やっと妙見妙音妙理の統括尊たる斎姬山門五音大神の柱が立ち上がり
一安心して、ようやくやり残しているテーマに取り掛かっている。
柱が立った成果は残念ながらネットでは余り報告できない。
斎姬山門五音大神は文明を創りそしてまた壊す御神霊だと言っているが
とうとう上海は封鎖されて解体が開始されたし
日本国内の反日勢力の追放に関しても
上海電力とH氏の闇が開示されてきている。
さて表題の熊ノ岳とは金峰山系の最高峰である二ノ岳の事である。
それは2007年04月の天子宮参拝に遡る。
このことについては以前HPに記載しているが
現在は動作もおかしく訪れる人もあまりいない状況ではあるが
とりあえずリンクを貼っておく。
『道君首名公と小天少彦名神社調査記』
由緒石碑解読内容
和銅六年 (七百十三年 元明天皇の時代)の秋の末から肥後国筑後国に疫病流行し人民死亡する者が多く時の国司道君首名は仁愛の心深くこれを憂へ清地を選んで忌屋を建て十一月朔日より其屋に忌こもり柊の枝を刺し立て 少彦名神の神木とし 椎の枝を刺し立て大名持命の神木とし 即ち 二神を招奉じて悪病消除 人民安全の御祈願成し給うた。又同朔日 大木小木を伐出させ高さ一丈 四方十丈を忌屋の前に積み立て置き七日の暮れ方になって火を付けて焼き上げ終夜殊更に二神を請い給い 二神に病を治め給い 大神達への祷事叶え給え 若し 願い事叶わざるには火も焼く事なけん。 若し祈ること叶わずは此の火に焼けて「死なん」と大幣を取ってその火中を渡り給うこと三度 その時傍に侍る塩見常知も其の後に従い同じく三度渡ったが二人共に足の毛だに焼けなかった故に首名は深く神徳を感じ二本の神木の前に拝伏し給ふた。 二神常知に託して宣り給うに「汝が祈心甚だよし故に忽ち病を治め その験には汝二柱の神を祭祀し、木枝葉茂り栄へしめん。 我二神長く此の地に居んで宮柱太敷立て祭事怠らず祀れば祈ること悉く叶えん」と言い終って神は常知を離れ給う。首名が驚いて頭を揚げると先の神木一丈余りの大木となって居ったのでますます神徳の貴さを知り崇敬された。翌八日 人を分かちて病人を調べ給うと数万人の病 夢の覚めるが如く治り起き出して国主の仁心を歓ぶ声巻き起こって即ち其の月から斧初有って出雲大神の國を雛形として西向かいに大社の三分に御社建立し翌年八月成就したのでその月の七日初めて新宮に祭り給ふ。又出雲の地形を思し召して后の高山に熊野宮を勧請し熊野嶽と名付け玉ひ 更に翌年 蝗虫(いなご)多生したる故 大歳神を勧請し竹を刺立て神竹となし 前二神に合せ祭給へ豊年となったから 其冬北宮の左坐に安置し奉じ給ふ。其の後 年を経て承和七年(八四0年 五十四代仁明天皇時代)の冬肥後國又 疫病流行し神社も 大破したので肥後国主菊池麿 古これを考へ 自ら来って此の神社に深く祷られたので悪病速くに治った。國主は神徳の新たなるを感じて神社を修復し 田 三十町 封戸三十戸を更に寄進せられ正月七日の祭りを始められた。又鎮西八郎為朝 仁平年中(一一五一年 七十六代近衛天皇の時代)鉄の鉾八を奉納し勝軍を祈った為朝 賊兵の囲の中から不思議に免ることが出来たので刀や弓等を奉納した。その後武士互いに地を争ったが応仁元年(一四六七年一○三代後土御門天皇 足利八代将軍義政時代)十二月二十日夜賊兵神宝を奪はんと社に火を放って神宝をはじめ将胤が家迄 忽 灰燼に帰した。父将武を初め上官 塩見常吉 上土井 安村 大久保忠一 来神芳風 塩見常信 下官 立川穂椎 等戦死し数百年の神社も断絶した。其の後領主 田尻惟富 神社の跡に居宅を建てて永正四年(一五○七年一○四代後柏原天皇 足利十一代義澄時代)今の社地に拝殿を建立 大いに信仰し松山七十町尾田 立花部田見村の中にて祭田二町を寄進し年久しく絶えたるを興し古の大祭の神事を取り行わせられた。然るに其の後世の変遷と共に社財は皆無となって僅かに村費を以って祭典を行い明治三十三年町村祭典変更に依り十月十五日を祭日に改められた。其の間 偶々 大東亜戦争は昭和二十年八月十五日無条件降伏をして敗戦国となって祭典費の町村支出を禁ぜられたるをもって時の町長 坂本達也は之を放任せんが愈々(いよいよ)社荒廃必至と思料 各区に宮総代制を設け此の機関により氏子より社費を調達し之が維持に努め今日に至れり。慈に記念碑を建立するに當り 天子宮の来歴を世人に紹介し且つ後世に傅ふる為概要を記述す。
