邪馬台国論争というものがある。
大まかにいえば畿内説と九州説があって
それぞれに論拠を競い合っている。
筆者ブログで『邪馬台国』と『卑弥呼』を検索してみたが、
たいした記事を過去に記載していない。
それでも筆者ブログ記事の整合性を図るために
まずは確認作業を行うこととする。
『三輪山参拝 No115』
さて彷徨い続け伊勢にまで追いやられた神を最初に祭祀したのは
豊鍬入姫命である。
母は紀国造荒河戸畔(あらかわとべ)の娘の遠津年魚眼眼妙媛となっている。
引き継いで祭祀した倭姫命の母は日葉酢媛命であるが
この伊勢にまで彷徨った神がどういう神なのかははっきりしない。
ただ可能性を探ると天皇祖神か出雲神か邪馬台国祖神あたりになろう。
また伊勢に残るユダヤ色を考えるとユダヤ系天皇祖神の可能性も否定できない。
だとすると伊勢に対して歴代の天皇が興味を示さず放置された訳にも納得がいく。
※もし彷徨う御神霊が邪馬台国祖神だとすれば
大和建国に邪馬台国が関与していたことになるはずである。
『蘇我氏と物部氏 No015』
蘇我氏は勾玉と縁が深い一族で蘇我氏が勢力を無くすと同時に勾玉が作られなくなっている。
出雲の勾玉は玉造温泉として今に名を留めている。
さて三種の神器は「八咫鏡」「八尺瓊勾玉」「天叢雲剣」であるが
これらを各氏族に当てはめると八尺瓊勾玉=蘇我氏 天叢雲剣=物部氏
八咫鏡=邪馬台国系の氏族に当たるのではないかと勝手に考えている。
※この頃筆者は大和を連合国と考えていたものと思われる。
そしてその連合に八咫鏡=邪馬台国系の氏族が入っていたと推察している。
『九州からの東征の歴史と封印を破る風通しへの期待 No200』
私見では卑弥呼の時代にも九州は東征に成功したように思える。
※そしてこれが九州からの東征の最後の歴史だと思う。
この程度の記事しか過去のブログ記事は確認出来ていないが
卑弥呼か臺與(台与=とよ)の時代あるいはその後には
畿内に移行していたものと仮定している。
さて上記の事を踏まえて考察をしたいが
まず邪馬台国の読みは一字一音読みでヤマト国と読むものとする。
そして臺與=台与=トヨと読む。
臺與=イヨと呼ぶ。壹與=イヨと呼ぶ可能性については
委奴国=狗奴国を筆者はイヌ国と呼ぶ以上
台与をイヨではなく必然的にトヨと呼びたい。
邪馬台国をヤマト国と読むためには臺=台=トである必要がある。
そしてこのトヨは豊に繋がる。
豊といえば豊玉姫 豊比咩 豊鍬入姫命 豊受大神などが浮かぶが
豊比咩神社が九州に多いことを考えると
トヨの時代に畿内に移行した可能性も考えられる。
崇敬の対象たる臺與=トヨがその地を離れたからこそ
祭祀対象として豊比咩神社が造られた可能性が感じられる。
卑弥呼の墓が何処に造られたのかは今のところ未考察となる。
ただ邪馬台国がヤマト国であったとすると
ヤマトが付く姫である夜麻登登母母曾毘売=倭迹迹日百襲姫命
※母母が曾の元字となる中国周時代の鄫国系か、母母曾が血統を意味すると感じられる。
あとヤマトが付く姫としてその母にあたる倭国香媛
=意富夜麻登玖邇阿礼比売命の響は大和であり偉大なる巫女感が強い。
さらに時代的錯誤を考慮すれば倭姫などが邪馬台国の血統の候補となる。
今回言いたいことは邪馬台国をヤマト国とすると
初め菊池の迫間川流域の山門=ヤマトに拠点を置いたと思われる。
※参照 松野連系図
迫間川下流の菊池市神来貴船神社は
呉系姬氏による祭祀から山門=ヤマト国の祭祀に上書きされた
相当に古い神社であろう。
※神来の読みはオトド
ここは菊池にあったという古代湖「茂賀の浦」の湖畔に当たる。
この湖は縄文時代はさらに大きかったらしく
だんだん縮小していき最後には消えているので
菊池市神来がちょうど湖畔であった時代に
邪馬台国は建国されたのだと判断する。
古墳時代には菊池市神来には古墳が造られている。
しかし狗奴国=威奴国=率寝国=イヌ国に追い立てられ
福岡県みやま市の山門に拠点を移したと思う。
そしてそのヤマト国の拠点も狗奴国に奪われたのかもしれない。
志賀島の金印の「漢委奴國王」は威奴国に与えられたはずであるが
何故志賀島で発見されたのかは謎である。
遺跡でなく水田の耕作中に見つかったとすれば
誰かによって威奴国より持ち出されたか
あるいは運搬中に船が難破して失われたとすべきであろう。
威奴国は姬氏≒紀氏との繋がりが深い。
ということは呉系姬氏は山門国=ヤマト国と
威奴国の両方に繋がっていったのであろうか?
