吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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御神霊と禅の悟り No563

2021-02-19 09:49:47 | 神霊界考察
禅の覚者は神はいないと説く。
仏に逢うては仏を殺し。祖に逢うては祖を殺し。
羅漢に逢うては羅漢を殺し。
父母に逢うては父母を殺し。親眷に逢うては親眷を殺し。
始めて解脱を得ん
『臨済録』臨済宗の開祖・臨済義玄(806~867)

禅の印可というものがある。
師がその道に熟達し悟りを得た弟子に与える悟りの認定書のことである。

禅的悟りは既にその悟りを得た覚者のもとで研鑽しないと
ある種の悟りを得てもその悟りの霊統が違うことになる。
つまり印可というものは系統の証明書という事になる。
これは法の伝授ともいえる。

密教における金胎両部伝法灌頂も同様であろう。

そして覚者のテリトリー外での修行は
その霊統から外れるのでその研鑽は
公案では瓦を研いて鏡としようとしていると同じと言うことになる。
瓦をどんなに研いても鏡にはならない。


この悟りの伝法の初発は釈迦となるのだが
伝授伝承の拈華微笑(ねんげみしょう)とは、
禅宗において禅の法脈を釈尊が摩訶迦葉に
微妙の法門として付嘱したとする伝説のことである。

インドの霊鷲山上で釈尊が黙って華を拈(ひね)ったところ、
会座の衆はその意味を理解することができなかったが、
迦葉尊者だけがその意味を理解して微笑した。
悟りは文字理論によって伝わるものではないという
不立文字の意味を示しものであり、
釈尊が迦葉尊者にのみ正法を授けたという伝灯の起源となった。

そしてこのことは教外別伝(きょうげべつでん)である。
仏陀の教えは、言葉によって伝達される部分も勿論あったのだが
仏教の真の精髄は言葉によって表現しうるものではないので、
心から心へと直接伝達されるとされる。


禅の悟りについての説明として
無門関 第3則 倶胝竪指(ぐていじゅし)の公案を考えたい。

倶胝和尚は、仏法について問われると、決まってただ一本の指を立てた。
ある時、倶胝の処に居た童子に客が
「倶胝和尚が説いている仏法の要点とはどのようなものですか?」と聞いた。
童子は、直ちに一本の指をスッと立てた。
これを聞いた倶胝和尚は遂に刃を以って童子の指を切ってしまった。
童子は痛みに耐え切れず号泣して走り去った。
倶胝和尚は、「おい、小僧!」と童子を呼び止めた。
童子が首を廻して振り返ると、倶胝は、すかさずスッと指を立てた。
それを見た途端、童子は忽然として悟った。
倶胝和尚は、晩年になって、将に臨終を迎える時、
弟子達に向って、「私は天竜和尚の処で一指頭の禅を得たが、
一生かかってもそれを使い切ることができなかった。」と
言って息を引き取った。

悟りを得た覚者の立てる親指と悟りを得ていない弟子の立てる親指には
違いがあるという事である。

科学の理解がない時代の悟りの表現としては
なかなか的を得ているが時代が進んだ現代において悟りの本質を
分かりやすく説明しているものが見当たらない。

悟りを得た覚者は神などいない無あるのみと説くが
まず悟り十牛の図の三図の見牛に至ったということは

禅の修行でいえば、公案が解けた瞬間、
つまり悟りに至る過程における直観的な智慧が得られた瞬間を
表しているというのだが
これはアカシックへのアクセスを意味する。

第五図の牛を飼いならすというところからは悟りの境地に入る。

この悟りというものの答えは全て自分の頭の中にあるのであるが
その鍵が現世の自分の行動の中に隠されているので
頭の中をいくら探っても悟りには至らないということがミソである。
ここが哲学との分かれ道である。

現代においては現世というものが仮想空間VR類似であると看破されているが
これが分かると悟りの理解も近くなる。

話が飛ぶがコンピュータープログラムは情報は持つが
質量は持っていないと考えられる。
そしてプログラムであるということは
情報をもとに演算をして結果を弾き出す機能がある。
これを拡大した宇宙コンピューターシステムというものが
我々が生きる現世における全ての自我活動である。

