民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「雨傘」 川端康成

2014年12月10日 09時28分55秒 | 名文(規範)
 「雨傘」  「掌の小説」より  川端康成  (昭和7年3月) 38~40頁

 濡れはしないが、なんとはなしに肌の湿(しめ)る、霧のような春雨だった。
表に駈け出した少女は、少年の傘を見てはじめて、
「あら。雨なのね?」
 少年は雨のためよりも、少女の坐っている店先きを通る恥かしさを隠すために、開いた雨傘だった。
 しかし、少年は黙って少女の体に傘をさしかけてやった。少女は片一方の肩だけを傘に入れた。少年は濡れながらおはいりと、少女に身を寄せることができなかった。少女は自分も片手を傘の柄に持ち添えたいと思いながら、しかも傘のなかから逃げ出しそうにばかりしていた。
 ふたりは写真屋へ入った。少年の父の官吏が遠く転任する。別れの写真だった。
「どうぞおふたりでここへお並びになって。」と、写真屋は長椅子を指したが、少年は少女と並んで坐ることができなかった。少年は少女のうしろに立って、二人の体がどこかで結ばれていると思いたいために、椅子を握った指を軽く少女の羽織に触れさせた。少女の体に触れた初めだった。その指に伝わるほのかな体温で、少年は少女を裸で抱きしめたようた温かさを感じた。
一生この写真を見る度に、彼女の体温を思いだすだろう。
「もう一枚いかがでしょう。お二人でお並びになったところを、上半身を大きく。」
 少年はただうなずいて、
「髪は?」と、少女に小声で言った。少女はひょいと少年を見上げて頬を染めると、明るい喜びに眼を輝かせて、子供のように、素直に、ばたばたと化粧室へ走って行った。
 少女は店先きを通る少年を見ると、髪を直す暇もなく飛び出して来たのだった。
海水帽を脱いだばかりのように乱れた髪が、少女は絶えず気になっていた。しかし、男の前では恥かしくて、後毛を掻き上げる化粧の真似もできない少女だった。
少年はまた髪を直せということは少女を辱めると思っていたのだった。
 化粧室へ行く少女の明るさは、少年をも明るくした。その明るさの後で、二人はあたりまえのことのように、身を寄せて長椅子に坐った。
 写真屋を出ようとして、少年は雨傘を捜した。ふと見ると、先きに出た少女がその傘を持って、表に立っていた。少年に見られてはじめて、少女は自分が少年の傘を持って出たことに気がついた。そして少女は驚いた。なにごころないしぐさのうちに、彼女が彼のものだと感じていることを現わしたではないか。
 少年は傘を持とうと言えなかった。少女は傘を少年に手渡すことができなかった。けれども写真屋へ来る道とはちがって、二人は急に大人になり、夫婦のような気持で帰って行くのだった。傘についてのただこれだけのことで・・・。



「竜馬がよみがえった」 松本 健一

2014年12月08日 00時05分35秒 | 雑学知識
 「司馬遼太郎を読む」 松本 健一  新潮文庫 2009年(2005年刊行)

 「竜馬がよみがえった」 P-12

 前略

 司馬さんを文学者ととらえると、近代の文学者たちとはちょっと変わったというか、別の視座を用意しなければ評価をしづらいというか、文学史の中にうまくおさまらないような、あるいは文学史自体を超えてしまうような、そういう大きな意味を持っている作家だと考えております。
 というのは、日本の近・現代文学、とくに小説といえば「私小説」、「わたくし小説」でして、極端にいえば「私を見てくれ」(look at me)という文学です。

 私という人間はこのようなものである、世の中には高く評価されないかもしれないが、私には私の生きる価値があると思っているし、私だけの能力を持っている。お金はなく貧乏かもしれないけれど、そういう人間でもちゃんと生きた証(あかし)を残したい――そういうことを世の中に訴えかける、「 look at me」、「私のここを見てくれ」というのが、あるいは「私はこういう人間である」という存在証明が、「私小説」です。夏目漱石にしても、芥川龍之介にしても、それから現代の大江健三郎にしても、そういう文学であります。

 ところが、司馬さんは「私を見てくれ」という形で小説を書いていないのですね。じゃあ、どういう形で書いているのかというと、「私のことなんかよりも歴史を見てください、歴史の中にこんなに素敵な漢(おとこ)たちがいる、こんなに素晴らしい人間たちがいる、こんなに光を放っている歴史上の人物がいるじゃないか」というのです。

