民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「昔話を幼い子に語る」 藤田 浩子 その4

2013年10月18日 00時08分59秒 | 民話(語り)について
 「子供と読書」 5/6月号 393号 2012年4月発行
 特集 日本の昔話 語ること、伝えること


 「昔話を幼い子に語る」藤田 浩子 その4

 <昔話の世界を伝えたい>

 大人になって、幼い子を相手にする仕事についた私としては、
なんとか私が楽しんできた昔話の世界を、子どもたちに伝えたくて、あれこれ工夫しました。
その結果、小道具をたくさん作ることになり、どうせ作るなら、昔からのおもちゃを利用して、
そのおもちゃの作り方も伝えたいと思うようになったのです。

 そこまでして、幼い子になぜ昔話を?と、尋ねられることもあります。
幼い子は、生活に密着した話が好きなのだから、もっと現代の暮らしに合うような話の方が、
無理して昔話を聞かせるよりいいのではないかという質問です。

 でも、昔話は、長い間子どもに語られてきたのです。
もちろん大人も楽しんできましたけれど、
語り方によっては幼い子でも楽しめる話がたくさんあるのです。

 テレビが茶の間に入り込んでくる前の子どもたちは、今よりずっと聞き上手だったし、
大人も話し上手だったように思いますが、工夫さえすれば、
今の子どもたちだってしっかり聞いてくれるのです。

 テレビから絵入り鳴り物入りで、上手な俳優さんが語ってくれる時代、
年寄りの語りなんぞ見向きもされないからと、
早々にお孫さんに語るのをあきらめてしまった方もいますけれど、
私たちには「向き合って」「子供の様子を見ながら」「生の声で語る」という強みがあります。

 長いこと語り継がれてきた昔話には、生きていく力や、暮らしに役立つ知恵や、
さまざまな人間模様が、楽しく詰まっています。
その力を、その知恵を、その楽しさを、なんとか子どもたちに伝えたいと思います。

 幼いときに聞いた話が、根っこになって、その子の人間性にきっといい影響を与える、
私は自分の経験からそう思っているのですから、
なんとか幼い子どもたちにも昔話を伝えたいと思っているのです。



「昔話を幼い子に語る」 藤田 浩子 その3

2013年10月16日 00時53分19秒 | 民話(語り)について
 「子供と読書」 5/6月号 393号 2012年4月発行
 特集 日本の昔話 語ること、伝えること


 「昔話を幼い子に語る」藤田 浩子 その3

 <生活環境が変わっても>

 子どもたちが昔話の世界を言葉だけで想像できなくなってきた理由は、
生活するための道具や様式がわからなくたったというだけではありません。
日常の生活環境が変わってしまったこともあります。

 テレビや他のメディアの出現で、日常生活の中から、言葉で伝え合うという習慣が薄れてきたのです。
大人も「言葉で伝える」ことが下手になったし、
子どもも「聞く」ことが下手になってきたように思います。
 
 今のようにケータイですぐ撮れるほど写真も身近になっていなかったころは、
日常の生活が会話で成り立っていたのです。

「道端に赤い花が咲いていてね、八重の花びらがきれいに重なり合っていたから、
思わず近づいてみたらさ、花の下にちょっと厚ぼったい葉っぱが一枚あって、
よくよく見たら葉っぱと同じ色の青蛙がじっと葉っぱの上にうずくまっていたのよ」
と、驚きをこめた言葉で伝えれば、聞く方もその言葉からその花と蛙とを頭の中に描きました。

 現代のように「おもしろいものを見たよ、ほらね」
と、携帯で撮った写真を見せられれば、そこに言葉はありません。
まだるっこいようですが、テレビや写真がここまで身近になる前は、
日常の生活に言葉がたくさん行き来していたのです。
それが想像力を高める力になっていたのではないでしょうか。

 確かに私の子ども時代は昔話に近い生活をしていましたから、
昔話の世界も理解しやすかったのですけれど、それだけではありません。
「聞く力」もしっかり育ったように思います。

「むかし まずあったと」とか、
「むかぁし むかし」などの言葉で始まる昔話は、
ウソ話であり、架空の話であるのが前提でしたから、
子どもたちも日常とは違う世界を言葉から想像していたのです。




「昔話を幼い子に語る」 藤田 浩子 その2

2013年10月14日 00時28分17秒 | 民話(語り)について
 「子供と読書」 5/6月号 393号 2012年4月発行
 特集 日本の昔話 語ること、伝えること


 「昔話を幼い子に語る」藤田 浩子 その2

 <聞き手に合わせて語る>

 私は、その小父さんの語り口調から
「幼い子どもに語るときには、おはなしの筋を伝えることより、相手を楽しませることのほうが大事」
なのだということを学んだように思います。

 相手を喜ばせ、楽しませるには、聞き手の理解度に合わせて語ることが必要です。
当時の妹のように赤ん坊の域をでないような子には、歌うように語って、
体ごと一緒に遊んで、その楽しさを伝えると喜ぶのです。

 もう少し大きくなって、「おはなし」として聞けるようになったら、
物語を自分の頭の中に描けるように、小父さんは手振り身振りだけでなく、絵や人形を使って、
その子が頭の中におはなしの世界を描く作業を手伝っているつもりなのです。

 たとえば、「一粒は千粒」を語るときには、爺様の人形と狸の人形を使うと、
「一っ粒は千粒になぁれ」と、歌う爺様と、
「一っ粒は千粒のまぁまよ」と囃す狸とがはっきり区別できるようですし、
爺様が狸を追いかけて捕まえようとする場面も、爺様をからかいながら逃げる狸を楽しんでくれます。