昭和四十一年十二月 天水町 町議会 田代 明 謹書
※ 皇歴は西暦に変換して表示してあります。
※ 斧初祭り 宮大工さんの仕事始め
※ 菊池麿は藤原乙麻呂の孫
※ 鎮西八郎為朝は阿蘇大宮司忠国の聟となり雁回山に住いす。
※ 応仁元年 応仁の乱により諸国おおいに乱れる。 』以上添付
ここで金峰山の最高峰が熊野嶽と名付けられた理由と
熊野宮が設置されたことを知ったが
この当時にはこの熊野宮についての情報をさらに得ることは出来なかった。
ところが十年後(熊本大地震の後)に地図を見ていたら
googleマップに突然に熊野宮(熊ノ岳権現)が記載されたことに気づいた。
※国土地理院の地図には未だ記載はない。
なかなか調査の機会を得ていなかったが今回山中を這いずり回って
なんとかたどり着き参拝してきたのでその報告をしたい。
記載途中
※本日この記事を草稿していてメインパソコンのSSDがクラッシュしてしまい
記事をボツにしようとも考えたが、結局出来る範囲で公開していくこととなった。
最近は日本の検索サイトではgoogle他で自分の古いブログが検索できなくなっている。
それでもアメリカ版の『YAHOO.COM』のみでは検索できるようだ。
まず山頂に上って気づいたのだが
標識に興味深いことが書かれていた。
このニノ岳(熊野嶽)が1889年の地震の震源地という内容であった。
標識の文字の半分しか読めないが大筋は間違いない。
『明治22年7月28日 明治熊本地震が発生
その震源地は二ノ岳であった。
旭日昇りでもこの地の振動は止まさりきと報ぜられた。
東の阿蘇山カルデラに対し,西山カルデラとも呼ばれ
震源地の二ノ岳は685mの最高峰である。』
『熊本霊ラインと熊本大災害 問題提起篇 264』
この記事内にて1889(明治22)年7月28日の熊本大地震について言及している。
この地震についての調査で分かったのはは以下2項目
01.国立科学博物館地震資料室
「1889(明治22)年7月28日、熊本県西部を強い地震が襲いました。
震源は熊本市の西、マグニチュードは6.3と推定されています。
死者20名、建物の全潰239棟の被害がありました。
この地震は地震学会が1880年に日本で発足してからはじめて都市を襲ったものとして
調査が行われ、また、遠くドイツのポツダムの重力計に地震波が記録されており、
遠い地震の観測のきっかけとなったといわれています。
ここに掲げた写真(※国立科学博物館地震資料室)は、
わが国の地震の被害を写したもっとも古いものかもしれません。
02.各地方公共団体の活断層調査成果報告書
1889年(明治22 年)の熊本地震については、水島 貫之(1889)の『熊本明治震災日記』や
九州日々新聞(2026~2041 号)に、液状化にともなうと考えられる噴砂・噴水現象の状況が
記録されている。
それらによると、被害の数は 44ヶ所で、うち 25ヶ所が市街地で、
残り19ヶ所が旧飽託郡や佐賀県で発生している。
市街での被害の中心は熊本城の東南~南部の坪井川沿いに集中している。
また、ほとんど地割れや陥没をともなっており、
熊本地震でかなりの被害が生じたものと考えられる。
断層についての報告はみられない。
また立田山断層については古いHPで以下の事を記載している。
