マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

風がきそうな前日はさわやかな風が吹いて気持ちいい

2017年06月23日 08時43分23秒 | むびょうそくさい
台風がきそうな前日はさわやかな風が吹いて気持ちいい。

ここんところは湿気ムンムンが続く日だった。

明日になればまた元通りどころかずっと続く曇天日になると思うが、肌がサラサラになるのは久しぶり。

そういう日は決まって身体が軽く感じる。

逆に湿っぽい日は重たい。

食欲もそれほど湧かない。

身体が軽けりゃ走り出したくもなるが、それはやめとこ、である。

この日はいつものリハビリ運動であるが、前回予約でいつもの時間がとれなかった。

いつもの時間よりも1時間半後にこの日も駐車場は満杯。

駐車待ちに20分も要する。

仕方なく、である、臨時の駐車場を利用させていただく。

ここなら満杯になることはない。

待ち時間もなく気持ちも天候同様に晴れやかだ。

受付を済ませて血圧と脈拍測定。

血圧は151-67。

やや高めであるが、十分な範囲内である。

脈拍は60拍。

滅多にない脈拍値をみるだけでも、この日の順調さがわかる。

いつもの心電図機器を装着。

客拍は57-59拍だ。

たぶんそれぐらいになるだろうと思っていた。

スクワット運動をすれば58-61拍。

特に問題なしであるが、運動を終えた直後は跳ねあがって67-72拍。

最近にみられる傾向である。

誰しもそうだと思うが、運動しているときは安定値。

休んだときにぐっと上がるのである。

心臓病になる前の身体状況はそんな具合だったと思う。

思うだけで計測はしていないから信憑性はない。

跳ね上がった脈拍はしばらくすれば落ち着いて57-58拍。

どおってことないと思っている。

回転しだしたワーク10の初速血圧は106-63。

脈拍は58-59拍。

この日は高いうちに入る。

1分後のワークは55。

重たくもないワーク負荷にペダル回転数は57rpm。

脈拍は60拍である。

6分後の血圧は131-60。

脈拍は69-71拍。

前週よりも脈拍値が10アップ。

始めが高ければそういうことになる。

リハビリ療法士は心配されるがまったくしんどさを感じない。

いつもついてくれている循環器内科医師のT医師は気になる血圧を云いだした。

先月辺りからリハビリ療法士の指示に従って始めた起床時の血圧測定。

気になりだしたT医師が問いかける。

脈拍が高い日も見受けられるので主治医のほうにも伝えておく。

できれば診察してもらって血圧をあげる投与も考えられる、ということだが・・・。

11分後の血圧は129-51。

脈拍は69-70拍。

リハビリ療法士が問う。

今の身体状態はどうですか、である。

いつものアナログ自己診断表に基づけば「楽」である。

どちらかといえば楽々である。

それならば一度上げてみようということになってワークは60。

これまでしたこともなき負荷量であるが、なんともない。

16分後の血圧は131-56。

脈拍は69-71拍。

ワーク60に少しは重たさを感じるようになって、汗、汗・・がでる。

21分後の血圧は139-58。

脈拍は69-71拍。

最後の26分後の血圧は141-62。

脈拍は71-73拍で終えた。

ところでぽっくり飛び出し丸出しのお腹はなんとかならないのか。

循環器内科の医師は答える範囲ではない。

リハビリ療法士であればと思って問いかける。

反応を返してくれたのはIさん。

三日坊主だったがけっこう効き目があるらしい方法があるという。

それはまっすぐに立つ姿勢で行う方法。

両足を揃えてかかとをくっつける。

その際に広げる足先。

90度の角度をつけて伸びあがる。

つま先で立つ感じである。

そのときの注意点はかかとを離さない。

ふくらはぎはぴったりつける。

これも離さず、つま先で立つ。

全身が伸びるような恰好でおこなう。

できれば両手は上にして手を合わせて拝むようにする。

背筋を伸ばすと同時に肛門を締める。

試しにしたが足よりも腰にくる。

間違って腰痛にでもなれば・・・とそのときは思ったが、毎日を継続するにはどうしたらいいか。

考え付いたのは風呂上り。

洗面所兼用であるが、そこで一回当たりのカウントを20回。

それを5回繰り返す。

毎晩に入るお風呂であれば忘れない習慣になりそうと思ってそうする。

この日の会計番号札は1958番。

遅い時間帯に受付したら診療を終えるのも遅くなる。

それが終わった時間は午後4時12分。

出来あがった会計番号はパタパタと音が鳴るわけではないが、電光表示板には1830番。

130人待ちである。

待つ時間も多かったが午後4時40分には退棟した。

(H28.10. 4 SB932SH撮影)

桃香野八幡神社の御供

2017年06月22日 09時07分27秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
この日の取材メインは奈良市月ヶ瀬の嵩の行事である。

