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「昔話を幼い子に語る」 藤田 浩子 その3

2013年10月16日 00時53分19秒 | 民話(語り)について
 「子供と読書」 5/6月号 393号 2012年4月発行
 特集 日本の昔話 語ること、伝えること


 「昔話を幼い子に語る」藤田 浩子 その3

 <生活環境が変わっても>

 子どもたちが昔話の世界を言葉だけで想像できなくなってきた理由は、
生活するための道具や様式がわからなくたったというだけではありません。
日常の生活環境が変わってしまったこともあります。

 テレビや他のメディアの出現で、日常生活の中から、言葉で伝え合うという習慣が薄れてきたのです。
大人も「言葉で伝える」ことが下手になったし、
子どもも「聞く」ことが下手になってきたように思います。
 
 今のようにケータイですぐ撮れるほど写真も身近になっていなかったころは、
日常の生活が会話で成り立っていたのです。

「道端に赤い花が咲いていてね、八重の花びらがきれいに重なり合っていたから、
思わず近づいてみたらさ、花の下にちょっと厚ぼったい葉っぱが一枚あって、
よくよく見たら葉っぱと同じ色の青蛙がじっと葉っぱの上にうずくまっていたのよ」
と、驚きをこめた言葉で伝えれば、聞く方もその言葉からその花と蛙とを頭の中に描きました。

 現代のように「おもしろいものを見たよ、ほらね」
と、携帯で撮った写真を見せられれば、そこに言葉はありません。
まだるっこいようですが、テレビや写真がここまで身近になる前は、
日常の生活に言葉がたくさん行き来していたのです。
それが想像力を高める力になっていたのではないでしょうか。

 確かに私の子ども時代は昔話に近い生活をしていましたから、
昔話の世界も理解しやすかったのですけれど、それだけではありません。
「聞く力」もしっかり育ったように思います。

「むかし まずあったと」とか、
「むかぁし むかし」などの言葉で始まる昔話は、
ウソ話であり、架空の話であるのが前提でしたから、
子どもたちも日常とは違う世界を言葉から想像していたのです。




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