昨日の礼拝説教 テキストは「ルカによる福音書」1章57節~66節
タイトルは「御降誕を待つ人々」でした。
年老いた祭司ザカリアと妻エリサベトには子がありませんでした。
天使ガブリエルが現れ「妻エリサベトが男の子を産む。彼をヨハネと名付けなさい。
彼は母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、主の御前に偉大な人になる。
イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。」とザカリアに告げました。
それを信じなかったザカリアは事が起こる日まで口がきけず、話せなくなりました。
57節からの記事は
エリサベトは月満ちて男の子を産み、名前をザカリアとしようと言う周囲の人々に逆らって
「この子の名はヨハネとしなくてはなりません」と主張します。
困った人々は父親であるザカリアに手振りで尋ねると、ザカリアは板に「この子の名はヨハネ」と
書いたので人々は驚きました。
その時たちまちザカリアの口が開き話せるようになって、神を賛美し始めました。
バプテスマのヨハネの生誕を告げられても、マリアと違って御使いの言葉を信じられなかったザカリアは
10カ月間口がきけなくなりました。
この記事は神を信じられなかったザカリアの家の家族史ですが、同時にイスラエルの民族史でもあります。
不信心なイスラエル、彼らの中から救世主が生まれると約束されたイスラエルはそれを忘れ、信仰も停滞していました。
ここに私たちは、今日の教会の不信仰を見ることもできますが、神は約束を違えられない、変わらないという信仰を持つならば、
頭を上げて新しい時を信じることができます。
人と人国と国が理解し合えず、孤立感がつのり、今日の世界にはザカリアの失語症が蔓延しているともいえます。
日本は高齢化社会で、私達も自分は年を取りすぎたと思い勝ちで、この世に希望を持てないと感じることがあるかも知れません。
しかし、神を信じる私たちが神と共にことを始める時、何事も年を取りすぎたという事はありません。
ザカリアにとって口を聞けなかった10カ月間の最大の苦しみはそれが不信仰の故であったということでした。
しかし不信仰は人間にはつきもので、あのアブラハムも不妊の妻サラが懐妊すると告げられた時、神の言葉を笑いました。
「マルコによる福音書」には、病気の息子を癒してほしいとイエスに願った父親が「主よ、信じます。
不信仰な私をお救い下さい。」と言ったという記事があります。
ここには私たちの信仰の本質が示されています。
父親は私の全て(全体)をあなたの憐れみの中においてください、と頼んだのです。
ザカリアは10カ月間自分の不信仰と向き合い、信仰に導かれました。
孤独のうちにあって信仰の純度が高められました。
人々に「名前はヨハネ」と告げたのは彼の信仰告白です。
家族史としては妻と信仰が一致した喜び、イスラエルの民族史としては主を迎える準備ができた喜びの時でした。
ザカリアの10か月間は私たち人間が神を迎える信仰のための準備期間です。
信仰を求め続ける者には主の降誕を喜ぶ気持ちが神によって与えられます。
68節からの「ザカリア賛歌」には神の憐れみの中に置かれていることを信じる人の喜びが歌われています。
78節は神の憐れみから人間の希望が来ることを歌っています。
主の御降誕から、主を望みとするかぎり、私たちに望みはあります。
曙の光が私たちを訪れるのがクリスマスです。
ザカリアのように誉め歌を歌いながら御降誕をむかえましょう。 (以上、文責はゆうゆうにあります。)
相変わらず、まとまりのない要約で申し訳ありません。 m(_ _)m
美竹教会のホームページの「9.説教集」で上田牧師の説教全文を是非ともお読みください。(タイムラグがあるのがちょっと残念・・・)
ヒマラヤ杉のてっぺんから飛び出した<オオタカ(♂)>です。