それが始まるまでの時間帯に訪れた地域は嵩よりすぐ近くの桃香野である。

桃香野の八幡神社の祭礼は平成15年の11月23日に取材したことがある。

かれこれ14年前のことである。

下見もせずに訪れた地の状況もわからず、お渡りに出発される当家の場を求めて歩いていた。

急な坂道にこれから当家の家に集まろうとしていた紺色素襖着用烏帽子衆に遭遇したことを覚えている。

お家はあそこだと云われて急行した。

しばらくすればお渡りが始まった。

行列の中でひと際目立った御供担ぎ。

先頭は紅葉を差したイモガシラ(芋頭)。

その次は白餅を差して放射状に仕立てたハナモチ。

その次は餅ではなく平たく切ったイモガシラ(芋頭)だった。

お稚児さんに出会った烏帽子衆に神輿がついていく。

撮った写真の映像は今でも鮮明に覚えているが渡り並びに祭礼の行程はあやふやだ。

2年前のことだ。

撮った風景写真をFBで紹介している写真家がとらえた茶摘み景観を拝見していた。

その画像に映っている男性のお顔ははっきりと覚えている。

FBをされていると知って当時の祭礼写真を送らせてもらったら喜んでいただいた。

男性はそのときの祭礼当家だったことをあらためて知ったのである。

男性はまた、氏神祭礼に奉納する芸能能狂言保存会の一員でもあった。

また、桃香野には写真家のKさんもおられる。

例祭前日は当家御供の調製や能狂言舞台の設営作業もある。

例祭渡御は午前11時半ころ。

それまでの時間帯であれば調整された御供を拝見できると思って出かけた。

平成15年の氏神祭礼は11月23日だった。

平成2年11月に月ヶ瀬村(現奈良市月ヶ瀬)が発刊した『月ヶ瀬村史』に記載されている祭りの日は10月20日である。

それが11月に移った。

取材日以降の数年後に10月になったと聞いている。

いつしか10月半ばに移った。

移ってからは固定日でもなくなった変則日。

その後は10月20日に近い日曜日に移ったことは風の便りに聞いていたが、もしかとすれば前週であるかもと思って出かけたが、やはりであった。

掲示してあったポスターにタイムスケジュールが書いてあった。

前日は午後3時から子供餅つき。

本日は朝10時半から出発する子供神輿の巡行。

神事が行われる直前、お渡り衆に続いてやってくる。

午後0時半からはバザーである。

バザーに無料のおでん振る舞いもあればフランクフルト、駄菓子、ビールなどの販売もある。

神事を終えた午後2時半から桃香野自治会が主宰する奉納能楽もある。

早めに着いてできる限りご挨拶と思ってやってきた。

時間帯は午前9時半。

神事の準備に忙しく動き回る村神主代表のUさんにお礼だ。

バザーの振る舞いおでんはもう出来上がっているから食べていってやと云われるご相伴に預かる。

大釜で煮込んだおでんの香りが境内まで漂っている。

桃香野の若い女性たちが心を込めて作ったおでんはたっぷり盛ってくれた。



朝ご飯は家で食べてきたのにお腹が欲しがる旨そうなおでん。

カラシも付けてもらって口にほうばる。

出汁が浸みこんだおでんはとにくかく美味しい。

そのことを伝えたら満足げな笑顔で返してくれた。

早い時間帯に訪れたのは渡りの人たちが抱える当家御供を見るためだ。

前日に調整し終わった当家御供は地区の集落センター(自治会館)の和室に保管している。

村神主や集落センターにおられた人たちの了解を得て御供を拝見する。

屋内の座敷に整然と置いているわけでないのでありのままの状態で撮らせていただく。



一つは緑色の紅葉を添えた芯芽がにょきっと突き出したオカシラと呼ぶカシライモ(頭芋)である。

二つ目は長めの竹串に白餅を挿したハナモチ(花餅)。



上から見ればぱっと花びらが開いたように見えるからハナモチの名がついたのだろう。

そのハナモチは太い藁棒に刺してある。



倒れないようにしているのか、それとも担ぎやすいようにしているのかわからないが、竹で編んだ籠に納めている。

三つ目は平たく切ったカシライモ。



これもハナモチと同じように花が咲き誇ったような形であることからハナイモ(花芋)の名がある。

室内に置かれた御供はそれだけであるが、他にも数々の品物がある。

それらは渡りの人たちがそれぞれの御供を担いで渡るのである。

順番が決まっている役とともに列挙しておく。

お渡りの先頭は当家身内の兄息子が抱えるオカシラ。

皿に盛ったオカシラである。

2番手は一升五合の青豆大豆を盛った籠を担ぐ中息子。

3番手は弟息子が担ぐハナモチ。

4番手は中与力が担ぐハナイモ。

5番手は弟与力が担ぐハナモチ。

それぞれのハナモチ、ハナイモの竹串は122本ずつ。

三つ合わせて360本の御供は一年間を表しているという。

大量の本数を準備しなくてはならない作業の中で一番に挙げたい手間のかかる道具作りである。

ここまでの登場人物の衣装は紋付き着物に袴。

足は白足袋で下駄を履く。

6番手は濃紺色の素襖を着て烏帽子を被る「烏帽子」。

「ヨボサ」の別名がある烏帽子は12人。



この日に参集された烏帽子役がそう云っていた。

ラストの7番手は締め手の一升酒樽を抱える兄与力。

烏帽子を役目する人たちが定刻の集合時間に衣装を身に纏ってやってきた。

これより始まるのが御札渡しと呼ぶ儀式であるが、隣村の嵩の調理具合を取材するために一旦は桃香野を離れる。

戻ってきた時間帯は午前12時20分ころ。

お渡りの一行はすでに出発していた。



その様子を道中で拝見したのか、村の人たちは祭りの場にやってくる。

その時間帯ともなれば大勢のカメラマンが集まっていた。

その中には知人のカメラマンが5人も。

うち一人は村のカメラマン。

行事の進行役を務めるそうで裃姿になっていた

そろそろお渡りの一行が神社に戻ってくる。

お渡り行列はまだ着いていなかったが、神事が始まろうとしていた。



嵩の行事が始まる時間帯に最も近づいたころを見計らって桃香野を離れたから祭りの一部始終は翌年廻しにするが、平成2年11月に月ヶ瀬村(現奈良市月ヶ瀬)が発刊した『月ヶ瀬村史』に大字桃香野の宮役のことが詳しく書かれているので参考にされたい。