紀元前473年に越の勾践によって呉の首都姑蘇が陥落して
呉王夫差が敗走あるいは自害する。
その後に呉系姬氏は日本に避難してきたと考える。
姬姑蘇神社はその時代に造られた最も古い祭祀施設である。
神来貴船神社も本来は神来姬姑蘇神社では
なかったのではないか? ※考証不能ではあるが
卑弥呼の時代は西暦239年であり
その差は600年もあるので呉系姬氏系統は
相当に拡散していると考えた方がよい。
問題は秦時代の紀元前219年に渡来したといわれる徐福=徐巿が
山門国=ヤマト国や威奴国に関与していないかどうかが
今のところさっぱり分からない事である。
記載途中
以前ある御神霊より率寝の秘法は天皇に盗まれた(継承された)との
メッセージを受けたが
率寝の秘法が呉系姬氏由来なのかは不明のままである。
九州の山門国=ヤマト国が東征して
畿内で連合を組み大和国になったのは
確実なことだと思っている。
これが神武東遷あるいは東征と完全にかぶっているのか
もう少し考察をせねばならない。
ただ共生と平和を愛したと言われる縄文時代から弥生時代になり
九州が戦乱続きとなり何回かの東征する事になるのには
間違いなく交戦的な中国渡来人の文化が日本人に混じり込んだ事が
原因だと考えられる。
大まかにいえば畿内説と九州説があって
それぞれに論拠を競い合っている。
筆者ブログで『邪馬台国』と『卑弥呼』を検索してみたが、
たいした記事を過去に記載していない。
それでも筆者ブログ記事の整合性を図るために
まずは確認作業を行うこととする。
『三輪山参拝 No115』
さて彷徨い続け伊勢にまで追いやられた神を最初に祭祀したのは
豊鍬入姫命である。
母は紀国造荒河戸畔(あらかわとべ)の娘の遠津年魚眼眼妙媛となっている。
引き継いで祭祀した倭姫命の母は日葉酢媛命であるが
この伊勢にまで彷徨った神がどういう神なのかははっきりしない。
ただ可能性を探ると天皇祖神か出雲神か邪馬台国祖神あたりになろう。
また伊勢に残るユダヤ色を考えるとユダヤ系天皇祖神の可能性も否定できない。
だとすると伊勢に対して歴代の天皇が興味を示さず放置された訳にも納得がいく。
※もし彷徨う御神霊が邪馬台国祖神だとすれば
大和建国に邪馬台国が関与していたことになるはずである。
『蘇我氏と物部氏 No015』
蘇我氏は勾玉と縁が深い一族で蘇我氏が勢力を無くすと同時に勾玉が作られなくなっている。
出雲の勾玉は玉造温泉として今に名を留めている。
さて三種の神器は「八咫鏡」「八尺瓊勾玉」「天叢雲剣」であるが
これらを各氏族に当てはめると八尺瓊勾玉=蘇我氏 天叢雲剣=物部氏
八咫鏡=邪馬台国系の氏族に当たるのではないかと勝手に考えている。
※この頃筆者は大和を連合国と考えていたものと思われる。
そしてその連合に八咫鏡=邪馬台国系の氏族が入っていたと推察している。
