熊本の天社宮や味噌天神等で祀られる初代国司の道君首名公は
越の國の道君家を出生地とし
奈良の都の官吏としては
律法=今の国会機能として大宝律令の作成に関わり僧尼令を講義し
外務省としては新羅大使となり
県知事としては筑後肥後守に任じられ
宗教家としては病気平癒を『小天天子宮』で行い
土木指導では柳川の水路や筑後川・菊池川・白川の河川を整備し味生池を作り
農業指導を行い農民に感謝され
文学家としては懐風藻に漢詩を残すほどである。
公式な国の歴史書の続日本紀にも
官吏としては異例とも言える長文の記載で道君首名公の業績が褒め称えられている。
人として初めて神として祀られた最初の人物としても知られる。
※正史以外では藤原鎌足の談山神社説があるが
これは調査の結果藤原不比等の偽装と考えられる。
自分で自分の親を神として崇めさせるという事は不遜以外の何物でもない。
道君は越の出身であるが
今回ネットで調べていて新しい発見があった。
『のっティ新聞VOL.11』
道君の本貫地とされる金沢・森本にある「郡家神社」についての記載だ。
これが道君首名公の氏神社の一つではないかと感じた。
「明治初年 社名を少名彦那神社と称す」とある。
さらに調べると
「延喜式内社で、聖武天皇天平5年=733年の創祀と伝え、
もと吉原村山中杉ノ水と称する霊水の辺りに在ったが
醍醐天皇延喜5年現在地に移り、
延喜の制、国幣小社に列せられ、
貞観18年正六位から従五位下を授けられた古社にあてられる。
奈良朝より加賀国造石撞別命累代の崇敬篤く、
社領の寄進等あり、明治6年8月村社に列格。」
ということが分かった。
とうことは肥後の地で道君首名公が少彦名神を祭祀したことが
この地にまで伝わり創建された神社だということがわかる。
つまり由来的には天社宮(小天天子宮)からの勧請社ということになる。
それで道君首名公にあやかり加賀国造の崇敬が篤かった訳である。
この郡家神社は別名「薬師の宮」とも呼ばれていたそうであるが
これは少彦名神を祭祀している所以である。
現在は主祭神が大巳貴神(大國主命)となっているが
主祭神の入れ替えは残念なことである。
ついでにこの記事には
道君の道の出自はアシカのことではないかという事が書かれている。
『武内宿禰や蘇我氏に繋がる須賀社 続編 No166』
で考察しているが確かに「道」とはアシカのことでもある。
ここでは道中貴命を基準に
語源は「葦鹿」で「葦(アシ)の生えているところにいるシカ」の意味であるという。
つまりアシもスゲでありアシカも菅=須我に通じる言葉ということになる。
と記載しているが道君も菅=須賀に関わる一族であろうか?