なお、お渡りは雨天であっても決行する。

その場合は番傘をさしてのお渡りになるようだ。

(H28.10.16 SB932SH撮影)
(H28.10.23 EOS40D撮影)

毛原八阪神社の宵宮参拝

2017年06月21日 10時32分56秒 | 山添村へ
月ヶ瀬嵩の宵宮取材を終えて山添村の毛原を行く。

この日は毛原も宵宮行事。

陽もどっぷり暮れた時間帯で行われる八阪神社の行事。

かつては10月16日であったが、現在は第三土曜日。

今年はカレンダー事情で第四土曜日になった。

毛原の氏神さんは八阪神社。

創始は不明であるが、貞享二年(1685)の古文書記録によれば牛頭天王社であった。

明治時代まではそう呼ばれていたであろうと推挙される事例が境内にある。

本殿下にある手水鉢に刻印である。

明治時代初期までは山添村中峯山(ちゅうむざん)神波多(かんはた)神社に属する旧波多野村の郷中であった。

神波多(かんはた)神社もまた江戸時代までは「牛頭天王社」と呼ばれていた。

俗に「波多の天王」と呼ばれていた。

ところが明治8年ころより旧都介野(都祁)村の友田に鎮座する水分神社の郷中に移り替わったと伝えられる。

毛原八阪神社の宵宮は16日だった。

集まりやすい16日に近い土曜日に移したのは近年。

マツリはその翌日日曜日の午後から行っているそうだ。

氏子の四人トーヤは礼服で出仕する。

4年前までは和服であったが今は形式を略した礼服である。

社務所に集まってきた人たちは氏子総代に区長。

ホンカン(本音)、ジカン(次音)に2人のミナライは村神主。

主にホンカン(本音)が年中行事を務めているが、この日は神職も出仕される。

時間ともなれば大勢の村人たちが宵宮参拝に訪れる。

本社殿下の階段両脇に立てた高張提灯に番傘がある。

雨に打たれても良いようにしているのであろうか、県内事例ではあまり見られない珍しい形態である。

提灯や本社殿などの灯りに照らされてなんともいえない雰囲気を醸し出す。

訪れる参拝者は階段下で手を合わす。

そして本社殿に登って拝礼する。

その状況をみながら登っていく神職やホンカン(本音)、ジカン(次音)の村神主。



草履に履き替えた氏子総代や区長も階段を登って神事が行われる。



四人トーヤにミナライは階段下で立ち続けて神事を見守る。

村人たちはその周りに立ってこれもまた厳かに行われる神事を見守っていた。

神事を終えたら直会である。

ホンカン、ジカンにミナライは直会の準備にとりかかる。

お神酒に供えた鏡餅を下げる。



鏡餅は餅切り器で適当な大きさに切断する。

社務所は直会の受付場。

行列ができるころには準備が整った。

参拝者は手にした朱塗りの椀にお神酒を注いでもらってぐいっと飲み干す。

肴は黄色いコウコだ。

甘くて美味しいコウコはお代わりをしてしまうほどに美味しい。

お神酒の肴はもう一品ある。

切った餅は厚くもなく薄くもない適当。



その餅を供えた白昆布をのせる。

これもまた美味しい肴である。

白餅は糯米の味。

そこに丁度いい塩加減の昆布が口の中で絡み合う。

乙な味とはこういう味である。



子どもはお酒を飲めないが、美味しいコウコも昆布餅に手が出る。

(H28.10.22 EOS40D撮影)