『九州からの東征の歴史と封印を破る風通しへの期待 No200』
私見では卑弥呼の時代にも九州は東征に成功したように思える。
※そしてこれが九州からの東征の最後の歴史だと思う。
この程度の記事しか過去のブログ記事は確認出来ていないが
卑弥呼か臺與(台与=とよ)の時代あるいはその後には
畿内に移行していたものと仮定している。
さて上記の事を踏まえて考察をしたいが
まず邪馬台国の読みは一字一音読みでヤマト国と読むものとする。
そして臺與=台与=トヨと読む。
臺與=イヨと呼ぶ。壹與=イヨと呼ぶ可能性については
委奴国=狗奴国を筆者はイヌ国と呼ぶ以上
台与をイヨではなく必然的にトヨと呼びたい。
邪馬台国をヤマト国と読むためには臺=台=トである必要がある。
そしてこのトヨは豊に繋がる。
豊といえば豊玉姫 豊比咩 豊鍬入姫命 豊受大神などが浮かぶが
豊比咩神社が九州に多いことを考えると
トヨの時代に畿内に移行した可能性も考えられる。
崇敬の対象たる臺與=トヨがその地を離れたからこそ
祭祀対象として豊比咩神社が造られた可能性が感じられる。
卑弥呼の墓が何処に造られたのかは今のところ未考察となる。
ただ邪馬台国がヤマト国であったとすると
ヤマトが付く姫である夜麻登登母母曾毘売=倭迹迹日百襲姫命
※母母が曾の元字となる中国周時代の鄫国系か、母母曾が血統を意味すると感じられる。
あとヤマトが付く姫としてその母にあたる倭国香媛
=意富夜麻登玖邇阿礼比売命の響は大和であり偉大なる巫女感が強い。
さらに時代的錯誤を考慮すれば倭姫などが邪馬台国の血統の候補となる。
今回言いたいことは邪馬台国をヤマト国とすると
初め菊池の迫間川流域の山門=ヤマトに拠点を置いたと思われる。
※参照 松野連系図
迫間川下流の菊池市神来貴船神社は
呉系姬氏による祭祀から山門=ヤマト国の祭祀に上書きされた
相当に古い神社であろう。
※神来の読みはオトド
ここは菊池にあったという古代湖「茂賀の浦」の湖畔に当たる。
この湖は縄文時代はさらに大きかったらしく
だんだん縮小していき最後には消えているので
菊池市神来がちょうど湖畔であった時代に
邪馬台国は建国されたのだと判断する。
古墳時代には菊池市神来には古墳が造られている。
しかし狗奴国=威奴国=率寝国=イヌ国に追い立てられ
福岡県みやま市の山門に拠点を移したと思う。
そしてそのヤマト国の拠点も狗奴国に奪われたのかもしれない。
志賀島の金印の「漢委奴國王」は威奴国に与えられたはずであるが
何故志賀島で発見されたのかは謎である。
遺跡でなく水田の耕作中に見つかったとすれば
誰かによって威奴国より持ち出されたか
あるいは運搬中に船が難破して失われたとすべきであろう。
威奴国は姬氏≒紀氏との繋がりが深い。
ということは呉系姬氏は山門国=ヤマト国と
威奴国の両方に繋がっていったのであろうか?