 つまり、「私を見てくれ」ではなく「彼を見てくれ」という小説であります。ですから、彼の物語り、つまり「his-story」は「history」、すなわち「歴史」の小説が多い。多いというよりも、それが司馬文学の本質である、ということができるだろうと思います。

 しかし歴史小説家といわれている人々、たとえば松本清張や吉川英治も、みんな「歴史小説を見てくれ」ではないかともいえそうです。しかし司馬さんの特質は、いってみれば「もう一つの日本」を書いている、そこが他の歴史小説家と違う、というふうに私は考えております。

 たとえば司馬さんは坂本竜馬を書いています。もしかしたら、あの明治維新というのは坂本竜馬が創ったのではないだろうか。そうだとするならば、司馬さんはまさに「もう一つの」明治維新の歴史を書いているのであって、これはいわば「もう一つの日本」ではないか、というふうな設問が当然湧いてきて然るべきではないでしょうか。

 中略

 司馬さんが『竜馬がゆく』を書くまでは、明治維新での坂本竜馬の業績というのはほとんど無に近かった。それが司馬さんの『竜馬がゆく』が、明治の革命精神を象徴するような、あるいは明治の国家だけではなく、明治という時代精神から今日に至るまでの大きな国家理想を決めたような人物、それが竜馬であるというふうに歴史の評価を変えてしまったわけですね。

 つまり、司馬さんが『竜馬がゆく』を書いたのは、まさに「もう一つの日本」の物語りを書いたということなのです。それも、「彼のことを見てくれ」という形で書いたのですね。そのことによって、二本の歴史自体が変わってしまったということになるし、今の大学生や高校生にしても、「誰になりたいか」、「理想的な人物は誰か」と聞くと、竜馬が一番多いのです。司馬さんが竜馬のことを書くまでは、そういう現象はなかった。

 後略

「己が心と相対(あいたい)する」 中野 孝次

2014年12月06日 00時01分47秒 | 古典
 「すらすら読める徒然草」 中野 孝次  講談社文庫 2013年(2004年刊行)

 (序段)つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

 「己が心と相対(あいたい)する」 P-14

 有名な序の段だが、この「つれづれ」とは、為すこともなく退屈で、侘しく、さびしくてならない、というような意味ではない。むしろその反対で、身を閑(かん)の状態に置いて、心が外なる物事との交渉を止め、己れの内をのぞきこみ、完全に明確な意識をもって己れと相対(あいたい)している状態を言うのだ、とわたしは解する。それが最善の状態だというのだ。人はこの世に生きているかぎり、ふだんは外界(がいかい)との応接に忙しく、しずかに己が心の声を聴く状態にない。「世に従へば、心、外(ほか)の塵に奪はれてまどひやすく」(第75段)である。それが可能になるのは、自分一人になって、身を「まぎるるかたなく」醒めている閑(かん)の状態に置いて、日ごろは放っておく己れの心と相対したときだ。

 自分が自分と相対する。自分が、外界のことに気をとらわれることなく、自分の心と向かいあう。これは人がつねにやっていることのようでいて、しかし最も行うことの少ない行為だ。己れを省みればわかる。人は大抵日がな一日外部との応接に忙殺されて一日を了(お)えているのである。人が己れと相対するためには、何よりも身を閑暇(かんか)の中において、自分と語り合う時を持たねばならない。そして昔から自分というものにだけ生きようと決意した人は、他のすべてを犠牲にして、そのことに努めてきたのだ。

 中略

 そうやって己が心に正直に対していれば、その考えるところ、価値の置き方、物の判断の仕方が、世間並とまったくちがうようになるのは当然だ。世から見ればそれは狂おしいということにもなろう。だが、何とでも思うがいい。わたしはこの「私」の見るところを正しいとし、何と思われようとかまわず書きつけることにした、という直言がこの「序」なのだと思っている。
 
 「徒然草」はそんなふうに、折々の兼好の心に浮かんだ思いを記していった、文字どおりの随筆である。従って中味はいろんな内容のものが雑然と詰まっている。整然と秩序だてずにあるから面白いのであって、これをたとえば内容ごとにきちんと分類したりしたら「徒然草」の魅力は失せよう。

