藤原得子(フジワラノトクシ・ナリコ)(1117~1160)の父は藤原北家支流でそれほどの身分ではなかった藤原長実(ナガザネ)ですが、父に愛され、並の身分の人には嫁がせないと育てられました。
葬られた高野山陵(コウヤサンノミササギ)(和歌山県伊都郡高野町)の制札です
その父の死後、1134年に鳥羽上皇に見初めれれて、叡子内親王(エイシ)・淹卞眇堂ヲ(ショウシ)を産んだ後に、とうとう第8皇子体仁親王(ナリヒト)を産み。
この体仁親王が1歳で第75代崇徳天皇の皇太子となったので、得子も女御になり、後ろ盾の白河上皇をもう亡くしている皇后璋子(待賢門院)を凌ぐようになりました。
写真の陵は高野山内の沢山の宿坊の一つ不動院の前にあります
*注;日に章と書く字を入れると環境依存で文字化けしてしまいました、すみません。
次回も困りそうですので、知ってる人あれば教えて下さい。
そして体仁親王が数え3歳で即位して第76代近衛天皇(1139~1155)(在位1141~1155)になったので、得子は生母として、上皇の妃であるのに皇后にたてられ、1149年には美福門院(ビフクモンイン)の院号も宣下されています。
女院;太上天皇(上皇・院)に準ずる待遇と院号を与えられた女性。
藤原銓子が東三条院となったのが始まりで、
以後江戸時代まで107人の女院がいます。
陵は近づけそうで近づけず、幹道から近いのに静かでした
鳥羽上皇の寵愛を受け、皇子を産み、得子自身の身内も鳥羽院の近臣として活躍したので、摂関家の人からは「得子は身分の低い女なのに」と恨みも買っています。
写真の木の間から見えた石塔が、同兆域にある第112代霊元天皇皇子済深親王(サイシン)の分骨塔かもしれません
病弱であった息子近衛天皇が17歳で亡くなった後も、得子は策をなして第77代後白河天皇を即位させたり、保元の乱(1156)・平治の乱(1160)でもその黒幕として動いたようです。
そんな得子に夫の鳥羽上皇は菩提所の塔まで作ったのですが、そこには入らず、自身が寄進した一切経が入ってる高野山金剛峯寺内の写真の廻せる六角経堂もある、真言宗のメッカ高野山内陵を望んだそうです。
当時は女人禁制で空海のお母さんも行けなかった高野山に、女の墓を造ることを許した真言宗も、真言宗の希望に負けた天台宗も、権勢には弱いということですかね。
返事
大雪男さん:これで菅野が大リーグに行き、
ちゃんと返事しない菅が総理を辞めたら、万々歳なのですがね。