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「字のない葉書」 向田 邦子 

2014年01月01日 00時25分36秒 | エッセイ(模範)
 「字のない葉書」 向田 邦子 家庭画報 1976.7  「眠る盃」所載

 死んだ父は筆まめな人であった。
 私が女学校一年で初めて親元を離れた時も、三日にあげず手紙をよこした。当時保険会社の支店長をしていたが、一点一画もおろそかにしない大ぶりの筆で、
 「向田邦子殿」
 と書かれた表書を初めて見た時は、ひどくびっくりした。父が娘宛の手紙に「殿」と使うのは当然なのだが、つい四、五日前まで、
 「おい邦子!」
 と呼捨てにされ、「馬鹿野郎!」の罵声や拳骨は日常のことであったから、突然の変りように、こそばゆいような晴れがましいような気分になったのであろう。
 文面も折り目正しい時候の挨拶に始まり、新しい東京の社宅の間取りから、庭の植木の種類まで書いてあった。文中、私を貴女と呼び、
 「貴女の学力では難しい漢字もあるが、勉強になるから、まめに字引きを引くように」
 という訓戒も添えられていた。
 褌ひとつで家中を歩き廻り、大酒を飲み、癇癪を起して母や子供達に手を上げる父の姿はどこにもなく、威厳と愛情に溢れた非の打ち所のない父親がそこにあった。
 暴君ではあったが、反面テレ性でもあった父は、他人行儀という形でしか十三歳の娘に手紙が書けなかったのであろう。もしかしたら、日頃気恥ずかしくて演じられない父親を、手紙の中でやってみたのかも知れない。
 手紙は一日に二通くることもあり、一学期の別居期間にかなりの数になった。私は輪ゴムで束ね、しばらく保存していたのだが、いつとはなしにどこかへ行ってしまった。父は六十四歳で亡くなったから、この手紙のあと、かれこれ三十年つきあったことになるが、優しい父の姿を見せたのは、この手紙の中だけである。
 この手紙も懐かしいが、最も心に残るものをと言われれば、父が宛名を書き、妹が「文面」を書いたあの葉書ということになろう。

 終戦の年の四月、小学校一年の末の妹が甲府に学童疎開をすることになった。すでに前の年の秋、同じ小学校に通っていた上の妹は疎開をしていたが、下の妹はあまりに幼なく不憫だというので、両親が手離さなかったのである。ところが三月十日の東京大空襲で、家こそ焼け残ったものの命からがらの目に逢い、このまま一家全滅するよりは、と心を決めたらしい。
 妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で、母は当時貴重品になっていたキャラコで肌着を縫って名札をつけ、父はおびただしい葉書に几帳面な筆で自分宛の宛名を書いた。
 「元気な日はマルを書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい」
 と言ってきかせた。妹は、まだ字が書けなかった。
 宛名だけ書かれた嵩高な葉書の束をリュックサックに入れ、雑炊用のドンブリを抱えて、妹は遠足にでもゆくようにはしゃいで出掛けて行った。
 一週間ほどで、初めての葉書が着いた。紙いっぱいはみ出すほどの、威勢のいい赤鉛筆の大マルである。付添っていった人のはなしでは、地元婦人会が赤飯やボタ餅を振舞って歓迎して下さったとかで、南瓜の茎まで食べていた東京に較べれば大マルに違いなかった。
 ところが、次の日からマルは急激に小さくなっていった。情ない黒鉛筆の小マルは遂にバツに変わった。その頃、少し離れた所に疎開していた上の妹が、下の妹に逢いに行った。
 下の妹は、校舎の壁に寄りかかって梅干の種子をしゃぶっていたが、姉の姿を見ると種子をぺッと吐き出して泣いたそうな。
 間もなくバツの葉書もこなくなった。三月目に母が迎えに行った時、百日咳を患っていた妹は、虱だらけの頭で三畳の布団部屋に寝かされていたという。
 妹が帰ってくる日、私と弟は家庭菜園の南瓜を全部収穫した。小さいのに手をつけると叱る父も、この日は何も言わなかった。私と弟は、一抱えもある大物から掌にのるウラナリまで、二十数個の南瓜を一列に客間に並べた。これ位しか妹を喜ばせる方法がなかったのだ。
 夜遅く、出窓で見張っていた弟が、
 「帰ってきたよ!」
 と叫んだ。茶の間に座っていた父は、裸足でおもてへ飛び出した。防火用水桶の前で、痩せた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。
 あれから三十一年。父は亡くなり、妹も当時の父に近い年になった。だが、あの字のない葉書は、誰がどこに仕舞ったのかそれとも失くなったのか、私は一度も見ていない。