西都モノクローム

西都大好きな市議会議員が、徒然なるままに街のこと、写真のこと、空手のこと語ります。

空手の話⑬-神原会長からの私信-

2011-11-04 22:49:14 | 日記
さて、議員研修のことはもう少しまとめて(自分の頭を整理して)書きたいと思います。

本日は私の所属している国際空手道松涛会の会長、神原先輩からの私信をそのまま載せたいと思います。
今回の私信は今中日新聞に連載されている「親鸞」という連載小説の一部が指導者として刮目すべき事だと示唆されました。
私は会長のメールを見て、空手の歴史の一端なので、これは私のブログでオープンさせていただけないでしょうか、とお願いして実現した物です。
松濤館系の歴史の一端が伺えます、それでは。

中日新聞朝刊連載小説「親鸞」五木寛之作 
2011年10月12日(水)激動篇277中から転載です。
 親鸞が各地の神社・仏閣を訪れては、経蔵などを書写している理由を、あるお坊さんが
質問し、親鸞がそれに回答しているシーンです。

「そなたの師、法然上人は常々、学問は要らぬ、愚に帰れ。易行念仏とは、ただひたすら念仏に徹せよ、という教えではないのか?」

親鸞の答え
「法然上人の残された[選択本願念仏集]を、今もくりかえし繰り返し読んでいるのです。
読めば読むほど感動いたします。
この書が指し示す道を、一筋に歩いていけばよい、そう思うのです。
しかし、私は法然上人から手渡された教えを、受け取って、さらに他の人々に渡さなければなりませぬ。
私は深夜、ふと目覚めて思うのです。法然上人は言われた。
自分はこれが念仏だと思うと。
そして、私に訊ねられているような気がしてなりません。
さあ、お前はどうなのだ、と」

             中略

次は2011年10月14日(金)激動篇279中から転載です。
 
「しかし、いま私は悩んでいるのです。
法然上人から手渡された念仏の教えを、はたして自分は正しく深く受け止めているのだろうかと」
「ただ一筋に念仏すればよい、専修念仏。
この易行の教えに達せられるまでに、法然上人は万巻の書を学びつくされました。
自分が救われるだけなら、師の言葉どおりにひたすら念仏すればよいでしょう。
しかし、わたしはその念仏を人びとに説き、それをすすめる者なのです。
そのためには、心に一分の迷いもあってはなりません。
わたしがいま、念仏を説きながら、あらためて経典を学び、大事な文言を抜き書きし、夜を徹して思いをめぐらせているのは、そのためです。念仏の大道を明らかに究め、そして真実の仏の教えとは何かをはっきりとつかまなければならない。
親鸞、それをせよ、という声がどこからかきこえてくるのです。
その声につき動かされて、学んでおります。
・・・殿、これで答えになっておりますでしょうか」

親鸞は自分なりの説明を正直にしたつもりだった。
だが、心の中には割りきれない思いが重くのしかかっているのを感じていた。
しかしその一方で、ひそかな確信もないではなかった。
  
それは、この試みは自分が望んでやろうとしているだけではないという感覚だった。
親鸞、そうせよ、という声なき声が、いま彼の心の中にたしかにきこえていたのである。

以上が抜粋です。


この親鸞の思いは空手道の指導者に警鐘を与えています。
指導に対する私の考えは、以前から書簡・メールなどで細切れながら、お伝えしています。
「親鸞」を読んで、かなり纏まったものとなってきました。確認の意味で再度、記します。

               記

1、私が師事した加知師範(松濤館)と大雄先生(和道流・糸東流)の教えを正しく次代に継承するとともに、お2人の教えに付加価値をつけることが大切である。
   
故 大雄先生:元南山大学空手道部部長(和道流師範)
久留米商業高校卒業まで現全空連糸東会名誉会長の久富先生に師事。
早稲田大学(空手道部には入部していない)入学とともに和道流初代宗家大塚博紀先生の門を叩き、現宗家の大塚次郎先生と5段(当時の最高段位です)まで一緒に昇段されました。
早稲田大学助教授(会計学)から南山大学に転籍し、九州大学文学部長として転籍された稲垣先生(東大卒・陸軍士官学校中退・南山大文学部部長・佐賀藩剣術新陰流師範の末裔・南山大空手道部部長就任と同時に学生と一緒に空手道を1から学ぶ)の後任として空手道部部長に就任。以後、教授・経済学部長を歴任されました。
   