紀元前473年に越の勾践によって呉の首都姑蘇が陥落して
呉王夫差が敗走あるいは自害する。
その後に呉系姬氏は日本に避難してきたと考える。
姬姑蘇神社はその時代に造られた最も古い祭祀施設である。
神来貴船神社も本来は神来姬姑蘇神社では
なかったのではないか? ※考証不能ではあるが
卑弥呼の時代は西暦239年であり
その差は600年もあるので呉系姬氏系統は
相当に拡散していると考えた方がよい。
問題は秦時代の紀元前219年に渡来したといわれる徐福=徐巿が
山門国=ヤマト国や威奴国に関与していないかどうかが
今のところさっぱり分からない事である。
記載途中
以前ある御神霊より率寝の秘法は天皇に盗まれた(継承された)との
メッセージを受けたが
率寝の秘法が呉系姬氏由来なのかは不明のままである。
九州の山門国=ヤマト国が東征して
畿内で連合を組み大和国になったのは
確実なことだと思っている。
これが神武東遷あるいは東征と完全にかぶっているのか
もう少し考察をせねばならない。
ただ共生と平和を愛したと言われる縄文時代から弥生時代になり
九州が戦乱続きとなり何回かの東征する事になるのには
間違いなく交戦的な中国渡来人の文化が日本人に混じり込んだ事が
原因だと考えられる。
卑弥呼=少名比古建猪心命と呼ばれる人物をイメージで書いていて、
要するに、神功皇后+武内宿禰で神武天皇の東征モデルかもしれない・・と遠回しにしています。
自分の感覚で調べていて
聖女、宇佐若宮、下照姫神がでてきて、
そこでコメントは終了させたのですが、、
詳しく知らべますと
日吉大社 宇佐若宮(中七社)
伝延暦4年(785)創建。祭神は下照姫神で西本宮(大己貴神)と宇佐宮(田心姫神)の子神です。
旧称は聖女で、神功皇后と同一視されていました。本地仏は如意輪観音です。
と書かれたネット情報をみて、神功皇后と如意輪観音。下照姫は、大阪の比売古曽神社、垂仁天皇2年愛久目山(あくめやま)に下照比賣命を祀ったのを起源とするたいへん古い社
高津宮の境内社の比売古曽神社も下照姫でしたし
如意輪観音は神呪寺ですので、、
私としては分かりやすく顕れていただいてよかったなと胸をなでおろしていると同時に裏方を頑張らなければいけないと思っています。
もう一つ個人的に呼ばれているところを調べますと、、これは近々日本国が侵略される危険があるための回避策として調べていました。
金も一グラム1万円近くなりました。
逸話で古銭に纏わるお話しがありまして、、
近くに仲迫間遺跡(縄文時代)があります。
小山寺 仁済禅師
本尊は馬頭観音。三面六臂の立像で、養蚕の守護仏とされている。また、開運のご利益があるという。
一寸八分の馬頭観音。5センチほどですね。
月詣りをしていた成田山の秘仏黄金胎内仏も一寸八分だったはずです。
胎内というのが、卵生と違うのです。
哺乳類は歯を持ち胎生です。
爬虫類は卵生ですね。
※この5センチ馬頭観音は卵かもしれないですね。
室町時代の1450年~1500年頃、仁済禅師が、唐銭(周元通報)300枚を溶かして高さ1尺の馬頭観音を作り、小山観音の新たな本尊としたという。木曾義仲ゆかりの馬頭観音は秘仏とされる。
法性坊尊意も夢で空から比叡山に降りてくる美女をみていますが、、
この仁済禅師の出生譚が、小山観音に子授け祈願をして、空から降ってきた光る古銭を飲み込んで、生まれてきた子の手には古銭が握られていた。
この古銭が周のお金だったので、、、三光、日月星
周由来の呉系姫氏の三光旗を探せ No488
を読み直していました。
福岡県みやま市の山門に拠点を移したと思う。
そしてそのヤマト国の拠点も狗奴国に奪われたのかもしれない。
志賀島の金印の「漢委奴國王」は威奴国に与えられたはずであるが
何故志賀島で発見されたのかは謎である。
遺跡でなく水田の耕作中に見つかったとすれば
誰かによって威奴国より持ち出されたか
あるいは運搬中に船が難破して失われたとすべきであろう。
※威奴国は菊池の神来地域ですね。ここのヤマトと書かれているのは、みやま市の山門国の土蜘蛛伝承の田油津姫(縄文時代は女王吾平津媛)のことですね。
