民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「おしどり」 小泉 八雲

2013年10月06日 00時14分27秒 | 民話(おとぎ話・創作)
 「おしどり」 小泉 八雲(ラフカディオ・ハーン) 西田 佳子 訳 角川つばさ文庫

 陸奥(むつ)の国の、田村の郷(ごう)というところに、孫充(そんじゅう)という名の猟師がいた。
 ある日、孫充は狩りに出かけたが、何もとれなかった。
 しかし、帰り道、赤沼と呼ばれるところを通りかかったとき、これから渡ろうという川を、
おしどりのつがいが泳いでいるのに気がついた。
 おしどりを殺すのはよくないことだが、孫充はとてもおなかがすいていたので、
弓矢でおしどりをねらった。
 矢は、おすに当たった。
めすは、向こう岸のまこもの中に逃げていった。

 孫充は、しとめた鳥を手にさげて家に帰り、それを料理した。
 その夜、孫充は、物悲しい夢を見た。
 美しい女が部屋に入ってきて、孫充の枕元に立つと、しくしく泣きはじめた。
 あまりにも悲しそうに泣くので、聞いている孫充まで、胸がはりさけるように悲しくなってきた。
 女は、泣きながら、孫充に言った。
 「どうしてですか?・・・・・
ねえ、どうして、夫を殺したの?
夫は何も悪いことをしていないのに!
わたしたちは、赤沼でしあわせにくらしていたんです。・・・・・
なのに、あなたは、夫を殺してしまった!
夫があなたに何をしたと言うんです?
 自分がどんなにひどいことをしたか、わかっていないんですね。
あなたは、夫だけでなく、わたしも一緒に殺したんですよ。・・・・・
だって、わたしは、夫なしには生きられませんから。・・・・・
わたしは、そのことを言いにきたんです」

 それから、女は、またひとしきり泣いた。
悲しげな声が、聞いている孫充の骨のずいにしみこむほどだった。
 泣き声の合い間合い間に、女は、こんな詩を読んだ。

 日暮るれば さそいしものを 赤沼の まこもがくれの ひとり寝ぞうき

 (日が暮れたら、一緒に帰りましょうと夫を誘っていたのに、今は、その夫がいなくなってしまった。
今まで、夫婦一緒に楽しく暮らしていた赤沼。そこに生えるまこものかげで、一人ぼっちで寝る夜は、
寂しくてどうしようもありません)

 そして、最後に、こう言った。
 「あなたは知らないんですね。
あなたにはわからないんですね。
自分がどんなことをしてしまったのか。
明日、赤沼に来れば、わかります。
そう、きっと、わかります・・・・・」
 はらはらと涙を流しながら、女は出ていった。

 朝になって目が覚めたとき、この夢は、孫充の記憶にはっきり残っていた。
とてもいやな気分だった。
 女の言葉がよみがえってくる。
 「明日、赤沼に来れば、わかります。そう、きっと、わかります・・・・・」
いますぐ赤沼に行ってみよう、と孫充は決めた。
行けば、あれがただの夢だったのか、そうでなかったのか、はっきりするだろう。

 こうして、孫充は赤沼にやって来た。
川の土手に近づくと、めすのおしどりが、一羽で泳いでいるのが見えた。
同時に、おしどりのほうも、孫充に気がついたらしい。
 しかし、逃げるどころか、まっすぐ孫充に向かって来る。
 不思議なことに、その目も、まっすぐ孫充を見つめているようだ。
 そして、突然、めすのおしどりは、くちばしを自分の体につき立てて、孫充の目の前で死んでしまった。

 孫充は頭を剃り、僧になった。

「瓜姫子」 宮本 常一

2013年10月04日 00時25分24秒 | 民話(昔話)
 「瓜姫子」  周防(すおう)大島 昔話集  宮本 常一 著  河出書房新社 2012年
        昭和31年に大島文化研究連盟によって、謄写印刷で発行されたものの復刻版。 

 昔、あるところに、爺と婆(ばい)とがあった。

 爺は山へ木をこりに行き、婆は川へどんだ(ぼろ布・作業衣)を洗いに行った。
婆が川でどんだを洗いようると、上の方から大けな瓜(うり)が とんぷくとんぷく 流れて来た。
婆がそれをとって食うてみると、あんまりうまいけえ、
「も一つ流れてこーいや、じいにとてんでやァろーけえ」と、言った。