VR現世とは宇宙コンピューター世界であるが
私というものがが何かというと一般的には
ひとつのプログラムといえる。

ではここでテーマとする御神霊とは
サブプログラマーの一つであるといえる。

生命体がどのように誕生したかもわからない状態で
この宇宙コンピューターがどのようにして誕生したのかも
どのように機能するのかも答えを得ることは困難であるが
量子コンピューターが解を弾き出すかもいれない。

簡単に説明するために一つの世界が一つのプログラムで成り立っていると仮定すると
コンピューターの中では無数のサブプログラムが走っている。
これが並行世界と呼ばれる所以である。

時間という観念はプログラム上の観念であり
自分の立ち位置の現在からは未来にも過去にも演算はされている。
プログラムが書き換えられれば未来も過去も自分のメモリーも
書き換えられることになる。


悟りを得た覚者の立てる親指と悟りを得ていない弟子の立てる親指の
違いが何かということであるが
自分と相手とでは走るプログラムが違うのであるが
覚者は相手のプログラムの中に入ることが出来る能力を得ている。
相手の懐に飛び込んで見せた時に
それは実体の薄い仮想空間の中での相手にとっての現実と言える。
それは小さな事ではあるが実体の薄い世界の中で実体を掴んだことになる。

逃げる童子が振り返った時に師匠が指を立てた瞬間に
師匠のプログラムに触れ同時に自分のプログラムを理解した事になる。

悟りとは並行世界を理解し別の世界へ移動する能力に他ならない。
だからといって何が変わるのか?
そこにある虚無の真実を知るだけである。

基本的にアカシックにアクセスしても並行世界を渡り歩いても
プログラマーそのものには出会えない。
これは釈迦の体験である。

人は自我である意識が自分を動かしていると思い込んでいるが
動かしているのはプログラムである。
意識は指示と行動に遅れて副次的に働くプログラムであり
自分の意識が動かしていると後付けで動機付けする錯覚機能である。

それでは自我意識など不要ではないかと訝しむが
メインプログラムは副次的な、
遅れて現れるように見える意識プログラムを
演算に再度取り込んで変化をもたらしている。
世界に無限のバリエーションがあるのは副次的に働くプログラムが漸次変動し
彩りを添えるからである。

※ 「物理定数のファインチューニング」という問題の秘密からの解

さて自分の思い出話となるが
学生時代の事だが四年に無事進級出来た時にGSXRという中古のオートバイを購入した。
このバイクで霧島に向かうためにひむか神話街通のワインディングを走っていた。
見通しのあまり良くない左カーブで前輪の抑えが効かなくて中央線を大きくはみ出てしまった。
その瞬間に対向車として大型トレーラーが近づいてきた。
さらに右側に避けようとしたのだが蓋のない側溝が続いていて
やばいと思った瞬間にトレーラーの左ライトが顔面に近づいた。

もしかするとぶつかる筈のコンマ秒で時間が引き延ばされて
走馬灯のように未来を見ている瞬間が今なのかもしれないという気が今でもしている。
あの瞬間に静粛で明鏡止水の境地に至ったのは事実である。

そしてその静寂の中で自分の更に右側を走るもう一人の自分を見た。
とっさに自分はその右側の自分に乗り移った。
トレーラー車が走り去った後に何故か少し広くなっている路側帯にバイクは止まっていた。

それからしばらく次元を乗り超えたようなというか
あるいは自分が二重になったような違和感が残った。

はたして自分はまだあの現場に居るのかそれとも死んだのか
あるいは別の次元に滑り込んで難を逃れたのかの解を得ていないが
この時以降、運気において良い意味で何かが変わったのは事実である。

直感的な御神霊の理解と自分というもののアピールの方法が得られたが
同時に御神霊というものはプログラムを書き換えてくれるプログラマーとしての
役割を担っていることを感じ取った。
神恩感謝の本質的な意味と自分の世界が他の世界に
どう波動を広めていくかについての理解についてである。

