ロンドン五輪代表選手が発表されたので、暇を見つけながら何回かに分けて各選手の紹介をしてみたいと思います。
1人目は、今回唯一の静岡県出身選手であるMF村松大輔です。
(確認が面倒だから)自分の記憶だけを頼りに、参考資料を確認せずに作る文章なので間違いがあるかもしれませんがあしからず。
6村松大輔(清水エスパルス) MF 静岡県焼津市出身 焼津南SSS→藤枝東FC→藤枝東→ホンダFC→湘南ベルマーレ→清水エスパルス
※名前の読み方は「ダイスケ」ではなく「タイスケ」
「日本代表よりもあのストッパーがヤバイ」
村松が初めて注目されるようになったのは、彼が高校3年生の高校最後の大会である高校選手権の時。
河井陽介(清水)らを擁して選手権準優勝を果たしたチームで、3バックの右のストッパーでレギュラー出場していた。
当時の藤枝東は、FW松田、MF河井、石神、DF鳥羽の複数の選手がU-18日本代表候補合宿に呼ばれていたタレント軍団。とりわけ10河井と11松田ばかりが注目されていた。
そんな中、藤枝東が勝ち上がるにつれて報道関係者の間でまことしやかに囁かれていたのが「日本代表(河井・松田)よりあのストッパー(村松)がヤバイ」という言葉。(エルゴラ情報)
とにかく1対1で抜かれない。抜群の安定感で地上戦では必ず相手選手を抑える村松が一部で注目を集めるようになっていた。
そして大会後にU-18日本代表候補合宿に召集され、そのまま代表チームに定着。U-19アジア最終予選の時には、鈴木(新潟)須崎(磐田)の怪我もあり、あれよあれよという間に代表チームのCBのレギュラーポディションをつかむまでになっていた。
藤枝東では1年生の頃から出場機会を得ていたが、決してうまい選手ではなかった。どちらかと言えば下手な選手だった。3バックの他の2人(鳥羽・小関)と比べたら小柄で決して目立つような選手ではなかった。
ただ1対1の強さは確かに異常だった。当時の服部監督がスポーツ新聞の記事で、「(村松が3年生の1年間で)1対1で抜かれたのは夏休みに大学生を相手に1度だけ。それ以外では今年1年間1度も抜かれたことは無い」と証言していた。
高校卒業後はホンダFCに入団。ユース代表の常連となった村松はJFLに出場しながらユース代表の活動をこなしていたが、ユース代表レギュラーの有望株をJリーグが放っておく訳もなく湘南ベルマーレに入団。移籍1年目からCBジャーンの相方としてJ2でほぼフル出場となる50試合に出場。J1昇格に貢献し、チームがJ2に降格すると清水エスパルスからのオファーを受けエスパルス入団。ここまで信じられないくらいのシンデレラストーリーを歩んできた。
最近ではそのボール奪取能力を買われ、アンカーの位置で相手の攻撃の芽を摘むことで清水の中盤の底を支えている。
まさか村松がMF登録でオリンピック代表選手になるとは、当時の藤枝東ファンは誰も想像できなかっただろう。
村松が成功した理由を個人的に考えてみた。
・ストロングポイントがハッキリしていた事。1対1では絶対に負けないという特徴があったことがプロで成功した一番の理由。
・性格的にまじめで、向上心があったこと。たぶん村松は今も自分がうまいと思ったことは無い。才能だけでまわりから「天才」とか「うまい」と言われてなんとなくやってきた選手より、自分が下手だと自覚している選手の方がプロに入って成長する。元清水の岡崎が良い例。
・当時ユース代表の選手選考が迷走していて、やっと固まったCBコンビの鈴木(新潟)と須崎(磐田)がそろって怪我をして離脱したことにより、CBのポディションが空席だったという巡り合わせ。
・ストイックなところ。合宿で同部屋になった選手が「筋トレマニア、どのトレーニングがどこの筋肉に効くのか、意識のレベルが非常に高い」と証言している。
・家族の事。詳しくは書かないけれど、10代で責任感を持って自分の将来を選択するなど、人間的に成長したと思う。