1889年(明治22年)に起こった熊本地震(M=6.3)は立田山断層起因と云われている。
また1854年(安政元年)の肥後大地震
1778年(安永7年)と1769年(明和6年)の肥後川尻大地震ほか
18世紀には 1723年(亨保8年)1707年(宝永4年)1706年(宝永3年)と5回の大地震の記録がある。
17世紀にも 1695年(元禄8年)1665年(寛文2年)1661年(寛文元年)
1650年(寛永3年)1625年(寛永2年)と5回の記録
16世紀の1507年(永正4年)の熊本地震もこの活断層起因の可能性がある。
熊本市は地下水が豊富で砥川溶岩層に沿って水脈が広がるがこのレイラインの地下には地下水脈もある。
さらに「googleで観る熊本霊ライン 熊本市街」を観て頂きたいが、國龍神を祭る立田阿蘇三宮神社から
御坊山小島阿蘇神社に向かって流れる白川はまるで龍のうねりのようである。
この白川は太古より暴れ氾濫を繰り返してきたが
その鎮守のために立田阿蘇三宮神社は建てられたのではないかと思う。
熊本霊ラインは活断層 地下水脈 そして白川の流れという三つの「地」のエネルギーを集結し
それに金峰山からの荒ぶる氣までもが流れ込んでいる。
道君首名公はこの金峰山からの氣をコントロールするために味生池を造り加減したが
それを加藤清正は取り払い独自の防衛ラインとしたようだ。
「人」に関してはこの五山は聖地として現代までストーンサークルに始まり
妙見 観音 天台宗池辺寺 法相宗来迎院 真言宗独鈷山 阿蘇神社 天子宮
稲荷神社 聖徳太子堂 祇園信仰 日本山妙法寺仏舎利塔と
数々の神社仏閣が建てられており深い祈りの歴史を持っている。
熊本霊ラインは発信用のアンテナみたいなもので
「人」の祈りは前後の山が導波器と反射器の役割をはたし
直線的に増幅され指向性を持って発信されている。 以上
さて本題はこの道君首名公が祭祀した少彦名神と出雲の熊野の大神であるが
出雲の熊野大神とは具体的に誰を指しているのかである。
出雲の出雲大社の主祭神は
「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命
(いざなぎのひまなご かぶろぎくまののおおかみ くしみけぬのみこと)」となっている。
この登山の数日前に新熊野神社に参拝しているのだが
ここでは本殿が熊野牟須美大神=イザナミ大神
上之社が速玉之男大神=イザナギ大神
熊野家津御子大神=素戔嗚尊となっていた。
いずれにせよ道君首名公は祭祀でのバランスを取っているはずであるから
天孫降臨神話で天照大御神を中心とした「高天原系の神話伝承」に多く登場する
高御産巣日神の系譜の少彦名神と
「出雲系の神話伝承」に天神として数多く登場する神産巣日神系統を祀ったものと推察する。
まあ次の年に大歳神を勧請したというからには一般的には素戔嗚尊で落ち着くのであろうが
筆者の感応では熊野牟須美大神=イザナミ大神がもともとの祭神であろうと感じられる。
西側からのニノ岳(熊野嶽)三ノ岳の写真を本日撮影してきたので添付したい。
左が三ノ岳 右が熊野嶽
まさに角そのものを感じさせる山容で霊山であろう。
主人公は熊野嶽であり金峰山は隠れて見えない。
天子宮のある天水の小天から見上げる威風ある熊野嶽
正反対の東側からの山容が気になるところであるが
過去にスマホで撮影した写真を見つけ出したのでこれも参考までに添付しておく。
参考までに地形図添付
https://maps.gsi.go.jp/#16/32.824986/130.641003/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1 地理院地図
明治の人は何故に震源を熊ノ岳だと思ったのであろうか?
特に断層に近い金峰山ではなく熊ノ岳とされたのか?