ここで八代との繋がりが出てくれば確実なのだが
少しばかり面白いものを発見した。
『金沢市吉原町 郡家神社の解説板』
社紋が八輻法輪となっている。
法輪のスポーク=輻(や)が八本になっているものだ。
この八は八大人覚八正道を表わすといわれているが
私には道君が須賀につながるメッセージにも受け取れた。
継体天皇と蘇我氏と越の国との関わりを明確にしたいと調査中だが
道君は武内宿禰の子孫という系図も存在するので
当時は道君は菅=須賀=蘇我氏と同族であるとの認識があったのかもしれない。
※一般には四道将軍の一人の大彦命の後胤とされる。
もともと筆者が蘇我氏を調査するきっかけとなったこと自体が
『飛ぶ鳥を落とす勢い No284』に書いた通り
道君首名公の神霊に感応があったことによる。
従ってこの件についてはさらに今後のテーマとしたい。
ところで飛鳥時代の有能な官吏である道君首名公の神霊は
現在の日本における官僚の国に対する忠節心の無さを嘆かれている。
また自ら大王の地位にありながら官吏としての範も示した武内宿禰公の神霊も
同様に嘆かれている。
この二霊はこの国を守ってきた偉人が昇格した大神霊であるが
この二霊を崇敬する後続の官吏が菅原道真公ということになる。
私は官吏三大神霊とお呼びしているが
菅原道真公は御存知のように天誅をもたらす神霊である。
菅原氏は奈良の菅原町に由来する名前であるが
元は土師氏であり先祖は野見宿禰であるが野見宿禰は天穂日命の14世の子孫である。
従って彼の死後の霊的背景には血縁由来は薄い。
菅原道真は883年に兼任ではあるが加賀権守になり石川県に出向いている。
その後886年讃岐守を拝任しているが、
これらにより道君首名公の本貫地のことを熟知していたと考えられる。
また讃岐の満濃池を初めて造ったのは、
「萬農池後碑文」によると大宝年間(701年~704年)に
讃岐の国守道守朝臣(みちもりあそん)の創築となっているが
この讃岐国司という道守朝臣は道君首名のことではないかと考えている。
また平安時代になって賞されるべき官吏と言う事で道君首名公は再評価され
孫の道公廣持は835年承和二年に當道朝臣の姓を賜っている。
(※君の字は天子を意味するので使用禁止となり公と書換え)
菅原道真が大宰府に流された際にも
道君首名公の偉業を目にしたことは想像に難くない。
柳川の水路や一級河川の整備に農業政策に国司としての統治能力には
同じ国司として先輩である道君首名公の多能な業績に驚いたはずだ。
大宰府に流される際に少彦名神の神霊に祈った道真公だが
同じ藤原家により九州の地に追いやられた道君首名公の思いを
十分に理解したことであろう。
大宰府での境遇を呪う道真公は天拝山に登って祈願をしている。
この際に神となった道君首名公と武内宿禰公と道君首名公が祭祀した
少彦名神と大國主命に祈りを捧げたと思える。
彼の死後彼を霊界から神霊界に引き上げることとなったのは
この天拝山での祈り故である。
菅原道真公は「天満大自在天神」として思う存分に藤原に祟る。
この官吏三大神霊が今まさに動き始めている。
もちろん祟るのは官僚と政治家ということになろう。
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越の國の道君家を出生地とし
奈良の都の官吏としては
律法=今の国会機能として大宝律令の作成に関わり僧尼令を講義し
外務省としては新羅大使となり
県知事としては筑後肥後守に任じられ
宗教家としては病気平癒を『小天天子宮』で行い
土木指導では柳川の水路や筑後川・菊池川・白川の河川を整備し味生池を作り
農業指導を行い農民に感謝され
文学家としては懐風藻に漢詩を残すほどである。
公式な国の歴史書の続日本紀にも
官吏としては異例とも言える長文の記載で道君首名公の業績が褒め称えられている。
人として初めて神として祀られた最初の人物としても知られる。
※正史以外では藤原鎌足の談山神社説があるが
これは調査の結果藤原不比等の偽装と考えられる。
自分で自分の親を神として崇めさせるという事は不遜以外の何物でもない。
道君は越の出身であるが
今回ネットで調べていて新しい発見があった。
『のっティ新聞VOL.11』
道君の本貫地とされる金沢・森本にある「郡家神社」についての記載だ。
これが道君首名公の氏神社の一つではないかと感じた。
「明治初年 社名を少名彦那神社と称す」とある。
さらに調べると
「延喜式内社で、聖武天皇天平5年=733年の創祀と伝え、
もと吉原村山中杉ノ水と称する霊水の辺りに在ったが
醍醐天皇延喜5年現在地に移り、
延喜の制、国幣小社に列せられ、
貞観18年正六位から従五位下を授けられた古社にあてられる。
奈良朝より加賀国造石撞別命累代の崇敬篤く、
社領の寄進等あり、明治6年8月村社に列格。」
ということが分かった。
とうことは肥後の地で道君首名公が少彦名神を祭祀したことが
この地にまで伝わり創建された神社だということがわかる。
つまり由来的には天社宮(小天天子宮)からの勧請社ということになる。
それで道君首名公にあやかり加賀国造の崇敬が篤かった訳である。
この郡家神社は別名「薬師の宮」とも呼ばれていたそうであるが
これは少彦名神を祭祀している所以である。
現在は主祭神が大巳貴神(大國主命)となっているが
主祭神の入れ替えは残念なことである。
ついでにこの記事には
道君の道の出自はアシカのことではないかという事が書かれている。
『武内宿禰や蘇我氏に繋がる須賀社 続編 No166』
で考察しているが確かに「道」とはアシカのことでもある。
ここでは道中貴命を基準に
語源は「葦鹿」で「葦(アシ)の生えているところにいるシカ」の意味であるという。
つまりアシもスゲでありアシカも菅=須我に通じる言葉ということになる。
と記載しているが道君も菅=須賀に関わる一族であろうか?
