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「女の入口」 佐野 洋子 

2014年01月03日 00時32分03秒 | エッセイ(模範)
 「女の入口」 佐野 洋子  「覚えていない」より 2006年 マガジンハウス

 私は息子が九歳の時、たずねた。息子は一心不乱に好物のポテトコロッケを食っていた。
「ねえ、あなた、大きくなってお嫁さんをもらう時にね、一人はすごーく美人でね、それが意地悪で、
バカで欲張りで、わがままで悪(わ)るーい奴なのね。
もう一人はブスで、優しくて、頭がよくて素直で、すごーくいい人なのね。
それでどっちもあなたのお嫁さんになりたいといったらどっちにする」。
息子はコロッケを食うのをやめた。そして、じっと皿を見てて、非常に非常に長い間沈黙した。
そして私の目をひたと見て、
「あの、ブスって、前に居たら、ごはんもたべられない位?」

 九歳の息子は、飯が食える位のブスだったら根性曲がりの美人より、
心優しい賢い女を選んだんだろうと思った。
しかし、あの長い長い沈黙の時、息子はコロッケを食べるのをやめて、
のたうち回って苦悶した事は明らかであった。

 九歳の息子が、苦悶したのは偉いと今でも思うが、長ずるに従って、
息子は苦悶なんぞピタッとやめたのである。
十五、六歳になると、どんなパンパラパーであろうと、根性曲がりであろうと、
見てくれだけを重んじるようになったのである。
色気づいて来た仲間に一言、「やめろよ、あんなブス」と平然と放言する様になった。
「ブルータスお前もか」

 私の苦悩は深まるばかりである。
「あんたらね、一生とり返しのつかない失敗をするよ。美人はね、パーにしかならないんだよ。
賢くなるチャンスがないの。チヤホヤされて、自分勝手にしかなれないんだから、
そんなのに目がくらんで、一生のドジをふむことになるんだから」
「だってさあ、小母(おば)さん、ブスは、利口になるより外、道がないじゃん」

 私は絶句した。さらに青少年の一人は言った。
「小母(おば)さん、ブスってさあ、ちょっと入口が違うんだよ。
ブスだとさあ、何となく安心して友達になりやすいんだけどね、それ、女の入口がちょっと違うんだよ」

 目からうろこが落ちたかと思った。私の沢山の沢山の男友達。
私はそれを自慢たらしく私の人格優れたる故(ゆえ)と思って、それにすがって生きて来た。
あれは全部違う入口から入って来たのか。
そういえば、男友達が多い割りに、色恋沙汰の少ない人生であったとは思ったが、
口は奥歯が歯ぎしりをしている。歯ぎしりをしても時は過ぎ去り、
私は、違う入口からのお客様のおもてなしに半生以上をついやして来てしまったのである。
しかし、馬鹿な知恵の足りない若造の言う事である。大らかに笑って暖かく見守ってやろうと思う。

 後略