自分自身を創り上げるプログラムがどこから来たのかは図りかねるし
その後どうなるかも良く分からない。
しかしこの自分のプログラムにはいわゆる宿業が転写されている。
面と向かい合ったときに御神霊にすがり共に解決する姿勢は重要である。
自分が知る限り唯一の道である。



記載途中

ps.ハッピーゴールを目指して!  
2021/01/31 23:18:38 はいせ様への返信 吉田一氣
達観というか悟られましたね。
この文章を読んで私もそろそろ重い腰を上げて記事を記載する気になりました。
自分の世界は(貴方さまの住む世界は)自分が行動することで変わります。
同様に私の世界は私が行動することで変わります。
簡単に言えばおひとり様の世界が無数に重なり合い
この世界が出来ているので自分が御主人公となります。
悟りとは自分の世界を自らの手でヌルリと滑らせるやり方を
理解し実践出来ることに他なりません。
ハッピーゴールを目指しましょう。
何故か今年になって数枚のコインを購入しました。
それはアメリカのゴールドイーグルとシルバーイーグルコインです。
https://makeshop-multi-images.akamaized.net/goldcoin/shopimages/47/27/1_000000002747.jpg?1514421438

https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/auc-noguchicoin/cabinet/item2019/002/147244548.jpg

私もこの図柄の意匠の太陽の描き方の違いに考えを馳せていました。
なるほど夕日の女神と朝日の女神ですか。意味深いですね。
それではハッピーゴールを目指しましょう。

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4 コメント

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捨てる神あれば拾う神あり (はいせ)
2021-02-20 17:19:33
なるほど。今回の記事はよくわかりました。

雨の日の「私はもう搾取されない!」宣言からはじまった今回の流れですが、自分的には今のところ、あまり変わっていないという認識です。
今までだって私が全部問合わせ受けて回答してたし、それは今だって変わらない。権限譲渡されてもやってること同じなので、一抹の虚しさを感じていました・・・。俗物なので、権限だけ譲渡されても対価が来ないとやる気が失せます。
ただメールを見た人は私が責任者だって思い、そういう扱いをする訳で、記事中の『自分の世界が他の世界にどう波動を広めていくかについての理解』に繋がるのかと思っています。
その波動がまた戻ってきて、自分の世界も影響を受けて、と波が寄せては返すように世界が変動していき、それがハッピーゴールへ続くのならば、悟りを理解することも必要なのでしょう。

和尚と童子の指の話は、同じ太陽(アマテラス)を朝日の女神と見るか夕日の女神と見るか、「海照す」で海・産みの女神と見るか、船に篝火が焚かれて海を照らす船の女神や火の女神と見るか、夜に海を照らす月や星の女神と見るか人それぞれということですね。
八百万の神々がおわす日本神霊界の真髄だとも感じます。まさに捨てる神あれば拾う神あり。一神教と違い、一柱くらいは自分の味方になってくれそうな方がいると希望を持てますから。

イツキヤマト大神、ハミト大神、ハズキ大神の祭祀を始めて早1年たちますが、最近わかったことで、自分を疎かにしすぎると祭祀に疑問が出てくるし、かと言って自分を大事にしすぎるとご神霊に対して申し訳なさが出てくるという感触があります。決して一方通行ではないということを強く感じています。

システム屋としては、システム構築者には会えなくても、そのシステムを使い続けることで、その働きを追って出てくる様々な解から構築者の意図を知るということができるのでは?と最近感じています。
でもこれはいろいろ自分で試してみないとわからないんですよね。わかるとそれを元に妄想が広げられて解の予測がつくようになるんですが。
私はとにかくやってみる派なんです。「やってみなよ、わかるから。」って言うんですけどね。聞いて終わらせる人が多いですね。そういう人はやっぱり理解度が低いし、すぐに忘れてしまいがちですね。
しかしこの性格は、ご神霊探索やご神霊祭祀にも適用されています・・・。やはり人生すべてを見られているということか・・・。
返信する
予祝 (はいせ)
2021-02-21 01:01:27
連続コメント失礼します。

