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「長文暗記と言語回路」 渡辺 哲雄

2013年06月06日 00時58分34秒 | 日本語について
 「長文暗記と言語回路」 渡辺 哲雄のコラム (老いの風景の作者) 平成20年

 大人になってからは忙しさに紛れてすっかりなりを潜めていた私の長文暗記欲求でしたが、
郡上八幡が産業祭に招いたバナナの叩き売りを聞いて久しぶりに胸が躍りました。
だみ声で背が低く、ラクダの腹巻をした大阪の芸人は、バナナを山のように積み上げた長机の端を、
五十センチほどの柔らかな棒で叩いてリズムをとりながら、
「バナちゃん節」と称する長い歌を披露しました。

 台湾から海を越えてはるばるやって来たバナナの旅を面白おかしく紹介する歌でしたが、
私にとってその長さがたまらない魅力でした。

 やがて歌詞は「叩き売り」の内容に変わり、男はひと房のバナナの値段をどんどん下げて行きました。

「まず最初が八百円、えもさいさい七百円、お高い相場じゃないけれど、こちらがバナちゃん本家なら、
そういう高値を言うじゃない、そういう高値で売るじゃない」で始まる叩き売りの歌は、
「ならこいつがごんぱち(五十八)か、権八ゃ昔の色男、これに惚れたが小紫、ねえあなたあ権八っつぁん、生きてこの世で添えなけりゃ、死んであの世で添いましょと、めでためでたでさあ負けて、
ならこいつが五十と五お、ゴンゴン鳴るのは鎌倉の、鎌倉名物寺の鐘、その音数えりゃ五十三か、
五十三次ゃ東海道、一の難所が箱根山、越すに越されぬ大井川…ほら負けては四七かぁで、四百七十円。
どや?買わんか?世間で買うたら七百円、八百円する高級バナナがわずかの四百七十円…ん?
どや?カネないのんか?厳しい…厳し過ぎる…よし、待っとれ、こうなったらやけくそやで…まだ負けよ。四十七士の討ち入りは、時は元禄十五年、雪のチラチラ降る晩に…」

 といった調子で、故事や名所を織り込みながら、とうとう百円まで値段を下げたあげく、
「これ百円言うたなら、台湾銀行は総つぶれ、売った私の身の上は、家は断絶身は夜逃げ、
夜逃げする身は厭わねど、あとに残りしノミしらみ、明日から誰の血を吸うて生きるやら、それ思うたら、これ百円では売られんぞ」と意表を突くのです。

 そして、「こんな大きなバナナ、百円である訳がない。
しかしスーパーで買うたら四百円、五百円は確実にする品物ですが、四百円が要らない。
三百円が要らんで。二百五十円、二百円、どや、まずはこれ二百円でお買い求め頂きましょう」

 気持ちのほぐれた客たちと軽妙なやり取りをしながら男は積み上げたバナナを全て売り切りました。
何だかんだで一時間は優に越える叩き売りの一部始終を小型のテープレコーダーに録音して、
私は暇さえあれば暗誦に没頭しました。
目的があるわけではありません。
これだけ長いものになると余興で披露することもできません。
ただ長文を暗記することに不思議な喜びと達成感があるのです。

 なぜ山に登るのかという質問に対して、そこに山があるからと答えた登山家は有名ですが、
亭主の好きな赤烏帽子。人間の欲求は本来そういうものかもしれませんね。
町で、よくもまあとびっくりするくくらい大量の鉢植えを玄関先に積み上げた家を見ることがありますが、手頃な緑を見つけると鉢植えにしなくてはいられないのでしょう。
 
 私の場合は長文の暗記でした。