ここで八代との繋がりが出てくれば確実なのだが
少しばかり面白いものを発見した。
『金沢市吉原町 郡家神社の解説板』
社紋が八輻法輪となっている。
法輪のスポーク=輻(や)が八本になっているものだ。
この八は八大人覚八正道を表わすといわれているが
私には道君が須賀につながるメッセージにも受け取れた。
継体天皇と蘇我氏と越の国との関わりを明確にしたいと調査中だが
道君は武内宿禰の子孫という系図も存在するので
当時は道君は菅=須賀=蘇我氏と同族であるとの認識があったのかもしれない。
※一般には四道将軍の一人の大彦命の後胤とされる。
もともと筆者が蘇我氏を調査するきっかけとなったこと自体が
『飛ぶ鳥を落とす勢い No284』に書いた通り
道君首名公の神霊に感応があったことによる。
従ってこの件についてはさらに今後のテーマとしたい。
ところで飛鳥時代の有能な官吏である道君首名公の神霊は
現在の日本における官僚の国に対する忠節心の無さを嘆かれている。
また自ら大王の地位にありながら官吏としての範も示した武内宿禰公の神霊も
同様に嘆かれている。
この二霊はこの国を守ってきた偉人が昇格した大神霊であるが
この二霊を崇敬する後続の官吏が菅原道真公ということになる。
私は官吏三大神霊とお呼びしているが
菅原道真公は御存知のように天誅をもたらす神霊である。
菅原氏は奈良の菅原町に由来する名前であるが
元は土師氏であり先祖は野見宿禰であるが野見宿禰は天穂日命の14世の子孫である。
従って彼の死後の霊的背景には血縁由来は薄い。
菅原道真は883年に兼任ではあるが加賀権守になり石川県に出向いている。
その後886年讃岐守を拝任しているが、
これらにより道君首名公の本貫地のことを熟知していたと考えられる。
また讃岐の満濃池を初めて造ったのは、
「萬農池後碑文」によると大宝年間(701年~704年)に
讃岐の国守道守朝臣(みちもりあそん)の創築となっているが
この讃岐国司という道守朝臣は道君首名のことではないかと考えている。
また平安時代になって賞されるべき官吏と言う事で道君首名公は再評価され
孫の道公廣持は835年承和二年に當道朝臣の姓を賜っている。
(※君の字は天子を意味するので使用禁止となり公と書換え)
菅原道真が大宰府に流された際にも
道君首名公の偉業を目にしたことは想像に難くない。
柳川の水路や一級河川の整備に農業政策に国司としての統治能力には
同じ国司として先輩である道君首名公の多能な業績に驚いたはずだ。
大宰府に流される際に少彦名神の神霊に祈った道真公だが
同じ藤原家により九州の地に追いやられた道君首名公の思いを
十分に理解したことであろう。
大宰府での境遇を呪う道真公は天拝山に登って祈願をしている。
この際に神となった道君首名公と武内宿禰公と道君首名公が祭祀した
少彦名神と大國主命に祈りを捧げたと思える。
彼の死後彼を霊界から神霊界に引き上げることとなったのは
この天拝山での祈り故である。
菅原道真公は「天満大自在天神」として思う存分に藤原に祟る。
この官吏三大神霊が今まさに動き始めている。
もちろん祟るのは官僚と政治家ということになろう。
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まだ分かりませんが、興味ありますね。
八幡様も一般的には水神様との繋がりが深いように思えます。
熊本で元宮と言われている菱形八幡宮は
水神様を本殿裏の白龍窟で祭っています。
「神皇正統記」(北畠親房)によれば肥後の菱形の池に
応神天皇の生まれ変わりである八幡神が降臨して
へその緒を切った後にこの八幡神は白龍窟を通って
宇佐に移ったとされます。
ここの八幡神は龍神様ですが
宇佐では菱形池に水分神社が建立されて水神を祭っています。
ところで虹色巫女様のいう大分八幡神社というのは
筥崎宮の元宮の福岡県飯塚市にある神社のことでしょうか?
