島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

94-2鳥羽天皇皇后璋子

2020-11-25 | 天皇陵巡り
 
 藤原兼家(929~990)の異母弟公季(キンスエ)(956~1029)から始まった閑院流ですが、三代目の実季(サネスエ)の頃は藤原北家本流からは大きく外れてしまっていました。
しかし、実季の妹茂子(モシ)が後三条天皇に入内し白河天皇を産み、娘の苡子(イシ)が堀河天皇に嫁いで鳥羽天皇を産んだので、閑院流は勢いを盛り返しだしました。
 
 この苡子の兄の公実(キンザネ)(1053~1107)と堀河・鳥羽の乳母であった藤原光子(ミツコ)(1060~1121)との間に産まれたのが、今回の藤原璋子(フジワラノショウシ・タマコ)(1101~1145)です。
  写真は光子が最初の居住者となった、三条烏丸御所跡に立つ標識ですが、この辺りは私の小学時代のテリトリーです。
 
 璋子は、白河天皇が身分は低いが寵愛した祇園女御に養われ、当時の摂関家の長男藤原忠通への縁談は、忠通の父忠実(タダザネ)が璋子の素行に問題ありと固辞したので、成立せず、白河院と忠実は不仲になっています。
こんな良い縁談を摂関家の忠実が断った(以前にも書いたように、忠実自身は白河のお古に一目ぼれして結婚してるのに)と言うことは、璋子と白河法皇との間に何かあったのかもしれませんし、その後璋子が鳥羽天皇との間に産んだ崇徳天皇が、実は白河の子だったという噂の原因も。ここから出たのかもしれません。
  写真のように、ぐるっと参道が廻りこむように正面に続いていて、築地の木が赤っぽく、美人だった人の御陵らしく感じます
 
 こんな璋子ですが、1118年に2歳年下の従姉弟の第94代鳥羽天皇(1103~1156)(在位1107~1123)に17歳で入内し、すぐに皇后になりました。
第1皇子第95代崇徳天皇・第4皇子第97代後白河天皇など5男2女をもうけていますので、第1皇子は鳥羽の子ではなく祖父白河の子であるという噂にしては、二人の仲は良かったのですかね。
  写真は、御陵正面です
 
 その後、鳥羽天皇が譲位するとともに、璋子も待賢門院の院号を宣下されていますが、それでも1129年に白河院が亡くなると、鳥羽院は高陽院を皇后にたてたり、美福門院の産んだ第8皇子を第96代近衛天皇にしたりで、璋子からは離れて行っています。
  奥の灯籠には待賢門院と彫ってあります
 
 璋子は1142年には妙心寺とJR花園駅近くの法金剛院にて落飾し、この寺には西行法師もよく訪れたようです。
昔、結局最後まで読めなかった辻邦夫さんの「西行花伝」にも、西行がこの身分の高い絶世の美人であった待賢門院に惚れていた話があったような気がします。
 亡くなった璋子は、法金剛寺の裏山にある花園西陵(ハナゾノノニシノミササギ)(右京区花園扇野町)に葬られました。
  璋子の陵の左横から、写真左端に写ってる仁和寺宮墓の制札がある仁和寺宮墓地に行けましたが、途中で柵に遮られ横からしか見えませんし、誰が葬られてるのか見えませんでした

        返事
花水木さん:この頃から江戸時代にかけて、
    仏式の墓で眠ってる天皇家の人は多いですよ。
大雪男さん:巨人がなすすべなく負けて行くのを、
    気持ち良く観戦していますが、
    それに負けてる阪神はもっとだらしないですよね!

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 74-1鳥羽天皇 | トップ | 74-3鳥羽天皇皇后得子 »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (大雪男)
2020-11-25 22:38:33
見事にやられましたね巨人は。
予想通りでしたが原もわざわざ負けに行くのかと言う采配でしたね。
全試合DHとか呆れました。
来年は少しはセも面白くなるのでは?
返信する

コメントを投稿

天皇陵巡り」カテゴリの最新記事