1人目は、今回唯一の静岡県出身選手であるMF村松大輔です。
(確認が面倒だから)自分の記憶だけを頼りに、参考資料を確認せずに作る文章なので間違いがあるかもしれませんがあしからず。
6村松大輔(清水エスパルス) MF 静岡県焼津市出身 焼津南SSS→藤枝東FC→藤枝東→ホンダFC→湘南ベルマーレ→清水エスパルス
※名前の読み方は「ダイスケ」ではなく「タイスケ」
「日本代表よりもあのストッパーがヤバイ」
村松が初めて注目されるようになったのは、彼が高校3年生の高校最後の大会である高校選手権の時。
河井陽介(清水)らを擁して選手権準優勝を果たしたチームで、3バックの右のストッパーでレギュラー出場していた。
当時の藤枝東は、FW松田、MF河井、石神、DF鳥羽の複数の選手がU-18日本代表候補合宿に呼ばれていたタレント軍団。とりわけ10河井と11松田ばかりが注目されていた。
そんな中、藤枝東が勝ち上がるにつれて報道関係者の間でまことしやかに囁かれていたのが「日本代表(河井・松田)よりあのストッパー(村松)がヤバイ」という言葉。(エルゴラ情報)
とにかく1対1で抜かれない。抜群の安定感で地上戦では必ず相手選手を抑える村松が一部で注目を集めるようになっていた。
そして大会後にU-18日本代表候補合宿に召集され、そのまま代表チームに定着。U-19アジア最終予選の時には、鈴木(新潟)須崎(磐田)の怪我もあり、あれよあれよという間に代表チームのCBのレギュラーポディションをつかむまでになっていた。
藤枝東では1年生の頃から出場機会を得ていたが、決してうまい選手ではなかった。どちらかと言えば下手な選手だった。3バックの他の2人(鳥羽・小関)と比べたら小柄で決して目立つような選手ではなかった。
ただ1対1の強さは確かに異常だった。当時の服部監督がスポーツ新聞の記事で、「(村松が3年生の1年間で)1対1で抜かれたのは夏休みに大学生を相手に1度だけ。それ以外では今年1年間1度も抜かれたことは無い」と証言していた。
高校卒業後はホンダFCに入団。ユース代表の常連となった村松はJFLに出場しながらユース代表の活動をこなしていたが、ユース代表レギュラーの有望株をJリーグが放っておく訳もなく湘南ベルマーレに入団。移籍1年目からCBジャーンの相方としてJ2でほぼフル出場となる50試合に出場。J1昇格に貢献し、チームがJ2に降格すると清水エスパルスからのオファーを受けエスパルス入団。ここまで信じられないくらいのシンデレラストーリーを歩んできた。
最近ではそのボール奪取能力を買われ、アンカーの位置で相手の攻撃の芽を摘むことで清水の中盤の底を支えている。
まさか村松がMF登録でオリンピック代表選手になるとは、当時の藤枝東ファンは誰も想像できなかっただろう。
村松が成功した理由を個人的に考えてみた。
・ストロングポイントがハッキリしていた事。1対1では絶対に負けないという特徴があったことがプロで成功した一番の理由。
・性格的にまじめで、向上心があったこと。たぶん村松は今も自分がうまいと思ったことは無い。才能だけでまわりから「天才」とか「うまい」と言われてなんとなくやってきた選手より、自分が下手だと自覚している選手の方がプロに入って成長する。元清水の岡崎が良い例。
・当時ユース代表の選手選考が迷走していて、やっと固まったCBコンビの鈴木(新潟)と須崎(磐田)がそろって怪我をして離脱したことにより、CBのポディションが空席だったという巡り合わせ。
・ストイックなところ。合宿で同部屋になった選手が「筋トレマニア、どのトレーニングがどこの筋肉に効くのか、意識のレベルが非常に高い」と証言している。
・家族の事。詳しくは書かないけれど、10代で責任感を持って自分の将来を選択するなど、人間的に成長したと思う。