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「老いらくの恋」 川田 順

2014年01月07日 00時06分54秒 | 雑学知識
 「老いらくの恋」 川田 順
  
 若き日の恋は、はにかみて おもて赤らめ、壮子時(おさかり)の
 40歳(よそじ)の恋は、世の中に かれこれ心配(くば)れども、
 墓場に近き老いらくの 恋は、怖るる何ものもなし。(「恋の重荷」序 )

 「老いらくの恋は怖れず」「相手は元教授夫人・歌にも悩み」「川田順氏一度は死の家出」。
昭和23年12月4日「朝日新聞」社会面のトップ、三本の見出しが躍った。
 明治15年、東京浅草に宮中顧問官の三男に生まれる。
40年、東京帝国大学法科卒業後、住友総本店(大阪)に入社。以来、関西に居住。
昭和11年常務理事を最後に同社を退くまで、財界の第一線で活躍した。
一方、歌人としては中学時代に、佐々木信綱に師事、歌集『伎芸天』(大7)、「鷲」(昭15)、
また歌論『幕末愛国歌』(昭14)、『定本吉野朝の悲歌』(昭14)等、著作も多数あり、
歌壇の重鎮でもあった。
 昭和14年、妻和子が病死。翌年、京都北白川の養嗣子宅隣りに新築した「夕陽居」に移住、
余生をひとり気ままに歌作、研究に打ち込んでいた。そのときに出会いがあった。

 昭和19年5月、順は知人宅で若く美しい人妻に紹介される。
元京大教授、経済学博士、中川与之助夫人俊子である。俊子は歌を書いていて、まもなく順の弟子となる。
以来、二人の行き来は急速に繁くなる。事態は進展する。そうして丸三年遂にである。
「昨年(22年)5月の某日、遂に抑制することが出来なくなつて、愛情を打ち明けると、
××さんは受入れてくれた。「宿命」の手が表面に出て来たのである。
「主人にすみませんが、致し方ありません」と再三言った。
私の強い愛に負けたといふ姿であつた」(「死脉」、文中の「××さん」は俊子)

 こうなればいつか人の目に触れぬはずがない。しかもいっとう悪いことになんたる。
「7月3日の夜ふけ、疎水の板橋にかがみ、二人で満月を眺めてゐると、
折しも外出先から帰つて来た博士に見つけられた。
さすがの寛容の博士も、二人の関係を直覚して心頭に怒りの火を発したらしい。秘密は露顕した」(同)

 このとき順は皇太子殿下(現、天皇)御作歌指導掛をし、三大紙の歌壇選者を歴任している。
いっぽう俊子には夫と三人の子女がいる。これは許される関係ではない。俊子もまた苦しむ。

 露顕(ろけん=露見)以後、二人は「今後は決して逢はぬこと」(同)を博士に誓言した。
だがどうしても逢わずにいられない。ここに掲げる歌をみよ。二人は夜を避け昼日中に逢瀬を重ねる。
いましも親しく肌を触れ合い、戻るや恐ろしく、天の怒りか雷がとどろく。
 23年7月、俊子は家を出て母のもとに身を寄せる。8月、離婚成立。
これは望む事態であったが、ことが正式に運んでみると、なおさらに罪の意識をおぼえる。

 11月30日、順は吉井勇、谷崎潤一郎ほか友人、知己に「遺書」を送り、
同時に遺稿として「弧悶録」なる心境告白記と前掲の「恋の重荷」なる長詩を、
東京朝日新聞の出版局長に届ける。
翌12月1日、自殺を図るも未遂。これに新聞が飛びついた。
「老いらくの恋」は流行語になる。ところで恋の行く末はいかに。

 自殺未遂の報から二週間、12月15日「朝日新聞」は報じている。
「夕映えの恋に勝利、川田順結婚を決意、再生の大手術だつた」。
ときに順67歳、俊子39歳である。
 24年3月、結婚。京都を発って、神奈川県小田原市国府津に帰住。27年、藤沢市辻堂に移る。
この地で俊子の献身に支えられた安穏な晩年を送る。

 41年、長逝(ちょうせい=逝去)。享年84。
 俊子は鈴鹿俊子の名で、作歌活動を続け、2006年、96歳で死去。