 すると、また、とんぷくとんぷく 流れて来た。
婆はそれを拾うて、また、ぐじぐじぐじぐじぐじいっと、食うてしもうた。
それから、また、
「も一つ流れてこーいや、じいにとてんでやァろーけえ」と、言った。

 すると、また、とんぷくとんぷく 流れて来た。
婆はそれを拾うて、また、ぐじぐじぐじぐじぐじいっと、食うてしもうた。
それから、また、
「も一つ流れてこーいや、じいにとてんでやァろーけえ」と、言った。

 すると、また、とんぷくとんぷく 流れて来た。
今度は食わずに家へ持ってかえって、戸棚の中へしもうておった。

 昼時分になって爺が山から戻って来た。
「婆、婆、はらがへってどもならん。何か食うものはないか」と、聞いた。
婆はさっそく 瓜を食わせてやろうと思って戸棚をあけた。

 すると、そこには美しいお姫さまが歌をうたいながら機(はた)を織っていた。

 きたんたたん ばったんたん
 三日に三反 ちゃんころりん
 ばーい くーだ(管)がないけえ 巻いてくれ
 はさみがないけえ とってくれ

 それでおしまい

 (宮本常一の)母から聞く、東和町長崎

「移りゆく正月風景」 宮本 常一 

2013年10月02日 23時27分38秒 | 民話の背景(民俗)
 「移りゆく正月風景」 歳時習俗事典  宮本 常一  八坂書房 2011年発行

 人々の年齢を満何歳でかぞえるようになって、正月はしだいにさびれはじめたという。
もとはみな正月にいっせいに年をとったものである。
しかし満何歳ということになると、生年月日はそれぞれちがっているのであるから、年をとる日も
一人ひとりでちがってくる。それだけではない。
ちかごろは都会でクリスマスがはやるようになり門松やささ竹、しめかざりなど、
クリスマスのまえにたてるふうが生じて、正月にはささ竹など、もうしなびてしまっているのが多く、
かえって正月をうらぶれてさびしいものにしてしまった。

 とくに、正月にはどこでも凧をあげたものだったが、電線がはりめぐされるようになって、
冬空を色どるさまざまの凧の姿がきえてひさしい。

 そればかりではない。年のはじめのめでたいことばをとなえつつ家々を門付けしてあるいた芸能人も、
近ごろはめっきりへった。
九州博多の町で、いま五月三日から五日にかけて行われているドンタクの行事も、もとは正月五日に
行われていたのである。昔は松ばやしといわれていた。
一月十四日に行われていたモグラウチなども、いまはほとんど見かけなくなった。
棒の先に藁(わら)をくくりつけたもので土を打ちつつ、モグラウチのうたをうたったもんだが、
おとずれた家に若妻がいると、そのモグラ打ち棒で女のしりをたたいた。
そうすると妊娠すると考えられた。 

 中略

 だが、愛知県三河山中で行われる花祭りは、そこが不便な山間であるためであろうか、
いまも昔ながらに夜を徹して、頭屋(とうや)の家で数々の舞いが行われる。
神楽(かぐら)の一種なのである。

 それも昔とはだいぶ様子がかわってきた。
昨年(昭和36年)正月、私は久しぶりに御園(みその)というところまで見にいった。
その日は臨時のバスも何台も出た。
小さなひっそりとした山村に、それほどの人がはいりこめば、夜はさぞにぎわうであろうと思ったが、
夕飯がすんで、舞いがはじまっても、舞い人以外に見物人は二、三人にすぎぬさびしさだった。
見物の客はどこへいったのだろう。
もおてゃ宵の口からにぎわったものだがと思っていると、十二時すぎてぞろぞろ出てきて、
舞殿(まいどの)のあたりはあき地も道も人でいっぱいになった。
宵の口はコタツにあたりながらテレビを見ていたのだという。
テレビが古い行事をしだいに侵蝕しはじめたのである。
それでも、テレビの方は十二時をすぎればやむから、それからさきでも花祭りを見ることはできる。

 舞いはそれから朝日がのぼり、やがて昼になり、夕方まで続いたのだが、
私はその終わりまで見ないで昼下がりに山を下りた。
 「みな出稼ぎにゆくようになって、舞う人だんだん少なくなってきます」
と、村の長老はなげいていたが、たとえ残っていくにしても、
老人と子どもだけで行わなければならぬようなことになるのではなかろうか。

 後略