そういえば秩父では妙見神が水の女神とされています。
雨が降らないとどの神社でも水神を祀るので
竜神さまと混淆されてしまうのはしかたありませんね。
稲荷と水神との関係はどういう理由でしょうか?
私がパッと稲荷でイメージするのは稲霊、稲成り、餅、
荼吉尼天 管狐、宇迦之御魂、豊受、田畑神、
水神稲荷、経王大菩薩などがあります。
この中で宇賀弁財天が稲荷と水神さまの橋渡しをしている
ように思えます。
ちなみに伏見では薬力社で薬力の水が飲めました。
あるひとによると少彦名神を祀っているそうですが。
これは仏教的な「法輪」というものである、とラサのシンボルの解説にありました。(八光線を放つ太陽、というよりも)
少なくともこのカタチを通じて見るかぎりでは、菊池氏と道氏は縁がありそうなことになります。
ひいては菊池氏、道氏、蘇我氏は縁がありそうな、ということに。
>菅=スガ(菅・須我)は菅=スゲという植物同じと辞書に出ているが、足鹿=アシカは奈良時代には「みち」と呼ばれていたそうである。
それで道中貴命は足鹿神社と繋がることになる。語源は「葦鹿」で「葦(アシ)の生えているところにいるシカ」の意味であるという。
つまりアシもスゲでありアシカも須我に通じる言葉ということになる。
(武内宿禰や蘇我氏に繋がる須賀社 続編 No166より)
スゲ、チガヤとそれらにつく褐鉄鋼「すず」は私の古代史への関心の原点みたいなものです。(真弓常忠氏の本は古代史本では一番大事な本。)
すずは高温多湿の低地よりも少し乾燥ぎみの高原などでよく生育するとも聞きました。つまり青蔵高原、チベット、パミールなどの湖沼、河のほとり・・・?
万葉集などで「鹿が鳴いて云々・・・」という歌が非常に多いですが、たいてい悲哀感・寂寥感ただよう歌です。これを単に情緒的な歌と捉えるよりも、一種の暗号ではないかと漠然と思ってきました、日本国の成立とともに抹殺された倭王朝への挽歌、というふうに。
もっと具体的には菅・茅の原を源郷とする呉系の民の衰亡、滅亡、それを悼む心情、ということでしょうか。
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検索してみると
『日足とは日の光のことで、
日足紋は太陽光線を図案化したものといわれています。
日足紋を家紋に用いた大名は、肥前の龍造寺氏・大村氏・鍋島氏、肥後の菊地氏、筑後の草野氏など北九州に多く、これは肥の国=日の国にちなんだからではないかといわれることが多いようです。』
とありました。
肥の国=日の国という説とは別に
チベットから続く呉系の民の変遷史がからんでいるとしたら
とんでもなくすごい事だと思います。