故 加知先生:元南山大学空手道部師範(日本空手道松濤會師範)
南山高校から専修大学(陸軍士官学校中退)に入学。
空手道部に籍を置きながら、松濤館道場で船越義珍・義豪先生から直接、指導を受け、5段位(当時の最高段位です)を允可される。
昭和20年代後半、日本空手協会が紛糾。
当時、名古屋で名古屋空手クラブを創設。
昭和50年頃、数年、南山大学非常勤体育講師として空手道・剣道の授業を担当されました(本職は税理士・・当時は加知会計事務所所長)

2.形には先人が我々に残され・託された宿題がふんだんに詰まっていること。
(剛柔流の形を学ぶと、そこから松濤館の形分解に新解釈が生じることも度々あります)

3.生徒には背中で見せて、生徒が指導者のようになりたいと思われないと駄目です。
自分が教えられたことをオウム返しで指導するだけでは指導者とは言えない。
自己研鑽に務め、常に思念・研究を怠らぬこと。

4.大雄先生は「セイシャン」と「ナイファンチ」を組手に応用すべく、この2形を徹底して鍛え上げられておられました。

私は『会計学を専門としながら空手道を探求された』お2人の背中を見て、多くを学び今日に至っております。以上

名古屋空手クラブ(昭和20年代後半、日本空手協会が紛糾中であったため松濤館とか日本空手協会を名乗らなかった。その後、昭和30年か31年に日本空手協会と日本空手道松濤曾2派に分裂)先生方のプロフィールも詳細に記録しようと思っております。

ざっと書いても
・中村宗雄師範(駒大卒・愛知学院大初代師範)
・ 川口史郎師範(早大卒・名古屋工業大初代師範・現日本空手協会兵庫県名誉会長)
・ 岩本忠雄師範(慶大卒)
・梅田一男師範(拓大卒)
・馬渕輝夫師範(法大卒・元日本空手協会名古屋支部長)当時はまだ法政大の現役学生
・土生芳樹師範(拓大卒・名古屋工業大学2代目師範・現在マレーシアに永住)
・粂井晃師範(慶大卒)
・加知典男(みちお)師範(専大卒)

など、錚々たる指導人です。

加知師範が中村師範宅で昔話に興じていた際、たまたま南山大の加藤・森下両先輩が中村師範宅に稽古に訪れたことが切っ掛けで加知先生が南山大の師範に就任された発端です。

名古屋空手クラブには南山大・愛知学院大・名古屋工業大・名古屋大・中部電力などが参加し、駒大とも合宿・合同練習をしておりました。(残念ながら私は次世代なので、加知師範以外、ここでご紹介した先生方から直接指導は頂いておりません。
OB会を通じて神戸の川口師範、マレーシアの土生先生とは今でも書簡を交わしております)
 当時の様子は現在、中国拳法の達人として高名な『松田隆智』先生の「謎の拳法を求めて」(東京新聞出版局発行)にも紹介されています。
松田先生は高校生ながら名古屋空手クラブの稽古に参加されていました。名古屋空手クラブの演武会プログラムを所持していたのですが、どこかに紛れて出てきません。
写真には坊主頭の松田先生の姿もありましたし、越智先輩(名工大)Vs加藤先輩(南山大)の自由組手もありました。
自由組手には立会い(審判ではない)加知師範とありました。貴重な資料なのでしっかり探します。
2011.11.4
文責 神原祐司

以上です、神原会長有り難うございました。
空手道はまだ歴史の浅い武道です、先人達の活動を顕彰することこそ、空手が日本の武道として生きる道だと思っています。

コメント
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