威奴国=邪馬台国女王卑弥呼は女王塚の田油津姫と敵対したという事ですね。
田油津姫は神夏磯姫の子孫になりますので、景行天皇の血筋となり、仲哀天皇と母違いの兄妹だと想像していますが、、
兄妹の結婚は人類の始祖伝説にあるようで、その始祖伝説(人頭蛇神)が下敷きにあるような気がして、言い換えますと縄文時代の蛇信仰という事になります。
本当は、志賀海神社の潮井の砂を平尾台の青龍窟に撒きたかったのです。
志賀海神社に行く時間が無かったので、
亀岡の稗田野阿礼、ゆかりの砂を撒きました。
稗田野神社の近くが乙護法童子を観じた場所になります。
志賀島で金印がでてきたのが、不思議ですね。
余りに邪馬台国の知識がなさ過ぎるのと、
自分の体験が主となり、それに引っ張られて話の辻褄が全く合わないことが分かりました。
狗奴国とは、頭の中で「イヌ国・犬国」と考えていました。
魏志倭人伝では卑弥呼と敵対している国で男王としているのですね。卑弥呼が女王で、「親魏倭王」で、、
狗奴国は男王で、「漢委奴国王」
どちらも、金印で紫の紐です。
仲が悪かったから、仲介の意味でそれぞれに金印を送ったとか思いたいです。
神夏磯媛が、神かし媛と「かし」が名前に入っているのと、武勇魁図会に神夏磯媛が日向の土蜘蛛を討伐したお話しがあるので
訳がわからなくなりました<(_ _)>
金印の授受は同じ時代ではないし
国も違うので仲介の可能性は薄いかもしれません。
ただ魏の曹操の保護のもと後漢は継続していた期間も
あるので曹操が両方の印に関与していたとすれば
興味深い話しです。
ちなみに曹操の墓と遺骨が2009年に見つかったと
報告されています。
DNA鑑定で中国全国の「曹」姓の家系を調べていて
曹操から数えて70代目の直系子孫にあたると伝えられている
曹祖義が一番血統が濃いと判断されるとか
なんかすごい話があります。
多分下照姫命は味耜高彦根命絡みで封印された姫だと思います。
感覚的には天照男神である饒速日命の后妃ではないかと思っています。
ホツマツタエと併せて考えると下照比賣命≒瀬織津姫でしょうかね。
曹操の子孫を調べますと
世界初の歴史学と遺伝生物学が融合して歴史の謎を解く成功例で、「現代人の遺伝子を通して歴史人物の遺伝子を逆推定する」プロジェクトが画期的な成果を収めることを示しました。関連論文は今年の上半期、世界的に有名な学術雑誌『人類遺伝学報』に発表され、国際的な認証も得られました。
2011年末、研究グループは曹操一族のDNAを調べ、曹操の子孫として最も可能性の高い6家族が見つかったことを公表し、すぐに大きな反映を呼びました。これらの家族から共に非常に珍しい染色体タイプを検出し、この比率が全国の人口に僅か5%前後しか存在せず、学術的に彼らが本当に曹操の子孫だと認定できることを、科学者は確信しました。
歯に残された記憶情報が現在へ血脈としてつないでいます。
※天皇の万世一系祭祀継承の意味を考えると理に適っています。
下照比賈命は
味耜高彦根命で封印されている?
名前に高彦根命、高木神、天狗(点護法神)のイメージがありますが、、、そこから、八咫烏というのもわかるような。活津彦根神とも名前が良く似ていて、ウィキ「イクツヒコネ」はりつけ
出口延経の死後、外宮神官の桑原弘雄、弘世父子によって整理、1733年に完成し、『延喜式神名帳』記載神社の考証を行った『神名帳考証』によると、忍坂と住吉にある生根神社の祭神(現在は少彦名命等)とされる。
生國魂神社の祭神とも同神とされる。他に天田郡生野神社、養父郡伊久刀神社等の祭神。
滋賀県にある彦根の地名はこの神の名に起こるという説も
※味耜高彦根命と活津彦根命との答えが未だでていません。私は同神だと感じてはいます。ここが姫コソ神に繋がるとも思っています。
私の知る限り、大阪の比売古曽神社二社が下照姫とされています。
①姫島神社は阿迦留姫命(アカルヒメ)ですし、
住吉大社の元社とも言われる
②赤留比売命神社は新羅からの渡来女神(あかるひめ)とされています。
また、斬新な天照大神(男性)の対である后??
