マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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峰寺六所神社の宵宮当家

2012年12月21日 09時48分01秒 | 山添村へ
山添村峰寺に鎮座する六所神社。

承久の乱は承久三年(1221)、その頃に神社仏閣を破却し御殿を打ち壊しご神体を取り出したと伝えられる六所神社である。

往古の時代には社殿もなく臨御の大石をご神体としていた。

氏子相集まり社殿を創建するにあたり、建てる位置を選定した。

その折りに一夜にして転倒された御神石。

これを御神託であると感銘し、謹んで仰ぎみ御石の上に神殿を築造したと伝わっている。

大山祇命を主神として輝之速日命、熊野忍踏命、熊野忍隅命、天忍穂耳命、天穂日彦、天津彦根彦の六柱の神々を祀る。

大正4年に記された『東山村神社調書(写し)』文中の社記によれば暦応三年(1340)九月二十七日に造営ス云々とあることから、そのときに社殿を創建したのではないだろうか。

延寶六年(1678)九月八日、神祇官領卜家(卜部兼連)より奉わった宣旨によれば「大和国添上郡の松尾、的野、峯寺等之邑の六所を大明神号者と宣授」とある。

文禄戌ノ年(1592~)では六所権現と呼ばれていた神社に大明神号を奉授した。

古来より本村の峰寺、及び的野、松尾の郷社として今なお祭祀を共にしてきたというのだ。

六所神社には杵築神社、宗像神社、水神社の境内三社がある。

由来によれば山神や河川嶋中に鎮座していた三社を政府法令によって明治維新の際に遷したようだ。

「当社を権現と申し奉て、恒例の祭祀にも魚物を不供 氏子等も魚味を忌憚るかし 往古は奏神楽して神慮を清浄め 賜べしも中此より文に流れ俗にす・・・」と文中にある「奉神楽」。