 その次の段階になれば、言葉だけでおはなしの世界を描けるようになるでしょう。
ただ、子どもの側から考えますと、いくら言葉だけで聞くことができる年齢になったとしても、
山に芝刈りに行ったり、川に洗濯に行ったりという日常とかけ離れた情景は、
今の子どもたちには想像しにくいことも確かです。

 この半世紀余り、私たちの生活は大きく変わり、子どもを取り巻く環境もすっかり変わりました。
私が子どものころまであった囲炉裏も井戸も藁葺き屋根の家も、子どもたちのまわりには見当たりません。
これだけ明るくなってしまっては、部屋の隅っこに住むという「隅っこお化け」も想像しにくでしょう。
それで、私は絵を使ったり、ちょっと手品がかった小道具を使ったりして、
その年齢の子どもたちも楽しんで昔話を聞くことができるように工夫しています。

「昔話を幼い子に語る」 藤田 浩子 その1

2013年10月12日 00時10分08秒 | 民話(語り)について
 「子供と読書」 5/6月号 393号 2012年4月発行
 特集 日本の昔話 語ること、伝えること

 「昔話を幼い子に語る」藤田 浩子 その1

 <畑の小父さんに聞いた昔話>

 私は子どもの頃、隣の畑を耕しにくる小父さんに昔話を聞きました。
小父さんは小学生の私に語ってくれるときには、
「むかぁし まずあったと。爺様と婆様がいてなぁ・・・」
と、語り始めるのですが、八歳下の赤ん坊だった妹を連れているときには、
妹を喜ばせるような話し方をしてくれました。

 たとえば、一寸法師なら、いきなりお椀の舟に乗っての川下りです。
小父さんは妹を膝に乗せて
「ゆうらり ゆうらり ゆらりんこ」
と、優しく揺らしたかと思うと、
「ときどき大きな波がきて、ざんぶり ざんぶり ざぁんぶりこ」
と、膝の上の妹を右膝から左膝に大げさに移したりして遊ばせてくれました。
膝を行き来するたびに、妹はきゃっきゃと喜びます。

 桃太郎を語るときには、膝に乗せた妹を手を取ってお団子をまるめるしぐさをし、
「きびだんご、きびだんご にっぽんいちの きびだんご ころころまるめて きびだんご」
と、歌いながら、きびだんごを作ります。
妹が喜べば、十個でも二十個でも作るのです。

 その後、犬が来て
「桃太郎さん、こっしゃつけてるの、なぁんだン?」
と、聞き、桃太郎が、
「日本一のきびだんご」と、応えます。
「ひとつくんにゃ、供すっから」
と、犬が言えば、
「したれば、一緒に食うナイ」
と、言って、袋からきびだんごを出すまねをし、小父さんも妹も私もあむあむあむと、食べました。

 次に猿が来て、雉子が来て、そのたびに、
「桃太郎さん、こっしゃつけてるの、なぁんだン?」
と、聞き、今度は私と妹が、
「日本一のきびだんご」と、応えます。
「ひとつくんにゃ、供すっから」
「したれば、一緒に食うナイ」
と、言って、袋からきびだんごを出すと、みんなで一緒にあむあむあむと、食べるのです。

 「ほおでな、桃太郎は犬と猿と雉子と一緒に鬼退治に行ったと」
で、おしまいです。


「エキストラ」 マイ・エッセイ 3

2013年10月08日 00時14分23秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
   エキストラ
                       

 シルバー大学を卒業して、この十月で、ちょうど一年になる。
 八月の初め、シルバー大学、最大の行事である学校祭を見に、駒生町の教育会館まで行ってきた。一年前、私はここで、民話語り部、太極拳、アフリカンダンスと、三つのクラブで出演した。クラブの後輩たちがどんな演技をするか、気になっていたのだ。
 懸命に演技する後輩たちを、去年の自分とダブらせて感慨深く見入っていた。
 ロビーで、見たことのある卒業生たちが話をしていた。
「なんだ、その格好は? お前も応援に来たのか」
「いやぁ、人数が足りないからって、頼まれちゃってな」
 部員が少ないクラブではエキストラを頼むことが多い。エキストラとは部員だけでは人数が少なくて格好がつかないとき、他に応援を頼んで来てもらう人のことである。 

 エキストラでは苦い思い出がある。
 もう四十年以上も前のこと、東京の大学に入った私は、音楽が好きだったので、オーケストラ部に入った。と、言えば、聞こえがいい。本当はクラスで一緒になった女性に恋をして、その彼女がオーケストラ部に入っていたからだ。
 彼女はチェロ、私は一番近くにいるコントラバスを選んだ。コントラバスは部長ひとりしかいなくて、私が入って二人だった。
 夏休み、志賀高原での合宿、夜、外に出て、大の字になって眺めた星空は、今でも忘れない。
 夏休みが終わって、定期演奏会の話を聞いた。オーケストラ部は創立してまだ日が浅く愛好会だったが、クラブに昇格するためには、演奏会をやるなど、実績が必要だと言う。そして、交響楽をやるには部員の倍以上のエキストラが必要だった。私はエキストラなしでやりたいと、ひとり主張した。だが、多勢に無勢、受け入れられず、私はオーケストラ部をやめた。
 定期演奏会、聴きに行った。交響楽では、コントラバスは八人で演奏する。私がやめてひとりになったコントラバスには七人のエキストラがいた。曲はベートベンの運命、ジャジャジャジャーーーン。私の中でなにかがくずれた。
 
 学校祭のあと、エキストラが多いことが問題になったらしい。そんな中で、部員が少なくて廃部に追い込まれそうなのに、断固としてエキストラを拒否したクラブがあったと聞いた。
「えらい!」私はそのクラブの部長を抱きしめたい思いにかられた。

 えっ? チェロの彼女とはどうなったかって? ・・・それはヒ・ミ・ツ。