第107代後陽成天皇の第1皇子は、権中納言中山親綱(ゴンチュウナゴンナカヤマチカツナ)の娘中山親子(チカコ)(1576?~1608)が産んだ良仁親王(カタヒトシンノウ)です。
写真の墓は、前の柵のため正面に廻れませんでした。
生後すぐから、豊臣秀吉はこの子を次の天皇に考えていて、次期天皇即位を前提に6歳で親王宣下された良仁です。
いずれ朝鮮出兵が勝利したら、後陽成天皇を明の皇帝にし、良仁親王か後陽成天皇の弟八条宮智仁親王(トシヒト)を次の天皇にする計画もあったようです。
右に体をずらして、正面に近いような写真を撮りましたが、どれが誰の墓塔かまでは分かりませんでした。
しかし秀吉が死ぬと、父後陽成天皇は良仁親王を皇位継承者から外そうとし、これが関ヶ原合戦(1600年)後に政治の実権を握った徳川家康の、秀吉政権色が強かった良仁親王外しと合致し、第3皇子の政仁親王(ユタヒト)が第108代後水尾天皇(1596~1680)(在位1611~1629)として即位しました。
2020-11-25のブログで紹介した、絶世の美人であった第94代鳥羽天皇皇后待賢門院藤原璋子(ショウシ)の花園西陵の正面左に、仁和寺宮墓地の制札がありました。
これにより、良仁親王は出家し御室仁和寺に入り、覚深入道親王(カクシンニュウドウシンノウ)(1588~1648)として仁和寺第21世門跡も務めました。
墓のある仁和寺宮墓地(ニンナジノミヤボチ)(右京区花園宮ノ上町)は、仁和寺というより妙心寺のほうが近いですが、11人の仁和寺門跡の皇族が眠っています。
奥に映ってるのが璋子の陵です。ここから右に進むと1枚目の写真になります。