古来より祭祀されてきたという今なお峰寺、的野、松尾の各村によって行われてきた奏神楽。

三村が揃って祭祀するのではなく一村が年ごとに交替して神楽を奉納してきた。

昨年は松尾が担った。

今年は峰寺で翌年は的野が祭祀する。

その順に変わりなく勤めてきた三村。

3年に一度が回りになる郷村の祭祀は特別な祭儀。

年中行事は一社相伝の舞楽、神楽歌及び祈祷法とされ渡り衆と呼ばれる8人の豊田楽人が役目にあたる。

神社調書によれば一社相伝の旧例祭儀式は古来旧九月二十七日だった。

翌日の二十八日は「帰り夜宮(後宴かも)」と称して御幣元となる当家で営まれる。

男子出生せし家と定まっている御幣元の当家である。

豊田楽人と呼ばれる神楽の舞人は当該村の穢れなき年長者があたる。

旧九月一日に当家の家に参集し七五三の注連を飾って渡りの準備をする。

同月二十三日では当家祝いとして楽人並びに氏子たちを招待して饗応。

同月二十六日には再び当家へ参集して儀式の準備を調えた。

翌二十七日が神前で行われる祭儀であった。

今日の祭祀日は10月14日に行われている当家の饗応。

宵宮の日だ。

午前中に調えた渡り衆の小道具。

メロウダケと呼ばれる青竹を細工して横笛を作る。

上は2穴で下が1穴と決まっているそうだ。

竹を細工するのは他にもある。

ヒワヒワと呼ばれる弓である。

これはアマツコ竹で作られる。

これらは毎年作られるが、グワシャグワシャと呼ばれるササラの編木、太鼓、鼓は三村の共同道具である。



これらの道具を用いて演じられる豊田楽舞いをホーデンガク(奉殿楽の文字を充てている)と呼んでいる。

8人の渡り衆が奏でるホーデンガクはそれぞれの役が決まっている。

一老、二老はヒワヒワ。

三老、四老がグワシャグワシャ。

五老、七老は笛。

六老が太鼓で八老は鼓だ。

ほとんどが鳴り物だがヒワヒワは音をださない。

神さんに向かって舞いを演じるのはヒワヒワの二老、グワシャグワシャの四老、鼓の八老たち。

他の人たちは鳴り物を作法する。

本来なら当家の家は注連縄を張るのだが、事情でこの年は見られなかった。

それはともかく午前中の作り物は順調に進んで翌日に作る予定だった日の丸御幣も出来あがった。

ゆっくりと寛ぐ渡り衆。

当家がもてなす料理をよばれる。

当家における饗応の膳は決まっている。

14日の昼の膳は揚げだし胡麻豆腐、ホウレンソウのおひたし。

権茸寿と称する酢立釜、茗荷寿と称する丸十密煮、射込みトマト、長芋紫穂、銀杏、射込南京、もずく、枝豆とジュンサイ(蓴菜)の汁椀、香物、果物である。

一方、当家のマツリを支援するのは家族や親せき筋。

膳の料理を口にすることはない家庭の味。

この日はマツリであるゆえご馳走も出される。



その内の一品がセキハンだ。

昼食によばれるセキハンには汁椀もある。

トーフやカマボコ、ミツバを添えたすまし汁。



煮豆の黒豆と共に真心込められた当家のご厚意を受けてよばれた。

当家接待の昼饗応を終えれば豊田楽人たちは衣装に着替える。

渡り衆が見につけた装束は「六所宮祭用装束箱」に納められている。

昨年は松尾であった装束箱である。

マツリを終えれば一旦は六所神社に戻されて宮総代が保管される。

マツリが近づけば宮総代が運んで当家に持ちこまれる。

その箱の裏面には「干時文政元年(1818)六月吉祥出来 宮年寄・・・云々」とあった。

当時の宮年寄は松尾村が中尾平八、松田喜三郎。

的野村は下荘助で峯寺村は池尻貞四良とある。

世話人に峰寺の幸場平四郎、的野の大矢政之の名がある。

松尾村、的野村、峯寺村各村の庄屋の名も見られる。

その箱には装束だけでなく、烏帽子、グワシャグワシャ、太鼓、鼓、扇や渡り衆を迎える提灯も納めている。

大切な衣装や道具は古くから三か村で使われてきたのである。

当家の座敷に対面座りになって練習をする8人の渡り衆。

3、40年前には当家の家で寝泊まりしていた。

朝早く起きて練習をしていたという。

その際にはお風呂に入って身を清めたそうだ。

それゆえ当家の家はお風呂を新しくするという禊の潔斎は8人が順番に入浴したそうだ。

年長者の二人が持つのはヒワヒワと呼ばれる「弓」。

グワシャグワシャと笛吹きも二人で、太鼓と鼓は年少者があたる。

始めに登場したのはヒワヒワの二老。

中央に出て正座する。

ピィ、ピィ、ピィー、ホーホヘと吹く笛の音色に合わしてドンドンドンと打つ太鼓と鼓。

指導書によれば太鼓はトンー、トン、トン。

鼓はポンーー、ポン、ポンである。

ヒワヒワを右の脇に挟んで右回りの時計回り。

右手に持った扇を左右に振る。

その間の楽奏はピィ、ピィ、ピィとトン、トン、トン、にポン、ポン、ポンと連打する鳴り物。

円の中心部を扇で煽ぐようして回る。

扇の煽ぎ方は風を起こすような所作である。

これを「アフリ」と呼ぶ。

漢字で充てればおそらく「煽り」であろう。

三周して元の位置に戻る。

三周目の際には太鼓を強く打って舞人に知らせるという。

再び正座して、ピィピィピィーホーホヘ、トンートントン、ポンーーポンポンの三音に合わせてヒワヒワを弓なりに曲げる。

ひょいひょいという感じである。

2回目の所作は左回りの反時計回りだ。

正座をしてヒワヒワを手前に置いて一礼する。

そして扇を持って1回目と同じように所作をする。

一礼をするのは神さんに向かって奉納するという拝礼の作法なのである。

次に登場するのはグワシャグワシャを持つササラ役。

ヒワヒワと同じ所作をするが、立てるのが難しいグワシャグワシャは倒れないようにすることが肝心だという。

いずれも笛吹き、太鼓、鼓の奏者が音を奏でて囃す。



最後に鼓役が登場する。

鼓を立てて同様の所作をする。

長老が指導するきめ細かな動作。

本番さながら出発前の稽古を終えた渡り衆は玄関先に移動した。



お渡りの際にも豊田楽の作法をするから道中を模して隊列は一列に並んだ。

お渡りのあり方も練習しておく峰寺の渡り衆であった。



念には念をと2度目の練習もこなして万全な体制を調えた。

(H24.10.14 EOS40D撮影)