嵩の行事

2017年06月20日 09時49分35秒 | 楽しみにしておこうっと
嵩の山の神行事は1月7日。

日にちが替わった7日の夜の時間帯からお参りに来るひともいるらしい。

遅くても朝8時には村の人すべてが参っているであろうという場は八柱神社と薬師寺の裏地である。

これがそうだと云われなければ気がつかない山の神の印しは埋もれた小岩である。

家の男の数だけ作った藁ズト。

1戸について1個の餅を詰め込む藁ズトはフクダワラ(村史ではホウデン)と呼ぶ。

それを山の神の木に結びつけてぶら下げる。

その木の枝にホウソ(ナラの木)の木で作った「カギ」を引っかける。

カギを引っ張り揺らすように作法をしながら「うーちのくーらへどっさりこ」と言いながらおじいさんがしていた。

山の神に参りにくるのは今では6軒ぐらいと話してくれたのは宮総代のⅠさんだ。

ちなみに村史によれば、コウジミカンを山の神の地に立てていたようだ。

また、「カギ」引きの詞章は「東の国の銭金(ぜにかね) 西の国の糸綿(いとわた) 赤牛につけて こちの蔵へ皆ござれ 皆ござれ」であった。

嵩では春と秋に道造りをしている。

朝は村の農道で、昼は県農道。

道造りにつきものの料理は大釜で煮るオデンがある。

オデンは春であるが、秋はマツタケご飯になる。

かつてはマツタケすき焼きだった。

当時のすき焼きは牛肉よりも松茸の方が多かった。

今から40~50年前のマツタケすき焼きにイロゴハンもあった。

料理の材料費は村でもつ。

料理をするのは村の役員。

この年は9月25日の実施。

例年も9月の最終日曜日にしていた秋の道造り。

春もそうだがいずれも雨天決行である。

夏の第一日曜日は墓サラエ(浚え)。

おそらくは7日盆の墓掃除のことであろう。

盆の風習にサシサバがあった。

ちなみに嵩には主に女性で構成される薬師講がある。

この年は1月10日だった大般若行事は六百巻の大般若経を転読法要。

聞くところによれば天理市福住の別所でお会いした僧侶が来られるようだ。

なお、昭和10年までは厄年の人の餅一重村各戸配りをしていたそうだ。

(H28.10.22 EOS40D撮影)

月ヶ瀬嵩八柱神社の宵宮

2017年06月19日 08時57分48秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
平成2年11月に月ヶ瀬村(現奈良市月ヶ瀬)が発刊した『月ヶ瀬村史』がある。

村史によれば大字の嵩(だけ)の八柱神社の例祭は10月27日だった。

「例祭の当屋は家並み順。かつては子どもが当屋であって大まつり、小まつりの名称で呼ばれていた。大きい子どものうちから一人。小さい子どものうちからも一人。座衆、非衆の区別があった・・・。秋茄子が一番のご馳走というほど質素な料理。村中の人たちが寄ってきて、野菜のご馳走を食べて謡いをする。その場でお箱渡しが行われる。昔は宵宮(大正3年、4年は夜宮表記)の晩に当屋の家に集まってカシの木で作った千本杵と木臼で餅を搗いた。当屋の家では寿司や刺身、松茸などのご馳走を作り村各戸に配った。謡いの式には三角に切った焼豆腐とコンニャク、ジャコがある。昭和十二年、戦争の影響で招待者は遠慮、節約体制となり、以降は寂しくなった」と書いてあった。

奈良市月ヶ瀬嵩(だけ)の八柱神社で夜宮やマツリがあると知ったのは2カ月前。

8月27日に行われた風の祈祷の日である。

その日の取材のときに宮総代が話してくれた嵩のマツリ。

「直会に謡いがある。武蔵野の名がある大きな酒盃で酒を飲む。謡いは朗々と謡う四海波。座でよばれる酒の肴はナスビの田楽にトーフ、コンニャクに煮しめ。青豆のクルミはサトイモに塗して食べる」と話していた。

座の料理はどのようにして作られるのか。

興味は謡いの盃もある。

取材したいと申し出てこの日も訪れた。

村史では当屋表記であったが、現在は当家の漢字を充てている。

当家は2軒。

本当家(ホントーヤ)と相当家(アイトーヤ)の2軒がマツリによばれる料理を作り、座の接待をする役に就く。

かつては4人の男の年齢順で務める当家であったが、現在は家の廻りになった。

4人ということは村史にある座衆、非衆のそれぞれから2人ずつの当家であったろう。

昔の嵩の戸数は30戸。

今では16戸になったが、昭和25年当時は子どもが50人も居たというから団塊世代の子どもたちで溢れていたようだ。

当時の当家は子どもが任に就いたのも理解できるが、現在は2軒の大人が務めている。

戸数が16戸であるから6年に一度の廻りである。

この日の出仕もあるが、明日の祭りは「奉鎮祭」の名がある御幣を捧ぐ神事がある。

与力制度がある嵩の村組織。

明治29年までは旧波多野村に属していた嵩。

旧波多野村は現在の山添村の春日、大西、菅生、西波多(上津・下津)、遅瀬、中峯山、広代、中之庄、吉田、鵜山、片平、葛尾、広瀬に現奈良市の嵩である。

旧波多野村のすべてではないがほとんどの村が、村の運営に関わっている与力制度で組織化している。

制度を詳しく述べる文字数を持ち合わせていないからここでは省かせていただく。

この日の行事にも参列されるオトナ(村史では老名とあるが、現在は翁戸那の漢字を充てる)は四人。

長老は神主と呼ばれ祭事を務めたと村史に書いてあったが、現在の斎主は大字尾山の岡本和生宮司である。



神事は風の祈祷のときも同じように4人のオトナと3人の宮総代が参列する。

まずは大祓詞の唱和。

そして、祝詞奏上に玉串奉奠である。

大祭の宵宮に直会膳がある。

この日の午前中から作っていた膳の料理。

神職をはじめとしてオトナや宮総代が酒を飲み干す直会膳に差し出される料理は三品。



一品に正月の味と同じにした酢牛蒡。



二品にオタフクマメの甘煮。



三品がサトイモやニンジン、コンニャク、ダイコン、シイタケに竹輪を炊いた煮しめである。

この三品を肴にお神酒をよばれる。

座が終わってからよばれた三品のお味。

薄味であるがとても美味しい。

サトイモはとろとろで私の口によく合う家庭の味だった。



まずは二人の当家が並んで下座に正座。

挨拶、口上を述べて直会が始まる。

「本日はありがとうございます。例年通りの料理でございますが、時間許す限り、どうぞごゆっくりいただきますようよろしくお願いします」と述べてから席を立って給仕の酒注ぎ。