物部氏祖神の饒速日命がネックになっています。
瀬織津媛としますと、
向こう山、六甲山の女神
六甲比命大善神(弁財天・吉祥天)=撞賢木厳魂天疎向津姫(瀬織津姫)になりますが、、
私的には、確かに交野市の磐船神社(物部氏の遠祖神天孫饒速日命)天の川と六甲比売神社は対だと思っていますから、そうなのかもしれないですが、、
今は物部氏が息長氏を隠しているつまり、名を奪ったと感じています。加害者にしているし。
加害者にしているのは、物部氏だけでないですが、、
私だけ納得すれば良いことなのかと想い
詳しくは言わないようにしています。
ルーツに繋がる霊的なものに惑わされないように心がけています。
下は舌で、弁舌の神様。
市杵島姫とかで厄神です。
舌が照ので、音玉、ことたま神です。
龍神で、口の中に玉を持っているのがありますが、、
あのイメージが下照比賈神です。
弁才天OK。吉祥天とは妙見神の后でOK。
妙音天もOK。
乙姫、龍宮乙姫もOKです。
吾平津媛も乙姫様として祀られています。
六甲比売善神は龍宮乙姫だと思っていましたので、下照比賈命でOKです。
ところで、下照比賈命ともう一つでてきた、「宇佐若宮」で調べますと、、日吉大社の聖女以外に
宇佐神宮摂社若宮神社があります。
https://www.city.usa.oita.jp/sougo/soshiki/14/toshikeikaku/keikan/matidukuri/usachiku/syuyumap/kami/12751.html
ここにでてきた祭神で
隼総別皇子(はやぶさわけのみこ)・雌鳥皇女(めどりのひめみこ)でした。
これは驚愕でした。
この祭神が祀られるのは、滅多にないです。
鵜戸神宮の吾平山と藤田妃見子さんとの共通項であり
私はアイラと言う言葉が降りてきて吾平、相良=ことたま神としていました。
私費の神社(ことたまの里)言霊の里
祭神だったからです。
「序 鵜戸神宮にて」
言霊の里 (さくら)
2022-11-12 22:23:45
過去に相良=愛・藍=乙姫=言霊神=ことたま神
として考えていました。
「ことたま」がでてきましたので、3月26日の続きを記載しようと思います。
略
21歳の深秘には、神功皇后がでてきます。
藤田さんは神功皇后と静御前の間に石碑を立てました。
私はそれが妙に嬉しかったのです。
魏志倭人伝の2008文字が記す - 邪馬台国への路
http://www.iki-haku.jp/news3/upfile/1stSpecialExhibition.pdf
一支国⇒壱岐国、いつき
邪馬台国⇒やまと
妙見・妙音・妙理の統括尊たる斎姬山門五音大神のことですね・・・
私にずっとお面の「般若」が顕れていて、あれは女性の鬼の姿なんですが、、貴船明神(丹生都姫)も般若二面性があるとか妄想していましたが、、
英彦山の玉屋神社、鬼神社が並列されていますが、、
その入り口辺りにお面の祠があったのご存知ですか?
お面のセンサーにひっかかってはイケナイみたいですね。
私は自分の臓器摘出前に弥勒菩薩のような角とハート仮面を作成したことがありますが、、
般若のお面の事をコメントに書き残していたと思います。
生成(生は鬼)、般若、真蛇と変化します。
生玉とは、もしかして卵ですかね。
比売古曽神を調べていて、般若寺にお祀りされていたのです。
平生町となっていました。
私は蝉の感応がありましたので、蝉とは禅のことであり、龍に変化していくとコメントしました。
ですので、蝉の音(岩にしみいる)は禅の悟りを意味している。
そこで最後にハッピーゴールと言う言葉がでてきます。
卑弥呼の流れを考えていて
この禅の悟りの記事(ハッピー)ゴールとは卑弥呼「大いなる巫女」に変化することとだなと。
ハッピーかどうかは人それぞれで分からないので、ゴールとします。ゴール設定。
旭と夕日。同じ太陽の女神。
双身毘沙門天=キールティムカ(向津媛)
二なんだけど、元は一つ。
これが不二の思想なのかもしれないですね。
そのプログラムを起動させて導く道理(ゴール設定)が、蝉=禅の教え、霊統の継承という事。
九州の卑弥呼(女王巫女)は母から娘へ継承されて女系の血筋。
女性だけの流れは単為生殖。
単為生殖を行うのは爬虫類(鳥)卵を産む。
この爬虫類(鳥類)の代表的措置とされている八岐大蛇、八咫烏。麁乱荒神。鍛冶翁。
※実際に単為生殖を行う種類に鳥類はいない。
女神が卵を産むことについての言及のため。
一つの物から別れる。筋が分かれる。
でも、元は一つ、蛇であったり、鳥であったり。
多頭を分離、切断させるのが良いのか。。
多頭と言うのは、思想、民族ということ?
