マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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南之庄国津神社いっぱいだまし

2009年07月29日 07時23分35秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
奈良市都祁南之庄で行われている「いっぱいだまし」の行事。

岳山の龍王神社に参拝して降りてくると国津神社の参籠所で直会が始まる。

それが終わったころに行われる村の行事だ。

太鼓が打たれて始まった神事。

社守の二老さんは祓戸神社を前にして大御幣を持って祓えの儀式を行う。

それを済ませると大御幣を持った二老に続いて太鼓持ちの役員が境内の石塔をぐるりと回る。

村人衆らは太鼓打ちに続いて列をなして鳥居を潜っていく。

行き先は数十メートル離れたところにある大石で、そこをぐるりと回って神社に戻ってくる。

再び境内石を回り大石を目指す。

村人はそれに続いてついていく。

すると、二老はくるりとひるがえすように神社に戻る。

それを知ってか知らずか村人は大石を目指して歩いていく。

これを「いっぱいだまし」というもので、神社西南の方の金日(こんじつ)の地に狐狸が村人を騙すのを封じ込めるために始まったとされる。

金日の地は畑地より数段上の段丘地。

かつてそこには尼寺があったそうだがこの行事と関係あるかどうかは定かでない。

今日は大人を騙す格好になってしまったが本来は子どもを騙す行事だ。

村の連絡をしていたがとうとう訪れる子は一人もいなかった。

(H21. 5.24 Kiss Digtal N撮影)

南之庄のカシワメシ

2009年07月28日 07時16分49秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
田植えが終わっても農作業は毎日のこと。

奈良市都祁南之庄で農業を営むMさんはその農作業の合間に食べるカシワメシを作っている。

カシワメシはホオの葉がなければできない。

4月半ばの若葉を摘み取って保存しておく。

そのホオの葉は十字に置いて、ジャコを混ぜた温かい御飯を中央にのせる。

そこにキナコをまぶす。

葉を折りたたんで稲稿で十字に結ぶ。

ぶら下げるように注連縄のように紐を編む。

これで出来上がり。

ホオの葉は御飯の温さで徐々に焦げ茶色に変わっていく。

これがでてきたら食べごろだ。

ホオの葉の香りが移ったカシワメシはとても美味しい。

何個も作って腰にぶら下げて畑に行く。

お腹が減ったらこれを食べる。

箸はそこらにある樹の枝を削って作る。

ここら辺りでカシワメシを作っているのはMさん以外に数人の方がいる。

中身は違うがキナコは同じだという。

南之庄ではカシワメシ、田原ではホオの葉弁当、日笠地区や山添村北野ではホガシワと呼んでいる。

(H21. 5.24 Kiss Digtal N撮影)

続、都介野岳龍王神社毛掛篭

2009年07月27日 07時58分52秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
田んぼの荒起こしは稲カブの除去に労力がいる。

マンガンで土を起こすのは牛の労働力がいる。

そのあとスキで整えて田に水を張った。

牛は家族の一員で大切にしていた。

それは玄関に小屋があったことで伺える。

牛のエサは雑草。

田んぼには次から次へと生えてくる。

自然に生えてくるエサは牛が食べ放題。

それが耕運機に替わってからは雑草刈りに金がかかるようになった。

その飼い牛は田植えを終えてから平坦部に貸していた。

博労が来て牛を天理の柳本辺りに連れていった。

福住から高峰は今でも通れる道を連れていった。

平坦部から戻ってきたときの牛はやせ細っていたという。

(H21. 5.24 Kiss Digtal N撮影)

都介野岳龍王神社毛掛篭

2009年07月27日 07時55分35秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
田植えを済ませた日曜日に行われる奈良市都祁南之庄の毛掛篭は標高631.2kmの都介野岳へ登ることから始まる。

早朝に北の登山口に集まった総代、国津神社の社守さんや役員は車に同乗して数百メートル登っていく。

1/3ぐらい登ったところに車を停めてそこからは人力で登っていく。

登り口は西にもあるが、負担を楽にしていけるようにと今はこうしている。

登山道は杖をつくほど急坂だ。

頂上にたどり着くとそこに龍王神社が祀られている。

後方に祀られている四つの社は日輪教のもので龍王神社とは関係がなく、覆い屋が出来るまでは龍王社は石の上に鎮座していたという。

お参りを済ませると拝殿に座ってジャコを肴にお神酒をいただく。

毛掛籠もりの「毛」とは「毛」をかけるといって田植えのこと。

無事に田植えを終えることができたと参る奉告祭の意味がある毛掛籠もり。

田植え前は畑を耕す荒起こし。

かつてはその荒起こしを済ませたら荒起こし籠もりをしていた。

拝殿での直会はまさしく籠もりであって水の神さんの龍王さんと供に饗応するのだ。

この龍王さんは雨乞いの願掛けで登っていた。

村から提灯を手に持って登ってきた。

雨が降らんかった6月、7月。

お寺で般若心経を唱えてそれでも降雨がなければ登った雨乞い祈願の岳のぼりだった。

そのころ12歳だった50歳の男性は今でも覚えているという。

雨が三日降ったら国津神社で雨乞い満願の「コズモ」と呼ぶ子供相撲をしていた。

年長者が勝ったら御幣をもらう。

当時使っていた軍配が残っているそうだ。

(H21. 5.24 Kiss Digtal N撮影)

