民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「夕食のタクアン・・・・・」 丸谷 才一

2014年12月02日 00時11分01秒 | エッセイ(模範)
 「男のポケット」 エッセイ集 丸谷 才一  新潮文庫 1979年

 「夕食のタクアン・・・・・」 P-66

 二宮尊徳といふ男が嫌ひである。どうも気にくはない。
 これには、尊徳さんには責任のないところもある。戦前の日本では、薪をしよつて歩きながら本を読む少年金次郎といふのは、文部省が子供に押しつけた偶像であつた。修身の教科書にも載ってゐたし、それからこれはわたしが中学生になつてからだが、少年金次郎の姿が銅像となつて、日本国中のたいていの小学校に建てられたのだ。一体学校で習ふ教科書といふのは、おもしろくないもので、シェイクスピアだつて、『源氏物語』だつて、教科書で読めば反感がさきに立つ。まして、修身の本で、あらゆる人間の模範のやうに書かれてゐるのに出会へば、子供ごころにも癪にさはつてくる。学校の銅像になんかなつた人間が尊敬と愛着の対象となり得ないといふ事情は、敢へて断るまでもない。
 
 これはわたし一人だけの反応ではなかつたやうで、当時も、尊徳への人気はあまりパツとしなかつた。たとへば西郷隆盛とか、大石内蔵助とか、ああいふ人とくらべれば、さっぱりだつたのである。まあ、この二人などは、お上に弓を引いた反逆者だからこそ人気があるので、その点、尊徳さんは地味だから、ずいぶん損をしてゐた。人々は、さういふ男を尊敬せよと命じられるのが厭さに、あるいは、さういふおとこのやうにせつせと働けと言はれるのが厭さに、歩きながら本を読んでは眼に悪いぢゃないか、なんて、堂々たる(?)反論を展開したのである。

 しかし、わたしが本式に彼を嫌ひになつたのは、後年、何かの本で、彼にまつはる逸話を読んでからである。それには、尊徳先生を慕つて弟子入りした若い男の話があつたのだ。
 その青年は、晩年の尊徳のところへ何度も訪ねて、さんざん門前払ひをくつたあげく、何十回かにやうやく面会することができ、それからまた懇願・哀願をくりかへした末、つひに入門を許される。そして、尊徳門下となつた彼が最初に言ひつけられた仕事は、夕食の料理番であつた。
 が、尊徳老人はその若者が運んで来た夕餉の膳をじろりと見て、
「手をお出しなさい」
 と言つた。若者は手を出す。尊徳はその手に、皿の上のタクアンを箸でつまんでのせてやつた。タクアンは、下のところがよく切れてなくて、一つづきになってゐる。

 尊徳はおごそかに言つた。
「これを持つて、お帰りなさい」
 といふ話なのだが、報徳教の信者ならば、きつと、大先生はかうすることによつて、どんな些細なことでも入念にやらなくちやいけない、その小事が結局は大事である、といふことを教へたのだ、骨身にしみるやうに教へて下さつたのだ、と説明するだろう。しかしわたしはかういふ芝居がかつたやり方が嫌ひなのである。

 わたしに言はせれば、タクアンはしよせんタクアンにすぎない。天道と人道との調和を学びたい青年にタクアンを切らせるのも詰まらぬハッタリだが、やつとの思ひで入門した弟子を、こんなことで破門するのは冷酷である。かういふ態度はまことに下等な精神主義で、教育者とか批評家とかが自分を偉さうに見せかけたいときに使ふ安易な手にすぎないのだ。
 もちろん、さういふ手を使って自己満足にひたる人たちがみんな、尊徳程度に偉いといふわけではない。

 本書の表記法について
a-1 漢字は当用漢字とか音訓表とかにこだはらないで使ふ。
a-2 字体は原則として新字。ただし新字のうちひどく気に入らないもののときは正字。
  例。昼→畫。尽→盡。蔵→藏。芸→藝。証→證。
b-1 仮名づかひは歴史的仮名づかひ。例。会ふ。をかしい。あぢさゐ。
b-2 従つて促音・拗音は小さくしない。例。あっさり→あつさり。キャッキャッ→キヤツキヤツ。
b-3 ただし片仮名の外来語の場合は促音・拗音を小さくする。例。ヨーロッパ。カチューシャ。
b-4 歴史的仮名づかひのうち、特に誤りやすいもの。「あるいは」(アルヒハとしない)。
c-1 ただし字音仮名づかひは、原則として現代仮名づかひに従ふ。例。怪鳥(カイチョウ←クワイテ  ウ)。草稿(ソウコウ←サウカウ)。
c-2 しかし「嬉しさう」などの「さう」(相)、「花のやう」などの(やう)(様)は、字音ではあるが、もはや大和ことばも同然と考へて、「さう」「やう」と書く。(「相似」はソウジ、「模様」はモヨウ。)
c-3 熟語のせいでの促音は漢字の原音を尊ぶ。例。学校(ガクコウ←ガツコウ)。牧歌(ボクカ←ボツカ)。
c-4 チヂ、ツヅの清濁両音のある漢字の場合、ヂヅを認める。例。地獄(ヂゴク←ジゴク)。連中(レンヂュウ←レンジュウ)。僧都(ソウヅ←ソウズ)。従つて微塵(ミジン←ミヂン)
c-5 字音の仮名づかひのうち、特に誤りやすいもの。「・・・のせい」(セヰとしない。「所為」の字音ソイの転だから)。
d-1 送り仮名は送りすぎないやうにする。例。当ル←当タル。受付←受け付け。
                                      丸谷 才一

 丸谷才一は歴史的仮名遣いで書いている。
(入力するのは大変、オレは「言う」、と打ってから、「う」を消し「ふ」に直している)
今は歴史的仮名遣いを入力するソフトがあるらしい。