謎を解くことは出来ないが予想するに
そこには神霊信仰の原点となるものが関係しているものと推察する。
一安心して、ようやくやり残しているテーマに取り掛かっている。
柱が立った成果は残念ながらネットでは余り報告できない。
斎姬山門五音大神は文明を創りそしてまた壊す御神霊だと言っているが
とうとう上海は封鎖されて解体が開始されたし
日本国内の反日勢力の追放に関しても
上海電力とH氏の闇が開示されてきている。
さて表題の熊ノ岳とは金峰山系の最高峰である二ノ岳の事である。
それは2007年04月の天子宮参拝に遡る。
このことについては以前HPに記載しているが
現在は動作もおかしく訪れる人もあまりいない状況ではあるが
とりあえずリンクを貼っておく。
『道君首名公と小天少彦名神社調査記』
由緒石碑解読内容
和銅六年 (七百十三年 元明天皇の時代)の秋の末から肥後国筑後国に疫病流行し人民死亡する者が多く時の国司道君首名は仁愛の心深くこれを憂へ清地を選んで忌屋を建て十一月朔日より其屋に忌こもり柊の枝を刺し立て 少彦名神の神木とし 椎の枝を刺し立て大名持命の神木とし 即ち 二神を招奉じて悪病消除 人民安全の御祈願成し給うた。又同朔日 大木小木を伐出させ高さ一丈 四方十丈を忌屋の前に積み立て置き七日の暮れ方になって火を付けて焼き上げ終夜殊更に二神を請い給い 二神に病を治め給い 大神達への祷事叶え給え 若し 願い事叶わざるには火も焼く事なけん。 若し祈ること叶わずは此の火に焼けて「死なん」と大幣を取ってその火中を渡り給うこと三度 その時傍に侍る塩見常知も其の後に従い同じく三度渡ったが二人共に足の毛だに焼けなかった故に首名は深く神徳を感じ二本の神木の前に拝伏し給ふた。 二神常知に託して宣り給うに「汝が祈心甚だよし故に忽ち病を治め その験には汝二柱の神を祭祀し、木枝葉茂り栄へしめん。 我二神長く此の地に居んで宮柱太敷立て祭事怠らず祀れば祈ること悉く叶えん」と言い終って神は常知を離れ給う。首名が驚いて頭を揚げると先の神木一丈余りの大木となって居ったのでますます神徳の貴さを知り崇敬された。翌八日 人を分かちて病人を調べ給うと数万人の病 夢の覚めるが如く治り起き出して国主の仁心を歓ぶ声巻き起こって即ち其の月から斧初有って出雲大神の國を雛形として西向かいに大社の三分に御社建立し翌年八月成就したのでその月の七日初めて新宮に祭り給ふ。又出雲の地形を思し召して后の高山に熊野宮を勧請し熊野嶽と名付け玉ひ 更に翌年 蝗虫(いなご)多生したる故 大歳神を勧請し竹を刺立て神竹となし 前二神に合せ祭給へ豊年となったから 其冬北宮の左坐に安置し奉じ給ふ。其の後 年を経て承和七年(八四0年 五十四代仁明天皇時代)の冬肥後國又 疫病流行し神社も 大破したので肥後国主菊池麿 古これを考へ 自ら来って此の神社に深く祷られたので悪病速くに治った。國主は神徳の新たなるを感じて神社を修復し 田 三十町 封戸三十戸を更に寄進せられ正月七日の祭りを始められた。又鎮西八郎為朝 仁平年中(一一五一年 七十六代近衛天皇の時代)鉄の鉾八を奉納し勝軍を祈った為朝 賊兵の囲の中から不思議に免ることが出来たので刀や弓等を奉納した。その後武士互いに地を争ったが応仁元年(一四六七年一○三代後土御門天皇 足利八代将軍義政時代)十二月二十日夜賊兵神宝を奪はんと社に火を放って神宝をはじめ将胤が家迄 忽 灰燼に帰した。父将武を初め上官 塩見常吉 上土井 安村 大久保忠一 来神芳風 塩見常信 下官 立川穂椎 等戦死し数百年の神社も断絶した。其の後領主 田尻惟富 神社の跡に居宅を建てて永正四年(一五○七年一○四代後柏原天皇 足利十一代義澄時代)今の社地に拝殿を建立 大いに信仰し松山七十町尾田 立花部田見村の中にて祭田二町を寄進し年久しく絶えたるを興し古の大祭の神事を取り行わせられた。然るに其の後世の変遷と共に社財は皆無となって僅かに村費を以って祭典を行い明治三十三年町村祭典変更に依り十月十五日を祭日に改められた。其の間 偶々 大東亜戦争は昭和二十年八月十五日無条件降伏をして敗戦国となって祭典費の町村支出を禁ぜられたるをもって時の町長 坂本達也は之を放任せんが愈々(いよいよ)社荒廃必至と思料 各区に宮総代制を設け此の機関により氏子より社費を調達し之が維持に努め今日に至れり。慈に記念碑を建立するに當り 天子宮の来歴を世人に紹介し且つ後世に傅ふる為概要を記述す。