産む女神を考えているので、女系継承。
母から娘へ
途中で、蝉、禅の思想、教えがでてきて、不二が男女の結びつき・縁結びに変わったのかもしれないですね。邪馬台国の卑弥呼の通り道が「壱岐」国だったので、「壱岐」は吉野ヶ里遺跡よりも古い遺跡があり、ピラミッドのような三角形にシルエットであり、一つ柱(男嶽)、猿岩、鬼、、
天鈿女と猿田彦神、サイ神、久那土神。
魏志倭人伝、壱岐は通り道。
壱岐国の真ん中は住吉神社。
壱岐国出土品は亀とすっぽんとハート(心臓)
亀と蛇は玄武で、
鎮宅霊符神。亀出土で、何か以前「亀と蛇」で雌雄の何かに変化したと教えてくれました。
王子晋信仰から見えてきたものNO481
中国では亀といえば玄武の象徴で
蛇が陽 亀が陰の太極図となっています。
呉の出身の仙人の魏伯陽が
『玄武は亀蛇、共に寄り添い、もって牡牝となし、後につがいとなる』といっているそうです。
なぜ日本で鶴亀が吉徴図と持てはやされたのか?
ここが重要ではないでしょうかね。
鶴は都怒我阿羅斯等もしくは姫氏あるいは
周の太子である王子喬を象徴しているとして
亀に乗る仙人は寧波市から渡来した妙見神だと思われます。
今の天皇の皇位継承の儀式は
剣璽等承継の儀と賢所の儀で三種の神器を
引き継ぐことでなされますが
神武東征を導いたのは、八咫烏「鳥」です。
この鳥が呉服鳥、服部、鴨になり、鳥族のことが
描かれた神話が、「女鳥王」で言霊の里(隼別神社・藤田妃見子氏の石碑)の由来になります。
「女鳥王」
雌鳥皇女(めとりのひめみこ、生年不詳 - 仁徳天皇40年2月)は、『記紀』に伝えられる古墳時代(5世紀頃)の皇族(王族)。応神天皇の皇女。母は和珥臣(わにのおみ)の祖先の日触使主(ひふれのおみ)の娘である宮主宅媛(みやぬしやかひめ)(『古事記』では宮主矢河枝比売(みやぬしやかわえ の ひめ))。菟道稚郎子皇子(うじ の わき の いらつこ の みこ)・八田皇女(矢田皇女、やた の ひめみこ)の同母妹。『古事記』では女鳥王と記される。
ここで、仁徳天皇の大后(石之日売命)の嫉妬が酷いありさまで書かれていて、石之日売命は葛城の女王。
吾平津媛の象徴「なのりそ」に似た
石之日売命「なとりそ」を言います。
雌鳥皇女の手玉足玉をなとりそ・・。
手についている腕輪(玉の装飾品)
足についてる足輪(玉の装飾品)
だろうと考えて、手玉足玉とは生玉や足羽(あすわ)など考えていました。生島、足島なども類推。
ここから、私の想像になりますが、、
女鳥王は機織をして、隼人の為に立派な衣服を織ります。機織女の言い替えが、くれはとり、が鳥王となります。
玉は呪具の道具であり、葛城の女王は播磨と吉備に「なとりそ」玉を取るなと言ったのですが、、
播磨と吉備は玉を取ったということになっています。元々、持っていたのは播磨と吉備。
玉の継承、率寝とは、、
播磨と吉備の宝(潮玉)を天皇に取られた・・ということだと理解しています。
播磨と吉備の名前のつく人物は、古代海神族息長氏蘇我氏阿蘇氏の系統となっています。