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「竜馬がよみがえった」 松本 健一

2014年12月08日 00時05分35秒 | 雑学知識
 「司馬遼太郎を読む」 松本 健一  新潮文庫 2009年(2005年刊行)

 「竜馬がよみがえった」 P-12

 前略

 司馬さんを文学者ととらえると、近代の文学者たちとはちょっと変わったというか、別の視座を用意しなければ評価をしづらいというか、文学史の中にうまくおさまらないような、あるいは文学史自体を超えてしまうような、そういう大きな意味を持っている作家だと考えております。
 というのは、日本の近・現代文学、とくに小説といえば「私小説」、「わたくし小説」でして、極端にいえば「私を見てくれ」(look at me)という文学です。

 私という人間はこのようなものである、世の中には高く評価されないかもしれないが、私には私の生きる価値があると思っているし、私だけの能力を持っている。お金はなく貧乏かもしれないけれど、そういう人間でもちゃんと生きた証(あかし)を残したい――そういうことを世の中に訴えかける、「 look at me」、「私のここを見てくれ」というのが、あるいは「私はこういう人間である」という存在証明が、「私小説」です。夏目漱石にしても、芥川龍之介にしても、それから現代の大江健三郎にしても、そういう文学であります。

 ところが、司馬さんは「私を見てくれ」という形で小説を書いていないのですね。じゃあ、どういう形で書いているのかというと、「私のことなんかよりも歴史を見てください、歴史の中にこんなに素敵な漢(おとこ)たちがいる、こんなに素晴らしい人間たちがいる、こんなに光を放っている歴史上の人物がいるじゃないか」というのです。

 つまり、「私を見てくれ」ではなく「彼を見てくれ」という小説であります。ですから、彼の物語り、つまり「his-story」は「history」、すなわち「歴史」の小説が多い。多いというよりも、それが司馬文学の本質である、ということができるだろうと思います。

 しかし歴史小説家といわれている人々、たとえば松本清張や吉川英治も、みんな「歴史小説を見てくれ」ではないかともいえそうです。しかし司馬さんの特質は、いってみれば「もう一つの日本」を書いている、そこが他の歴史小説家と違う、というふうに私は考えております。

 たとえば司馬さんは坂本竜馬を書いています。もしかしたら、あの明治維新というのは坂本竜馬が創ったのではないだろうか。そうだとするならば、司馬さんはまさに「もう一つの」明治維新の歴史を書いているのであって、これはいわば「もう一つの日本」ではないか、というふうな設問が当然湧いてきて然るべきではないでしょうか。

 中略

 司馬さんが『竜馬がゆく』を書くまでは、明治維新での坂本竜馬の業績というのはほとんど無に近かった。それが司馬さんの『竜馬がゆく』が、明治の革命精神を象徴するような、あるいは明治の国家だけではなく、明治という時代精神から今日に至るまでの大きな国家理想を決めたような人物、それが竜馬であるというふうに歴史の評価を変えてしまったわけですね。

 つまり、司馬さんが『竜馬がゆく』を書いたのは、まさに「もう一つの日本」の物語りを書いたということなのです。それも、「彼のことを見てくれ」という形で書いたのですね。そのことによって、二本の歴史自体が変わってしまったということになるし、今の大学生や高校生にしても、「誰になりたいか」、「理想的な人物は誰か」と聞くと、竜馬が一番多いのです。司馬さんが竜馬のことを書くまでは、そういう現象はなかった。

 後略

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