昭和四十一年十二月 天水町 町議会 田代 明 謹書
※ 皇歴は西暦に変換して表示してあります。
※ 斧初祭り 宮大工さんの仕事始め
※ 菊池麿は藤原乙麻呂の孫
※ 鎮西八郎為朝は阿蘇大宮司忠国の聟となり雁回山に住いす。
※ 応仁元年 応仁の乱により諸国おおいに乱れる。 』以上添付
ここで金峰山の最高峰が熊野嶽と名付けられた理由と
熊野宮が設置されたことを知ったが
この当時にはこの熊野宮についての情報をさらに得ることは出来なかった。
ところが十年後(熊本大地震の後)に地図を見ていたら
googleマップに突然に熊野宮(熊ノ岳権現)が記載されたことに気づいた。
※国土地理院の地図には未だ記載はない。
なかなか調査の機会を得ていなかったが今回山中を這いずり回って
なんとかたどり着き参拝してきたのでその報告をしたい。
記載途中
※本日この記事を草稿していてメインパソコンのSSDがクラッシュしてしまい
記事をボツにしようとも考えたが、結局出来る範囲で公開していくこととなった。
最近は日本の検索サイトではgoogle他で自分の古いブログが検索できなくなっている。
それでもアメリカ版の『YAHOO.COM』のみでは検索できるようだ。
まず山頂に上って気づいたのだが
標識に興味深いことが書かれていた。
このニノ岳(熊野嶽)が1889年の地震の震源地という内容であった。
標識の文字の半分しか読めないが大筋は間違いない。
『明治22年7月28日 明治熊本地震が発生
その震源地は二ノ岳であった。
旭日昇りでもこの地の振動は止まさりきと報ぜられた。
東の阿蘇山カルデラに対し,西山カルデラとも呼ばれ
震源地の二ノ岳は685mの最高峰である。』
『熊本霊ラインと熊本大災害 問題提起篇 264』
この記事内にて1889(明治22)年7月28日の熊本大地震について言及している。
この地震についての調査で分かったのはは以下2項目
01.国立科学博物館地震資料室
「1889(明治22)年7月28日、熊本県西部を強い地震が襲いました。
震源は熊本市の西、マグニチュードは6.3と推定されています。
死者20名、建物の全潰239棟の被害がありました。
この地震は地震学会が1880年に日本で発足してからはじめて都市を襲ったものとして
調査が行われ、また、遠くドイツのポツダムの重力計に地震波が記録されており、
遠い地震の観測のきっかけとなったといわれています。
ここに掲げた写真(※国立科学博物館地震資料室)は、
わが国の地震の被害を写したもっとも古いものかもしれません。
02.各地方公共団体の活断層調査成果報告書
1889年(明治22 年)の熊本地震については、水島 貫之(1889)の『熊本明治震災日記』や
九州日々新聞(2026~2041 号)に、液状化にともなうと考えられる噴砂・噴水現象の状況が
記録されている。
それらによると、被害の数は 44ヶ所で、うち 25ヶ所が市街地で、
残り19ヶ所が旧飽託郡や佐賀県で発生している。
市街での被害の中心は熊本城の東南~南部の坪井川沿いに集中している。
また、ほとんど地割れや陥没をともなっており、
熊本地震でかなりの被害が生じたものと考えられる。
断層についての報告はみられない。
また立田山断層については古いHPで以下の事を記載している。
1889年(明治22年)に起こった熊本地震(M=6.3)は立田山断層起因と云われている。
