂であるために、内奥の苦闘は、たゞ、永遠の嵐自体に外ならない。
 呉清源がジコーサマに入門せざるを得なかったのも、天才の悲劇的な宿命であったろうと私は思う。

底本:「坂口安吾全集 07」筑摩書房
   1998(平成10)年8月20日初版第1刷発行

底本の親本:「文学界 第二巻第一〇号」文学界社
   1948(昭和23)年10月1日発行
初出:「文学界 第二巻第一〇号」文学界社
   1948(昭和23)年10月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:砂場清隆
2008年5月10日作成
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