マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

満願寺町古田神社住吉祭り

2010年09月18日 07時06分54秒 | 大和郡山市へ
現在は富雄川の西側の西岳山に鎮座する満願寺町の古田神社。

口承伝(句碑)によればかつては東側にあったとされる。

片桐の殿さんが小泉のほうにも米作ができるようにと川を付け替えた。

中世の富雄川は外川から東の田中、新木へと流れていたそうだ。

大乗院寺社雑事記に「文明二年(1470)此の井出は鳥見河をせき、切上て・・・三カ所より出合て沙汰云々・・新木池ともに入置きて」と、三ヶ井堰のことが書かれているそうだ。

また、築造年代は不明だが満願寺村に井堰を設置。

灌漑は七ノ坪から取水したことから七ヶ井堰と命名したようだ。

直線的な川に付け替えたという富雄川。

満願寺領から土を採って堤に利用したと話す住民たち。

だから今でも東側は低い湿地帯なのだという。

口伝によれば、富雄川の氾濫によって万寿年間(1024~1028)は現在地の東側に鎮座していた古田神社を西に遷座したそうだ。

1028年といえば長元元年。

治安が悪化した平安争乱の時代になる。

前述した井堰の記録時代と一致しないが旧社地には神田(じんでん)、鳥居前の地名が残されているという。

そのことはともかく、氏神さんを一年間守っているのは一人の村神主。

前日から神饌に供えるシトギ(粢)を作る。

一握りほどの白米を一晩水に浸ける。

それをすり鉢で磨りつぶす。

ドロドロになるのは米のエキスだという。

それを素焼きのカワラケにひたひた程度に注ぐ。

水分はカワラケに浸みこんでシトギは真っ白に乾燥する。

夕刻から始まった住吉さんのお祭り。

自治会長や長老らは拝殿右の上座に座る。

左は下座で宮司、巫女、村神主だ。

中央の道は「正中(せいちゅう)」。

神さんが通る道は開けておくと話す宮司。

戦後までは上座と下座の二座組織があったそうだ。

当時は服装も羽織袴だった。

簡素化されて今は普段着。

神社行事を下働きするトーヤやユタキサン。

二人組で構成されている。

住吉さんのお祭りはユタキサンが調えた御湯立てに向かって巫女が神事を行う。

東は伊勢大明神、南は多武峰大権現、西は大阪住吉大明神、北は春日若宮大明神の名を告げて呼びおこす。

湯に笹を浸けてそれを振る。

再び四方に向かい、それぞれの大明神に「この屋敷に送りそうろう」とお戻りになられることを告げた。

「祓いたまえ、清めたまえ」と鈴を振って祓い清める。

座の順に一人ずつ祓い清められて神事を終えた。

拝殿の席にお皿を置いていくのは村神主。



シトギの皿を添えていく。

一人一人は箸で一摘みしてシトギを手に置く。

それを口にするのが儀式。

味はないが祭典にとっては大切なもの。

シトギを祭礼に使うケースは県内行事でも数少ない。

シトギを神饌に用いる形式は古い時代を残していると考えられている。



儀式に登場するシトギは毎回の祭礼で差し出される。

かつて古田神社の祭礼に詣でるときは風呂敷に家で作った料理を重箱に詰めてやってきた。

拝殿は満席。氏子家族は境内に筵を敷いて食べていたという。

地元で採れた川魚。小さなジャコを煮詰めていた。

手で提げてきた提灯は拝殿にぶら下げた。

その名残の紐は今でもある。

昭和の時代まで掲げていたというから20年ほど前のことだった。

ちなみに満願寺町には旧地名とされる小字が残っている。ドウノマエ(堂ノ前)、ジンデン(神田)、フルヤシキ(古屋敷)などだ。

(H22. 8. 7 EOS40D撮影)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。