一旦は下がって座中は乾杯して料理を肴に酒を飲む。



空になる前に席を廻って酒を注ぎまわるのは二人の当家だ。

明日の大祭には辛子醤油漬けの蒸し茄子田楽とか青豆クルミイモ・マメ・三角切りの豆腐・コンニャクなどを配膳する。

実は直会の時間中も奥の調理場では料理の下ごしらえの真っ最中だった。



宵宮の神事には誰一人の参拝は見られなかったが、直会中には黙々と手を合わせる村人がいた。

宵宮の座は一時間ばかり。



座中は解散されて戻っていかれたが両当家の家族は居残って下ごしらえの続きである。



枝豆は茎から外して大釜で茹でる。

茹でた枝豆は莢から出して豆だけにする。



明日は朝から豆を潰してクルミにする。

クルミはクルミという実ではない。

当村では青豆を潰してイモにのせる。

のせるというよりもイモを包み込むことから「包む」である。

「包む」は「包み」。

こうしてクルミのイモ料理にするが、東山間では亥の日に食べるクルミモチがある。

字のごとく青豆を潰して包むのは餅である。

潰したクルミに砂糖を塗して餅を包む。

味は砂糖があるから甘いが、青豆の香りがとても美味しい郷土料理。

嵩では亥の日にクルミモチは登場しない。

村史によれば、嵩の亥の日は鬼子母神を祭る日。

赤飯のおにぎりをたくさん作って重箱に盛る。

弾けたザクロとともに部屋内の暗い処に祭る。

縁結びの神さんとされる鬼子母神が恥ずかしがるからそうしているとあった。

おとなしくしなければ嫁のもらい手がなくなると信じられ、子供が泣いたり、或は喋らないように注意したそうだ。

月ヶ瀬各大字であった亥の日の習俗の今は月瀬だけがしていると書いてあった。



三角切りコンニャクは明日に最終調理。

もっともこのコンニャクは別料理の味付け煮込みの方であるが・・

豆腐も同じ大きさ形の三角に切って挟む。

ちなみに宮総代やオトナが云うには大祭のお供えに山ノ鳥とか川魚があったそうだ。

昭和3年の初期のころの『祭り帳』にその記載があった。

(H28.10.22 EOS40D撮影)

