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「越後毒消し売りの女たち」 桑野 淳一

2013年06月08日 00時45分46秒 | 民話の背景(民俗)
 「越後毒消し売りの女たち」角海浜(かくみはま) 消えた美人村を追う旅   桑野 淳一 著

 坂口安吾の見た村

 「あの坂口安吾も角海浜にやって来たようですが?」
「いや、彼は角田浜に入ったんだ。少し村を回って記事を書いたんだ。」

 なるほどそうだろう。坂口安吾の文章は明るいタッチで書かれている。
その情景は、この目の前にある斉藤さんの写真の情景とは一致しない。
安吾は、「現代日本紀行文学全集 中部日本編」の中で、

 『煎じ詰めて言えば、富裕というものは全てを明るく照らす。
従って角田は北国には珍しく明るさを持つ集落となっている。
いかに、北国の雪とふぶきが強烈で暗鬱としたものであっても、
いかに冬の日本海が悲しみの色に塗り込められていようとも、瀟洒な邸宅はそのことを忘れさせて、
明るい南国のイメージへと見る者を導いてくれる。
しかし、当然のことであるが、最初はそのような邸宅があった訳ではない。
やはり砂丘は悲しい貧困の旋律を刻み、女達は毒消しの行商に出ねばならなかったのだった。
米を買うために。

 事の起こりは、この一行だった。
米が作れない貧しき農家が米を買うために、村の女は毒消しの行商に出たのだった。

 どうだろう、年齢は16、17から45、6までの妙齢の女をかき集めるだけ集めれば、
ざっと千人をこえるであろうか。
これだけの女が打ち揃って、小さな集落を出て日本全国に毒消しの行商に出たのだった。
当時、毒消し売りの歌がはやった。
流行歌である。
全国の各地で子供から大人までこの歌を唄って毒消しを迎えた。
迎えたというより、子供たちはこの歌を唄って女のうしろに続いた。
また大人は大人で、
「歌を唄ってくれたら、買うけど」
などとからかった。
女はお金のためにじっと我慢して、時に歌を唄い、毒消し売りに専念した。
彼女らの心には、
「故郷に帰れば土蔵に石の塀、立派な門構えの邸宅。
なんだお前らのあばら家は。
私はお金と友達だから我慢しているが、貧弱な家にしか住めない者が威張るんじゃないよ」
という思いが沸々と湧いていたことだったろう。

 ともあれ越後の西蒲原という地は小作争議発祥の地で日本一の貧農地帯であった。
その貧農地帯の中でもとりわけ交通の便の悪い村に堂々たる蔵が建ち並んでいるのである。
他の日本のどの裕福な農村も敵わないであろう邸宅の居並ぶ村なのだ。

 富山の薬売りが田舎周りをしながら、「田舎の者は薬を飲まない」と言って敬遠して、
町場の人々を相手にしている。
これに対して、越後の毒消し売りは、富山のように薬だけを商うのではなく、日用品全般を扱って歩く。
化粧品の類から、鋏(はさみ)、ナイフ、ヘアピンは言うに及ばず、果ては反物、シャツなどを売り歩く。
まさに歩く百貨店であり、事実彼女らもそれを自認していた。
従って、商いの地は物の揃わない農村地帯となる。
たいていは町場に部屋を(あるいは家一軒まるごと)借りていて、そこに一団となって泊まり、
そこから農村部へ散開して入る。
富山の薬売りは商人宿に泊まるが、毒消しはそういう無駄はしない。

 毒消しは年配の女を親方として、その下に子供と呼ばれる売り子が属して一団を形成している。
このことが、つまり旅館に泊まらずに極力必要経費を抑えることができるのは、女のこまやかさであり、
蔵が建つ一番の要因であろう。
彼女らは男のように仕事しながら遊ばないのである。

 昔は一年のうち半年ほど行商に出ていたのであるが、近年は正月とお盆、
それに春秋の村祭りに帰るだけで一年のほとんどを旅空の下で過ごす。
常に一団を組んで合宿しているのだから個人行動はできず、従って身持ちも固い。
しかし年のうち十ヶ月も旅をしていれば中には男ができるケースがあっても不思議ではない。
たいていは既婚の女がそうなることが多いようであるが、
亭主はそれが解っても女の収入が多いのでじっと我慢するしかない。
家庭不和が生じる例はほとんどないのである。
その甲斐あって、村には蔵が建つのであるから。

 このことでも解るように男が遊興に散財して、女が我慢するのはどこにでも破産のパターンである。
これに反して、男がじっと我慢するパターンは蔵が建つ。

 女は金のために村を出て、金を稼いで村に戻って来る。
彼女らにとって本当の男は自分の村の男だけなのだ。
蔵を背後にした邸宅で悠々たる生活を送る無能ぶりこそお大尽の品格なのである。』

 と、安吾は毒消し最盛期の模様を書いている。