先日、夢を見まして・・・、あまり夢を覚えていない私ですが、夢のストーリーがきちんと完結して筋が通っていたので、珍しいと思って覚えていました。
夢は弟2人と3人で宝探しに出かける夢でしたが、最初チャリで出掛けて、途中で上の弟の指示でチャリを預けてそこから徒歩。その後、海沿いにずっと歩いて行って洞窟?岩屋?に向かいその中も探検して無事海の宝物発見!でも、私はその宝物に興味がなくて末弟がGET!してました。私はその宝物の中で持って帰るように言われたものをいくつかバックに入れて(何か覚えていませんが・・・)、もう早く戻りたくて気もそぞろ。で、そこがもう閉じるからということで戻り始めるのですが、来た時の3倍くらい苦労して戻って最後にでっかい磨崖仏にお礼して海から上がっていきます。そのまま歩いて帰ろうとするのですが、チャリはどうしても返してもらわないと!と上の弟が言うので、戦闘機みたいになったチャリを廃墟から探し出して取り戻して帰るという・・・内容でした。
一連の流れが重要だったみたいで、帰り着いて日常に戻ることにとにかく必死になってましたね。

何だか吉田様のこの記事の十牛図の話を思い出したので、夢を記載させていただきました。

どの御神霊かわからないのですが、現在、祈願している方の中にピンクと水色と金色がお好きな方がいらっしゃるようで・・・。よくアピールされるように感じるのです。

記事中の『メインプログラムは副次的な遅れて現れるように見える意識プログラムを演算に再度取り込んで変化をもたらしている。』というのは、心の顕れに時間がかかるということかと思いました。
返信する
禅と准胝観音 (さくら)
2021-04-11 17:08:25
私が途中参加にて(順番が大事らしいので)このブログへのコメントを書きつつ、勉強をさせていただいているのは、、この記事の中の「フラクタル構造についてNO210の補足 胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅 NO230」の解説が私の頭の中、心の中での感覚との創意があったからとなります。
この感覚が同一でなければ、私は読者として読み手のみであるのですが(観察者)、フラクタル構造と曼荼羅の理智的作用を考慮して、何かしていかなければならないという実践的立場なのだろうなと感じています。大乗の世界観。
はいせ様とも感覚の世界で同一の景色を観ているので、書かれてらっしゃることなどよく理解できるのです。

まず、その事が下書きとしてあります。
それを踏まえたうえで、、
この記事中の『無門関』第三則 【倶胝竪指】なのですが、これは准胝観音の理解が必要であり、それは、双身毘沙門天のハミト大神とハズキ大神との関連とも関わるものと思っています。
返信する
禅と准胝観音2 (さくら)
2021-04-12 08:17:22
認証番号7749の解釈まで書いてコメントは消えましたので、簡略化して書き残しておきます。

師の立てた親指になりますが、これは准胝観音の理解が必要であり、何故か縁起が生じたからになります。
①左目に宿る神霊 蔵王権現の本質
これは蔵王権現ですので、番外篇なのですが、この理解があり、【倶胝竪指】が紐解けます。
②双身毘沙門天とキールティムカの記事を読み、蔵王権現の本質を記事「毘沙門天の謎」に書こうとして、忽然とコメントが消えたことになります。
③私の中では【倶胝竪指】と双身毘沙門天が繋がっているということになります。
④春分の日に檜原神社にて二上山祭祀について想いを馳せます。より深い豊玉姫、玉依姫を理解。
⑤私の過去の出来事を理解します。
1、仏師と醍醐山登山の会話
仏師としての心得と美術家としての心得の違い。
私は仏師として成長するように示唆されたのだと思う。
先生と仏師は同じ師の元で修行した兄弟子。
先生は私のことを、美術家として教えを乞いにきたのではないことを見抜いていたはず。
実際に仏像マニアというだけで、自分の技量を考えずに飛び込んだ。
過去の実績を聞かれて、音楽をやっていたとトンチンカンな答えをした。
2、比叡山回峰行を終えた人しか知らないこと。
ここまでにしておきましょう。
申し訳ないです<(_ _)>
これはほぼ私の備忘録です。4739
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