スズキエブリイジョインターボの中古タイヤ交換

2017年06月18日 09時17分33秒 | いどう
先月の28日のことだ。

特別なことがあって神戸に出かけた。

駐車場で待っていた実弟が指をさす。

乗ってきた軽バンのスズキエブリイジョインターボのタイヤがすり減っている。

スリップサインが明確にその状態をあらわしているという。

じっくり見れば、その通り、である。

タイヤの空気圧が低くなっているのはわかっていたが、そこまでは認識していなかった。

タイヤは買い換えするが、新品ではない。

貧相な暮らしに新品は無用。

中古のタイヤで十分である。

それをお願いするのは我が町の車屋さん。

車のことならなんでも相談してもらうありがたい地元民である。

気にはなっているものの、オートサービスに出向く時間がとれなかった。

これまでがずっと忙しく、奈良県内を駆け巡っていた。

この日は特別なこともない穏やかな日。

買い物ついでにオートサービスに行った。

早速、みてもらうタイヤの状態。

こりゃいかん、である。

中古タイヤなら倉庫にあるかもしれないと云って探してくれた。

商用4ナンバーの軽バン専用のノーマルタイヤガ見つかった。

車体運転席側に貼られているシールに指定のタイヤサイズが書いてある。

それを見て探してくれたら、ピッタシカンカン。

タイヤメーカーは違うがそれぞれ2本ずつ。

前輪、後輪がまかなえば問題はない。

2本はヨコハマ社製タイヤのJOBRY52。

サイズは145R12の6PRLT。

スズキエブリイジョインターボの指定サイズは145R12。

商用4ナンバーであれば6PRでなければならない。

そんなことを教えてくださるSさん。

もう2本はダンロップ社製タイヤのENASAVE VAN01。

サイズは145R12の6PRLT。

まったく同じのサイズである。

前輪はヨコハマ社製タイヤ。

ジャッキで車体を持ち上げてタイヤを外す。

ホイールを外すのはグルグル回る機械。

テコというのか道具の名は知らないがヘラのような感じでホイールとタイヤの間に入れてパコン。

一周するうちに外れる。

逆に装填する場合も、その機械を使う。

きちんと嵌ればパコンと大きな音がでる。

タイヤはホイールに装着したが、そのままの状態で車体に装填したらエライことになる。

タイヤはホイールバランスをとる必要がある。

これも機械で調整する。



ホイールもタイヤも完全な真円ではない。

アンバランスな状態では走行に障害が発生する。

それを機械が検知してくれる。

装着して回転させたら機械がピッピッと鳴る。



バランスをどこでとればいいのか表示してくれる。

それは内輪側と外輪側の2カ所。

表示された位置にバランスをとる「重り」を貼り付ける。

どちらがどれだか話してくれたことは覚えていないが、走行中の上下運動に横揺れをしないようにバランスをとる「重り」なのだ。

免許をとってから何十年間も運転してきたが、こんなことは知らなかったのだ。

教習所で習ったことがあるのか、ないのか、免許を取得した45年前のことは記憶にない。

中古のスズキエブリイジョインターボを平成26年4月に買ったときの走行距離メーターは112151kmだった。



この日にタイヤ交換したときの走行距離メーターは143270km。

30カ月間に亘って走行した距離は31120km。

一年間とすれば12450kmにもなる。

買ったときのタイヤは新品ではなかった。

この日交換したタイヤは同じような結果になるであろうか・・。

思いもよらない結果が三日目に出現した。

取材に出かけようとして我が家の駐車場から発進したときである。

なんとなく居心地が不安になる。

駐車場の前は側溝。

そこは当然ながらグレーチングの蓋を嵌めている。

ただ、段差がある。

決して緩やかでなく10度くらいの斜面。

駐車場はやや下り坂。

ブレーキを緩めてニュートラルに放っておけばずるずると滑るように車輪が回る。

いつもはそうならないようにブレーキをかけながら発進するのだが、このときばかりは異様な音が・・・。

ギリギリ・・・・の音とともに右ハンドル。



その痕跡が道路についた。

そう、右運転席車輪がパンクしていたのだ。

なんということだ。

速攻で電話をした我が町の車屋さん。

これまた速攻でやってきた。

どうするかといえばパンクした車輪を工房に持ち帰ってパンク修理。戻って来て嵌めなおす。

その間、15分間。



素早い対応に感謝して再出発した。

(H28.10.19 SB932SH撮影)
(H28.10.22 SB932SH撮影)

