島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

4-1懿徳天皇

2017-03-19 | 天皇陵巡り
 
 めちゃくちゃ難しい漢字ですが、パソコンでは一発で変換できますので、これしか使わないのかもしれない、懿徳です。
安寧天皇の3人の息子の内第2子の大倭日子鉏友命(オホヤマトヒコスキトモノミコト)は、軽の境岡(カルノサカイオカ)に宮殿を作り、そこで天下を治め第4代懿徳天皇となりました。
  
 第3代安寧天皇陵から、更に左回りに畝傍山沿いを自転車で走ると、出発した橿原神宮に戻る寸前に懿徳天皇陵は見えてきました。
この陵にはちゃんとお濠もあるようです。
  
 参道は開放的ですが、左右は民間の駐車場のようです。
懿徳天皇はフトワカヒメノミコトを妻として、二人のお子さんをもうけました。
 
 懿徳天皇は45歳で崩御し、陵は畝傍山の真名子谷(マナコダニ)の上にあると、古事記には記されています。
   
 懿徳天皇陵の畝傍山南繊沙谿上陵(ウネビヤマノミナミノマサゴタニノエノミササギ)ですが、ここの背後はこんもりとした山で濠も有り、古墳らしく見えます。
  
 畝傍山周囲の地図が、懿徳天皇陵の近くにありました。
中央の緑が畝傍山、左上に橿原神宮が黒い線で描かれ、私が写真に赤で書き入れた1~4代天皇陵の位置がわかりますでしょう。
この陵がすべて正しい位置と正しい埋葬者かどうかはほぼ不明ですし、そもそも1~4人の天皇が実在したかどうかもわかりませんが、天皇家の始まりはだいたいこの辺と言うことでしょうね。

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1 コメント

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Unknown (花水木)
2017-03-19 22:06:22
いとくてんのうと読むのですね。
この読み方だけが無くて、クイズ形式でした。
尤も、神話に詳しい方には楽勝ですが・・・
昔は、地位名誉のある方は、懇ろに弔ってもらえたようですが、奈良平安時代など、普通の民は、死んでもそのまま放置していたらしいです。
屍がゴロゴロしていたとか。
トイレ事情もかなりひどかったと聞きました。
江戸時代になり、ようやく土葬になったとか

私事ですが、17日の息子の真打昇進披露でバタバタして、コメントもままならず、申し訳ありません。
ブログ見てたけど、コメントする気力体力無く失礼しました。


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