FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

誕生を待ちながら

2006年06月06日 | Weblog
1200億円が儲かりましたという話も巨額すぎてぴんと来ないなあと、さしあたっては新しく始まった分別の区分けを間違わないで出すことが大事と、ゴミステーションへ走ることから一日が始まった。今日の毎日モーツアルトは87回、妻の妊娠。ピアノ・ソナタ12番の第3楽章。

モーツァルトの魅力というコーナーで、作家の平野啓一郎さんが登場した。この第3楽章はちょっと異様なというか、不思議な感じ。ネガティブな言い方をすると気持ち悪い。そのちょっとヘンなところに自分の意識が引っかかるようになってから、少し興味を持つようになってモーツァルトを聞くようになったそうだ。

1783年、1月、モーツァルトとコンスタンツェがステファン大聖堂で結婚式を挙げてから半年がたった。コンスタンツェは妊娠し、モーツァルトは故郷ザルツブルクで暮らす父親の承諾を得ないで結婚したことで、父レオポルトとのわだかまりがあったが、これを機会になんとかそれが解けないかと思っていた。

1782年12月21日の手紙。
妻はあなたの小さなシルエットの肖像をいつも持ち歩るき、日に20回は少なくともキスをしています。と父へ書いた。

1783年、6月7日の手紙。
僕はひざまずき手を合わせて、最愛のお父さん、あなたに名付け親になってほしいと伏してお願いをしたいのです。

モーツァルトとの10年にも満たない結婚生活で6人の子供を産み、育ったのはそのうち二人だけ。もう聞いただけで気が遠くなるような壮絶なドラマだ。コンスタンツェの悪妻は有名で、葬儀にも行かなかったというのが極めつきになっている。

モーツァルトの晩年は(といっても30代)、コンスタンツェの転地療養にかかる費用が捻出できなくて、借金を重ねる毎日となった。子供を産む側からするとどうなんだろうねえ、という気がしないでもない。彼女にも後世のモーツァルト研究家に対して、もっと言い分があったかもしれない。

厳格な父レオポルトの英才教育でモーツァルトの天分は花開いたが、旅から旅へ正規の教育を受けない生活で育った天才には父親の現実感覚が受け継がれなかった。レオポルトは常に楽観的な予測や将来を考えるモーツァルトにそうじゃないといい続けたかったのだろう。

軽やかな音楽を好むというウィーンの人々に合わせた音楽を作曲していたモーツァルトも、晩年秘密結社のフリーメイスンに入ってから、突然人生に目覚めたように曲調が変わり、内面を吐露する音楽を作るようになった。平野さんがオヤッと思った不思議な感じはモーツアルトの中で、いつも心の奥底にずっとあったものかもしれないと、この音楽を聴きながらふと思った。