 後略

「ゆとり」が大人をダメにする 伊集院 静

2014年12月04日 00時19分27秒 | エッセイ(模範)
 「大人の流儀」 エッセイ集  伊集院 静  講談社 2011年

 「ゆとり」が大人をダメにする P-52

 明治の文学者、正岡子規は晩年の数年間で日本の俳句大系独りでまとめ、俳句が文学であることを世に知らしめた。彼がいなければ俳句はいまだもってご隠居さんの遊び事に過ぎなかったかもしれない。

 今、子規の小説を執筆している関係で数年前から子規を見つめはじめた時、いくつかのわからない点があった。そのひとつが三十歳そこそこの若者が明治以前に厖大にあった俳句の作品と俳人たちをどうやって整理し、分析、解析し、ひとつの文学大系にいたらしめたかである。しかもすでに子規は病床の身であった。

 子規がこしらえた年表、作者ごとの解説の冊子、原稿は枕元に積めば天井に届くほどである。その年表、山と積まれた草稿も写真で見た。人間業とは思えない。
 子規は文章、作品を正確に読み解くことも、執筆するのも驚くほど速く、しかも丁寧だった。
―――なぜ独力でこの量をなし得たか?
 答えの一端を書くと、子規にその能力を与えた教育があった。

 子規六歳の折(明治五年)父が酒の飲み過ぎで他界し、一家は若い妻と子規に三歳の妹が残され、路頭に迷う。この時、若い母、八重子は息子の将来のためにしっかりした教育を受けさせることを決意する。幸い八重の父は旧松山藩で一、ニと言われた儒学者だった。大原観山という。この父の下に息子を通わせる。子規は勿論、右も左もわからぬ。文章ひとつ読んだことのない少年である。

 母は朝四時半に息子を起こす。少年は訳がわからない。眠い。その少年の鼻先に母は好物の饅頭や餅をかかげ、手を伸ばした子を少しずつ起こし、顔を洗わせ、薄暗い道を手習いのための机板をかかえさせ、家を出す。やがて塾が見えると、そこに門弟を数多(あまた)かかえた観山みずからが夜明けの門前に立って孫を迎えた。

 授業は素読である。漢籍、すなわち漢詩を祖父が読み、孫は文字を目で追い、耳に聞こえたとおり音読をする。内容は勿論、理解できるはずがない。これをくり返すと子規はほどなく孟子の詩を読めるようになった。天才か?違う。誰だって子供の時、素読をくり返したら読めるようになるし、諳(そらん)んじる子供も出る。子供の能力とはそういうものだ。観山が体調を崩した後も彼はしかるべき門弟をつけて素読を続けさせる。

 実はこの時にできた素養こそが少年が成長した後、挑(いど)むべき仕事を見つけ出した時の最大の力となったのである。

「ゆとり教育」では子規は生まれなかった。

「夕食のタクアン・・・・・」 丸谷 才一

2014年12月02日 00時11分01秒 | エッセイ(模範)
 「男のポケット」 エッセイ集 丸谷 才一  新潮文庫 1979年

 「夕食のタクアン・・・・・」 P-66

 二宮尊徳といふ男が嫌ひである。どうも気にくはない。
 これには、尊徳さんには責任のないところもある。戦前の日本では、薪をしよつて歩きながら本を読む少年金次郎といふのは、文部省が子供に押しつけた偶像であつた。修身の教科書にも載ってゐたし、それからこれはわたしが中学生になつてからだが、少年金次郎の姿が銅像となつて、日本国中のたいていの小学校に建てられたのだ。一体学校で習ふ教科書といふのは、おもしろくないもので、シェイクスピアだつて、『源氏物語』だつて、教科書で読めば反感がさきに立つ。まして、修身の本で、あらゆる人間の模範のやうに書かれてゐるのに出会へば、子供ごころにも癪にさはつてくる。学校の銅像になんかなつた人間が尊敬と愛着の対象となり得ないといふ事情は、敢へて断るまでもない。
 
 これはわたし一人だけの反応ではなかつたやうで、当時も、尊徳への人気はあまりパツとしなかつた。たとへば西郷隆盛とか、大石内蔵助とか、ああいふ人とくらべれば、さっぱりだつたのである。まあ、この二人などは、お上に弓を引いた反逆者だからこそ人気があるので、その点、尊徳さんは地味だから、ずいぶん損をしてゐた。人々は、さういふ男を尊敬せよと命じられるのが厭さに、あるいは、さういふおとこのやうにせつせと働けと言はれるのが厭さに、歩きながら本を読んでは眼に悪いぢゃないか、なんて、堂々たる(?)反論を展開したのである。