下三橋ノガミの栴檀花

2009年07月26日 07時07分57秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市の高田町と下三橋町の境目に掛かる佐保川の群界橋を渡って土手堤を北へ向かって百メートル。

大きな一本木の栴檀樹の下には祠が祀られている。

下三橋のノガミさんで毎年6月の早朝に神饌を供えて奉るという。

以前は12軒で行っていたノガミさん参りは代々継いできたO家が当主となって続けられている。

10年前は4、5人だったが今はIさんと2軒になった。

牛耕されていた時代は飼っていた牛を引き連れてノガミさんに参っていた。

大切な家族の一員であった牛が病気にならんようにと牛参りをしていた。

神饌はお神酒、洗米、塩だ。昔はチマキも作って持っていった。

ショウブ(コモの場合もあった)にモチを包んでヨモギで括ったチマキは10本。

それを屋根の上に放り投げていたという。

ノガミさんを守るかのように栴檀はほのかに香る花が咲いて6月を待っている。

村の田んぼの豊作を見守るようにノガミさんは高いところの堤防に祀られたという。

去年のノガミさん参りは草が生い茂っていた。

今年は綺麗にしたいと管理している国交省に伝えて早めに草刈りをやってもらった。

その国交省、村の希望で栴檀の木を伐採しようと頼んだが罰が当たると断られたそうだ。

(H21. 5.23 Kiss Digtal N撮影)

老舗旅館

2009年07月25日 07時36分07秒 | 奈良市へ
和上展へ向かう道を一歩一歩踏みしめていった。

国立博物館が見えてくる。

道路向こう側に目を向けると古い建物が存在する。

これが「日吉館」なのか。

奈良を訪れた文化人が宿泊・交流していた旅館だ。

女将が亡くなられて平成10年に廃業になった旅館。

それから11年も経過した宿は老朽化が進み、保存の道が途絶え一ヶ月後に取り壊された。

(H21. 5.19 SB912SH撮影)

鑑真和上展へ

2009年07月25日 07時34分14秒 | メモしとこっ!
平城遷都1300年祭を迎えて各寺院では大切な仏像などを特別開扉されることが多くなっている。

東京で開催された「国宝阿修羅展」や「尼門跡寺院の世界展」には大勢の観覧者が訪れ長蛇の列が続いたという。

奈良では国立博物館で「国宝 鑑真和上展」が開催された。

一枚のチケットを拝領したので後学のためにと足を運んだ。

近鉄奈良駅から博物館まではそんなに距離はない。

ところがだ、体調は相変わらず芳しくなく足取りは重い。

なだらかな坂道なのにとても時間がかかる。

貧血症は重傷領域に入っている。

少しずつ歩めては立ち止まる。

健康体ならすぐにでも着く博物館は遙か遠くに去っていくようだ。

普段の倍ほどの時間を費やしてようやく辿り着いたら平日の午後のためだったのか館外に並ぶ人は見られない。

それはともかく入館したらそこにも階段がある。

登り切ってようやく会場に辿り着いた。

そこは照明に照らし出された異次元のような空間が広がっている。

四天王立像、如来立像をひとつひとつ拝ましていただく。

東征伝絵巻は生き生きとした表情で描かれている。

そして鑑真和上坐像に出会う。

なかでも注目したのは八世紀の大雲経請雨品だ。

ときおり判読できる文字がある。

大雨に止雨。

おそらく大雨が降って止雨祈願したものであろう。

他にウシのクリとか牛乳年記の文字も見られる。

これはどういうことを意味するものなのだろうか。

農耕行事に関連することなのだろうか、興味が沸々と沸いてくる。

唐招堤寺では金堂が平成大修理の真っ最中。

古い写真に写りこんでいるひとかげが見える。

当時の装束に興味をそそられながら、最後は目の前にどーんと居座る鴟尾の姿に感動する。

見納めの鴟尾を後にしつつ帰路となったが、今日の身体ではJR奈良駅までの戻り道がとてつもなく遠く感じる。

博物館前は巡回バスが次から次へとやってくる。

これに乗ろうと思ったのは言うまでもない。

(H21. 5.19 SB912SH撮影)