また1854年(安政元年)の肥後大地震
1778年(安永7年)と1769年(明和6年)の肥後川尻大地震ほか
18世紀には 1723年(亨保8年)1707年(宝永4年)1706年(宝永3年)と5回の大地震の記録がある。
17世紀にも 1695年(元禄8年)1665年(寛文2年)1661年(寛文元年)
1650年(寛永3年)1625年(寛永2年)と5回の記録
16世紀の1507年(永正4年)の熊本地震もこの活断層起因の可能性がある。
熊本市は地下水が豊富で砥川溶岩層に沿って水脈が広がるがこのレイラインの地下には地下水脈もある。
さらに「googleで観る熊本霊ライン 熊本市街」を観て頂きたいが、國龍神を祭る立田阿蘇三宮神社から
御坊山小島阿蘇神社に向かって流れる白川はまるで龍のうねりのようである。
この白川は太古より暴れ氾濫を繰り返してきたが
その鎮守のために立田阿蘇三宮神社は建てられたのではないかと思う。
熊本霊ラインは活断層 地下水脈 そして白川の流れという三つの「地」のエネルギーを集結し
それに金峰山からの荒ぶる氣までもが流れ込んでいる。
道君首名公はこの金峰山からの氣をコントロールするために味生池を造り加減したが
それを加藤清正は取り払い独自の防衛ラインとしたようだ。
「人」に関してはこの五山は聖地として現代までストーンサークルに始まり
妙見 観音 天台宗池辺寺 法相宗来迎院 真言宗独鈷山 阿蘇神社 天子宮
稲荷神社 聖徳太子堂 祇園信仰 日本山妙法寺仏舎利塔と
数々の神社仏閣が建てられており深い祈りの歴史を持っている。
熊本霊ラインは発信用のアンテナみたいなもので
「人」の祈りは前後の山が導波器と反射器の役割をはたし
直線的に増幅され指向性を持って発信されている。 以上
さて本題はこの道君首名公が祭祀した少彦名神と出雲の熊野の大神であるが
出雲の熊野大神とは具体的に誰を指しているのかである。
出雲の出雲大社の主祭神は
「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命
(いざなぎのひまなご かぶろぎくまののおおかみ くしみけぬのみこと)」となっている。
この登山の数日前に新熊野神社に参拝しているのだが
ここでは本殿が熊野牟須美大神=イザナミ大神
上之社が速玉之男大神=イザナギ大神
熊野家津御子大神=素戔嗚尊となっていた。
いずれにせよ道君首名公は祭祀でのバランスを取っているはずであるから
天孫降臨神話で天照大御神を中心とした「高天原系の神話伝承」に多く登場する
高御産巣日神の系譜の少彦名神と
「出雲系の神話伝承」に天神として数多く登場する神産巣日神系統を祀ったものと推察する。
まあ次の年に大歳神を勧請したというからには一般的には素戔嗚尊で落ち着くのであろうが
筆者の感応では熊野牟須美大神=イザナミ大神がもともとの祭神であろうと感じられる。
西側からのニノ岳(熊野嶽)三ノ岳の写真を本日撮影してきたので添付したい。
左が三ノ岳 右が熊野嶽
まさに角そのものを感じさせる山容で霊山であろう。
主人公は熊野嶽であり金峰山は隠れて見えない。
天子宮のある天水の小天から見上げる威風ある熊野嶽
正反対の東側からの山容が気になるところであるが
過去にスマホで撮影した写真を見つけ出したのでこれも参考までに添付しておく。
参考までに地形図添付
https://maps.gsi.go.jp/#16/32.824986/130.641003/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1 地理院地図
明治の人は何故に震源を熊ノ岳だと思ったのであろうか?
特に断層に近い金峰山ではなく熊ノ岳とされたのか?
謎を解くことは出来ないが予想するに
そこには神霊信仰の原点となるものが関係しているものと推察する。