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「山下清の放浪日記」 池内 紀

2014年01月23日 00時41分29秒 | 雑学知識
 「山下清の放浪日記」 池内 紀 編・解説 五月書房 2008年

 はしがき 「山下清のこと」

 山下清はフシギな人である。十代のころ貼り絵をはじめた。
生活の場であった八幡学園が手工の一つとして課していたもので、
ハサミは使わず指でちぎって色紙を貼っていく。
 
 最初はほかの子供たちとさして違わなかった。それが二年ばかりで質量ともに抜きん出る。
十七歳のとき銀座の画廊に展示されて大きな反響をよんだ。山下清の名前が世に出た最初である。

 十八歳のとき八幡学園から姿を消した。三年ばかりして一度フラリと帰ってきたが、
ふたたび出ていく。その後も同じことをくり返した。
全財産をリュックに入れて線路づたいに歩いていく。線路に沿っていけば迷わない。
駅のベンチが定宿である。ゆっくりした歩き方で、一里歩くと一時間休むというぐあい。
駅にして一日三駅。冬のあいだは南の鹿児島にいた。季節とともに北へ移動する。
花火が好きだったので花火大会の催しをたどっていった。

 昭和二十八年(1953年)、アメリカのグラフ雑誌『ライフ』が貼り絵に注目、
天才児の行方を捜しはじめる。ジャーナリズムが色めき立った。
おりしも東京でゴッホ展が開かれていて、山下清の作風との類似が指摘された。
いまや「日本のゴッホ」である。山下清の名が大々的にとりあげられた二度目にあたる。

 その後も放浪はやまなかった。風貌と生活のスタイルが全国に知れわたり、
それとわかると色紙やスケッチを求められる。そのつど、あわてて逃げ出していく。
放浪のはじまりとまったく同じである。

 中略

 しかしながら、この『放浪日記』は、放浪のさなかに生まれたわけではない。
気ままな放浪者は、おりおりフラリと学園にもどってきた。そして貼り絵をした。
日記は貼り絵と同じように、毎日の作業として課せられたものだった。
夕食後の日課として千字ほど書く。それを先生に見てもらう。
さもないと床につけない。寝るために彼は懸命に思い出した。

 中略

 放浪して楽しいというのではなかった。
当人自身が「そこがるんぺんの苦労です」と述べているとおり、
いやなこと、辛いこと、食いっぱぐれの連続だった。
とすると画家山下清が、ひそかな未知の風景を求めて出ていったのだろうか?
しかし、大部な日記のどこにも、その種の記述はない。
ただ一ヶ所、「学園から逃げ出すこと」のなかに、こんなくだりがある。

 「田舎は広々として、田や畠が有って、青々して、何の音をしないし、気持ちがいいので、
田舎で使ってもらおうと思っていました。」

 だいぶ歩いて、もうつかまるおそれがないと安心したあと、歩調をゆるめたらしい。

 「なるべく真っ直ぐ真っ直ぐと進んで行って、青々としている空の色や、草や、
木の緑色も気持ちがいいので、景色をながめながら進んで行きました。」

 若くも幼くもなかった。純でも無垢でもなく、明るくも暗くもなく、少年でも老人でもなく、
愚か者でも賢者でもなかった。ただ徹底して、この世に合わない人物だった。
往き迷った魂が「青々して、何の音もしない」世界めざして、やや前かがみになり、
チビた下駄を見つめながら、トボトボと歩いていった。