菟田野平井から萩原小鹿野の民俗探訪

2017年06月17日 08時54分24秒 | 楽しみにしておこうっと
宇陀市榛原の石田に住むUさんが教えてくださった神社行事がある。

一つは上平井のヒトミゴクに9種の御供。

二つ目は下平井のモッソのセキハンである。

両行事をされている地区は宇陀市菟田野平井にある上平田と下平田。

マツリの日は宇太水分神社祭礼の前日になるというから出仕される神職は宇太水分神社の三家宮司であろう。

宇太水分神社の鎮座地は宇陀市菟田野の古市場。

平成12年10月15日の秋祭りや平成17年2月7日の祈年祭に出かけたことがある。

ずいぶん前のことである。

宇太水分神社祭礼は10月15日。

前日であれば14日であろうか。それともUさんがいう20日であろうか。

時間帯も含めて神社所在地を見ておきたい。

そして祭事関係者にお会いして行事の状況を教えてもらおうと思って出かけた。

一つ目に訪れた地域は菟田野の平井。

Uさんが話していた神社はどこだろうか。

ネットの地図を拝見しても掴めない。

そうであれば付近の民家を訪ねる。

畑に人が見えたらその人に聞くのだが、生憎この日は待てども、待てども現れない。

ここまで来て諦めるわけにはいかないから旧家の佇まいをみせる民家に訪ねてみる。

呼び鈴を押せば奥から男性が出てこられた。

話しを伺えば男性は上平井八王子神社氏子のNさん。

平成28年は10月15日にマツリがあった。

本来は20日であったが、現在は宇太水分神社祭礼の前日の第三土曜になる。

御供はシラムシ(白蒸)ご飯にザクロやカキ、クリ、トコロイモ。

他にも長めの串に挿したコンニャクやダイコン、サトイモに半切りのチクワもあるという。

それは氏子に配られる御供であるが、3本であったが近年に縮小して1本にしたという。

夜は甘酒の接待というからヨミヤとマツリを一本化したのかもしれない。

ちなみに神職はやはり宇太水分神社宮司の三家さんだった。

話しを伺って教えてもらった神社の鎮座地に向かう。



神社には石板に願いを込めた由緒書きがある。

当社祭礼に人身御供と称する特殊神饌を供するとあった。

Uさんに氏子のNさんが話していた御供の形がそうなのであろう。

本社、境内を見てまわる。



「文政十二年(1829)次己丑九月」の年代刻印がある灯籠。

それより古かったのは手水鉢。



「元禄六年(1693)九月一日」の年代記銘がある手水鉢には「八王子」。

手水鉢を寄進したと思われる当時の村人7人の名がある。

それを見届けて次の訪問地に出かける。

二つ目は下平井の皇大神社である。

マツリを知る人はどこにおられるのだろうか。

ここでも田畑に村人はいない。

これもまた仕方なくそれと思しき民家の呼び鈴を押す。

出てこられた男性のTさんに尋ねたがマツリのことが要領得ずにまったく掴めない。

近くの家も訪ねてみるが不在だ。

もう一軒のM家も行事のことはわからないという。

その辺りをうろうろしていたら一人の男性が車でやってきた。

宮総代のKさんであるが、Uさんが話していたモッソのセキハンもなく、村総会を兼ねたヨイミヤマツリは一般的な神事であると云われた。

そういう状況であるが皇大神社の鎮座地は拝見しておこうと思って畑におられた婦人に聞けば、そこだという。

なるほど、ここにあったのか、である。



車止め前に停めて本社、境内を見てまわる。

何年か前にゾーク(造営事業)されたのだろうか、本社殿が朱塗りで美しい。

その社殿下右側にあったのが庚申塔だ。



葉は椿のようだが花一輪。

お参りしている人が供えたのであろう。

マツリの情報は少なかったが、得るものもあった。

いずれは訪れてみたい菟田野の平井の行事を後にして帰路につく。

その帰路の道中に行っておきたい地域がある。

宇陀市榛原の萩原(はぎはら)の小鹿野(おがの)である。

半年前に訪れた際に田畑におられた婦人たちにだいたいの行事場を聞いていた。

そこへどうのようにすれば行けるのか。

それを確認したくて帰路に立寄った。

行事場は村の中心部。

それも急な坂道を行かねばならない上に軽トラ幅丁度くらいの狭い道。

バックをするにも難しいし、最初に登る道の角度は勢いをつけないと上がれない。

何度かトライしたがその先がどうなっているのかとても怖い。

狭い上に曲がり道。人が歩いてでもいたらと思えばぞっとする道。

迂回しても同じような村の道である。

昨年の平成28年4月15日に訪れた際は村の北側から登ってそこから下ったことがある。

その道は難なく走れるがこの南側が狭いのである。

その日は南側の苗代立て状況を撮っていた。

その畑の真上にあるのが小鹿野の公民館。

地蔵堂があるとされる村の会所である。

そこへ行くには坂道を登ったところでバックする。

それも来た道をバックするのではなく右にある狭い道をバックで登るしかなかった。

一旦、山側に登ってそこから下れば良いとわかったのは半年後だった。

それを知らずに無理をするこの日の行事場探し。

バックで到達した地は平ら。

会所であることはわかったが鍵が締まっている。

当然である。



その会所裏側に立っていた朱塗りの鳥居。

掲げてあった扁額をみれば「小鹿野弁財天社」とある。

行事があるのかどうかわからない。

戻って会所前にある祠を見る。



それは庚申さんだった。

左右に枯れた竹があった。

その形から右は花立。

左は御供台だ。

たぶんに閏年の庚申講の営みがあるはずだ。

これらを書くにするには区長と会わなければならないが、自宅は不在だった。

仕方なく隣家を訪ねる。

お声をかけたら若い男性が出てこられた。

行事のことや場を調べにきたと話せば若干なら知っているという。

地蔵寺は集会所内になる。

寺所有と思われる菩薩像や四天王像が安置しているらしい。

苗代田に立ててあったお札は祈祷札。

正月初めのだいたいが1月7日の午後に打合せを兼ねる初寄合がある。

その際にお札を刷っているのだろうと勝手に推測する。

その日の夕飯会食に籠り。

そのときに初祈祷をしているとこれもまた想定される。

区長に伝えられるならばお願いして場を立ち去った。

(H28.10.20 SB932SH撮影)

矢部杵都岐神社のヨミヤ参り

2017年06月16日 08時44分16秒 | 田原本町へ
境内にずらりと提灯を立てる。

灯りが点くころには村の人たちが大勢寄ってきて参拝する。

矢部は家の提灯をもってヨミヤ参りをすると話していた婦人がいる。

その人はいつも和装で出かけると云っていた。

そんな姿を見たくてやってきた田原本町矢部。

鎮守の神社は杵都岐(きづき)神社である。

そういえば秋の祭りには伺ったことはなかった。

祭りの日は一般的な神事だと話す。

そうであれば夜のマツリの雰囲気を味わいたい。

早めに出かけて関係者に取材願いをしたい。

そう思って出かけた矢部。

着いた時間帯にいたのは近所の子どもたちだ。

自転車に跨って来たという。

鬼ごっこなのかわからないが既に立ててあった提灯辺りで遊んでいた。



社殿をいえばこれもまた神饌も供えていた。

ヨミヤの準備も終わっていたのである。



しばらくというかそれほど時間も経っていないころに男の人たちがやってきてローソクに火を点けていく。

底蓋を開けて火を点けたローソクを提灯内に入れる。

時間帯は午後5時半だった。

10月半ばも過ぎれば日が暮れると同時に夕闇に進んでいく。

1分、2分と時間が進む度に提灯の灯りが濃さを増していく。

撮りごろといえば撮りごろである。



神社の提灯に火が灯されたことを知って村の人も家の提灯に火を点けていた。

提灯は鳥居を潜って神社拝殿に向かって参られるに仕掛けている。

そう思うのである。

こういう在り方は天理市武蔵町も同じだ。

県内のあちこちで見られる形態であろう。

神社の提灯に火が灯されたことを知って村の人も家の提灯に火を点けていた。

設営並びに提灯灯しをしていた人たちは自治会役員。

祭礼の出仕される神職の手配から参拝者を迎えてお神酒を注ぐ役目をしている。

矢部は100戸の集落。

参拝者は多いという。

村に案内している時間は午後6時。

ヨミヤに大勢の人たちがやってくる。

ところが肝心かなめの神職が来られない。

連絡した時間が間違ったのか、それとも・・・。

緊急連絡する電話の返答は30分間違っていたということだ。



「こちら矢部放送、秋祭りは午後6時でしたが、神主さんのご都合で30分遅れの開催となります。よろしくお願いします」のアナウンスが村設置のスピーカーから聞こえてきた。