 しかし、わたしが本式に彼を嫌ひになつたのは、後年、何かの本で、彼にまつはる逸話を読んでからである。それには、尊徳先生を慕つて弟子入りした若い男の話があつたのだ。
 その青年は、晩年の尊徳のところへ何度も訪ねて、さんざん門前払ひをくつたあげく、何十回かにやうやく面会することができ、それからまた懇願・哀願をくりかへした末、つひに入門を許される。そして、尊徳門下となつた彼が最初に言ひつけられた仕事は、夕食の料理番であつた。
 が、尊徳老人はその若者が運んで来た夕餉の膳をじろりと見て、
「手をお出しなさい」
 と言つた。若者は手を出す。尊徳はその手に、皿の上のタクアンを箸でつまんでのせてやつた。タクアンは、下のところがよく切れてなくて、一つづきになってゐる。

 尊徳はおごそかに言つた。
「これを持つて、お帰りなさい」
 といふ話なのだが、報徳教の信者ならば、きつと、大先生はかうすることによつて、どんな些細なことでも入念にやらなくちやいけない、その小事が結局は大事である、といふことを教へたのだ、骨身にしみるやうに教へて下さつたのだ、と説明するだろう。しかしわたしはかういふ芝居がかつたやり方が嫌ひなのである。

 わたしに言はせれば、タクアンはしよせんタクアンにすぎない。天道と人道との調和を学びたい青年にタクアンを切らせるのも詰まらぬハッタリだが、やつとの思ひで入門した弟子を、こんなことで破門するのは冷酷である。かういふ態度はまことに下等な精神主義で、教育者とか批評家とかが自分を偉さうに見せかけたいときに使ふ安易な手にすぎないのだ。
 もちろん、さういふ手を使って自己満足にひたる人たちがみんな、尊徳程度に偉いといふわけではない。

 本書の表記法について
a-1 漢字は当用漢字とか音訓表とかにこだはらないで使ふ。
a-2 字体は原則として新字。ただし新字のうちひどく気に入らないもののときは正字。
  例。昼→畫。尽→盡。蔵→藏。芸→藝。証→證。
b-1 仮名づかひは歴史的仮名づかひ。例。会ふ。をかしい。あぢさゐ。
b-2 従つて促音・拗音は小さくしない。例。あっさり→あつさり。キャッキャッ→キヤツキヤツ。
b-3 ただし片仮名の外来語の場合は促音・拗音を小さくする。例。ヨーロッパ。カチューシャ。
b-4 歴史的仮名づかひのうち、特に誤りやすいもの。「あるいは」(アルヒハとしない)。
c-1 ただし字音仮名づかひは、原則として現代仮名づかひに従ふ。例。怪鳥(カイチョウ←クワイテ  ウ)。草稿(ソウコウ←サウカウ)。
c-2 しかし「嬉しさう」などの「さう」(相)、「花のやう」などの(やう)(様)は、字音ではあるが、もはや大和ことばも同然と考へて、「さう」「やう」と書く。(「相似」はソウジ、「模様」はモヨウ。)
c-3 熟語のせいでの促音は漢字の原音を尊ぶ。例。学校(ガクコウ←ガツコウ)。牧歌(ボクカ←ボツカ)。
c-4 チヂ、ツヅの清濁両音のある漢字の場合、ヂヅを認める。例。地獄(ヂゴク←ジゴク)。連中(レンヂュウ←レンジュウ)。僧都(ソウヅ←ソウズ)。従つて微塵(ミジン←ミヂン)
c-5 字音の仮名づかひのうち、特に誤りやすいもの。「・・・のせい」(セヰとしない。「所為」の字音ソイの転だから)。
d-1 送り仮名は送りすぎないやうにする。例。当ル←当タル。受付←受け付け。
                                      丸谷 才一

 丸谷才一は歴史的仮名遣いで書いている。
(入力するのは大変、オレは「言う」、と打ってから、「う」を消し「ふ」に直している)
今は歴史的仮名遣いを入力するソフトがあるらしい。