やむを得ないアクシデントに村全域に届くようにアナウンスされた。

大急ぎで支度した神職が到着した。

神職が位置する場は拝殿。



参拝者がお供えを役員に渡してから幣串で祓ってくださる。



低い声で祓の詞を唱えてから幣串で祓う。

頭を下げた参拝者に振る幣は左右に数度。

ありがたい祓はヨミヤの祓い。



祓ってもらえば役員から御供下げの紅白のハクセンコウをいただく。

次の参拝者も同じようにお供え、祓い、御供下げいただき。

次から次への順番待ち行列は鳥居辺りまで伸びていた。

祓ってもらった参拝者は拝殿右側に廻って本殿の前に向かう。



その場に立ってから氏神さんに向かって拝礼。

一般的な神事もそうだが、祓の儀があってから神事。

祝詞奏上などが行われる。



矢部のヨミヤに祝詞奏上は見られないが、まずは祓の儀を済ませてから拝むのである。

この形式は6月のさなぶりも11月の新嘗祭も同じようにして行われている。



神さんのお参りを済ませばお神酒をいただく。

役員さんがどうぞと差し出すカワラケにお神酒を注いでその場でいただく。

参拝者が少なくなって待ち行列が途切れるようになった時間帯は午後7時ころ。

和装で参ると話していたご夫妻も参拝するこの夜のお月さんはほぼまん丸。

前日は満月であった。



見ることはなかったが、この日の夜もまん丸お月さん。

老眼の私の目ではそう見えた。

(H28.10.17 EOS40D撮影)

須川のお旅所砂盛り御幣

2017年06月15日 08時27分51秒 | 楽しみにしておこうっと
山添村室津から京都府木津川市の加茂町岩船を取材してきた。

その道中に素通りした奈良市須川町。

須川信号の角地に白いものが見えた。

それはなんだろうか。

もしかとして祭礼の道具であるかも。

何であるのか、確かめたくて戻った。

それは紛れもない幣であった。

砂盛りした所にビニールパイプを立てている。

そこに挿した幣はサカキ。

萎れぐあいから計算して一週間前を想定した。

須川には戸隠神社がある。

この信号よりそれほど遠くない位置に鎮座する。

この場はもしかとすればお旅所ではないだろうか。

柴垣に囲まれた様相から想定できる神聖な地に御幣を立てる。

秋祭りにお渡りがあったのか存じ上げないが、十年ほど前にたまたま通りがかったときに祭りを終えて片づけていた神職がおられた。

神職はなんとなく村神主のように思えた。

帰宅してから調べてみれば秋祭典におけるお渡りに行幸したお旅所の神事のようだ。

かつては当家制度もあったが現在は廃止されているようだ。

拝読した史料は平成26年3月に奈良県教育委員会の編集・発刊した『奈良県の民俗芸能―奈良県民俗芸能緊急調査報告書』。

戸隠神社からお旅所までの参道で稚児が弓を射るマトウチ(流鏑馬)があると記していた。

また、神事スモウもあるらしく、それは土俵を設えた神社境内で行われていると書いてあった。

報告書の調査年は平成24年。

現況はあまり替わっていないように思える祭礼は来年にお願いするとして行事日はいつか、である。

現在は祝日の体育の日であるが、元々の祭礼は旧暦九月六日であった。

近代になってからは10月17日であった。

その後の平成18年に体育の日に移したとあるが、神事スモウは祭礼が終わった数日後に行われているようである。

当家制度は廃れたようだが、大座、助郎座、今座、新座の四つの宮座がある。

特に祭礼のお渡りに於ける配役は四座が担っている。

その配役を決める日は10月1日の御幣切り。

また、猿田彦にお渡りを検知する陣配見張り役というのがあるそうだ。

(H28.10.16 EOS40D撮影)

岩船の行事

2017年06月14日 09時22分55秒 | もっと遠くへ(京都編)
京都府木津川市の加茂町岩船に鎮座する白山神社の秋祭り。

おかげ踊りを奉納された保存会の人たちは参籠所で直会をされる。

その間は村の人たちがめいめいで氏神さんに手を合していた。

社殿は2社ある。

左側が白山神社で右に建つのが春日神社である。

写真は撮っていないが白山神社が建つ左奥には小社の天満宮もある。

ある家族は社殿奥まで巡って手を合わせていた。

そこにあるのは建ち並ぶ石。

それぞれが何の神さんなのかわからないが巡拝してはお供えをしていた。

お供えは少額の硬貨。

一円玉をそれぞれに置いては手を合わせる。



子どもたちはそれを見習っているのかどうかわからないが拾ってきたドングリを供えていた。

奈良に嫁いできたときにお姑さんが教えてくれはった作法をこうして今でも守っている。

一緒に参った娘さんも孫さんもひ孫まで。

2周、3周もするお婆さんがしてきた巡拝はお正月も必ず氏神さんに参ってそうしているらしい。

1周目はお金を供えるが、2周目、3周目はお金の供えはせずに巡拝する。

数えてみればこの石の神さんは31石もある。

刻印に南無大□、月、星、日、天子の文字が見られることから仏さんのように思えた。

白山神社は岩船寺鎮守社。

その関係であろうか。

尤も本社、末社に餅も供えるが、それは朝だという家の在り方。

2月3日のトシコシには豆を供えて先に供えていた豆を持ち替える。

いわゆる節分年越しの風習もしていると聞いて、また来てみたいと思った白山神社に風の祈祷と呼ぶ行事がある。



平成14年8月27日(火)の京都新聞夕刊に発行された行事写真のキャプションに「かつては氏子全員が社務所に一日籠って祈った。今は老人会の人たちが担っている」と書いていたという写真は女性ばかり。

二社殿の前にブルーシートを敷いた処に座っている。

現在は特定日ではなく、朝に集まって10巻の般若心経を唱えているそうだ。

また、神社行事に終身制の八人衆がいる。

村総代は2人。神社総代もあれば寺総代もいる。

毎月の1日と15日は神社の清掃。

それを務める四人衆がいるというから宮座制度にトウヤ制度もあるのだろう。

(H28.10.16 EOS40D撮影)