吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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比叡山の最澄と高野山の空海の確執 No496

2018-09-12 22:26:04 | 神霊界考察
比叡山の山王信仰にはいろいろな変遷があるが
元となるのは最澄が弘仁9年(818)4月26日に「九院の制」を定め
そこに山王院が含まれることにある。
この最澄の山王の発想は最澄が入唐した際に入寺した国清寺で
祭祀されていたという地主山王元弼真君に由来する。
この中国の山王は周の霊王(前571~前545)の子である王子晋(太子喬)であるが
最澄は比叡山において地主神である山王を王子晋ではなく
比叡山の麓にある日吉大社の御神霊としている。
厳密にいえば比叡山に対応する日枝大神となろう。

それ以降、比叡山の麓にある日吉大社は山王総本宮とされている。
日吉大社は最澄の比叡山創建よりも古く崇神天皇7年に創祀されたという。
さてこの日吉大社の主となる祭神は
西本宮の三輪の御神霊 東本宮の大山咋神である。

たぶん最澄は日本の国津神系の大物主神 大山咋神を
山王として護法守護してもらうことに満足したと考える。

そして山王の背後には牛尾宮の牛鬼 
八王子山で理解できる素戔嗚尊が控えている。

(対して空海が開いた高野山の地主神は丹生明神と
その子である狩場明神とも呼ばれる高野御子大神である。)


最澄が比叡山に赴いたのは788年で空海が高野山を開くのは816年のことである。
この2年前の814年に空海と最澄は袂を分かつことになるのだが、
この一連の出来事を考えた時にある種の疑問が残っている。
810年に最澄は「理趣釈経」の借用を申し出たが
空海は文章の文字を実践なくただ読んでも何も得ることは出来ないと
貸し出しは断られてしまう。
それで812年に最澄は空海に頭を下げて空海から金剛界灌頂と胎蔵界灌頂を受けている。
しかしながら阿闍梨灌頂については再び空海より3年の修行が必要と断られている。
ちなみに空海は青龍寺の恵果和尚から3か月で伝法阿闍梨位の灌頂を受けている。

もともと日本での灌頂は805年に最澄が高雄山寺で行った灌頂が初発であるのに
そのプライドも捨てて最澄が空海の灌頂を受けたのは
台密に足りない真言密教の奥義を知りたいと欲したからだと考えていた。
そして阿闍梨灌頂を受ければ密教の奥義を手にれられると
最澄は簡単に考えていたのだとも勝手な推測で思い込んでいた。

だと仮定すると空海と最澄は密教において雲泥の差があることになる。
その密教といっても空海の真言密教の事だが
真言密教とは大日如来の神力を持って神仏眷属を使役することにある。

空海の信仰したものは私が感じる限りは
大日如来、不動明王 波切不動明王 八大龍王神 大黒天であるが
肝心の釈迦如来への信仰があまり感じられない。
つまり空海はこの時点では法華経への信仰を保持出来ていなかったことになる。

ところが加持祈祷力に劣るはずである最澄についての私の認識がある時より大きく変わった。

空海は三輪山に遍照院を建立したという伝承もあるが
この寺の最初は聖徳太子であるともいわれている。
三輪山は日本国家にとって特別な聖地であるが
物部氏の祖神である大いなる物部の主神という意味の
大物主神をどう祭祀するのかは当時の仏教界では重要なテーマであったのであろう。

空海は真言密教の力を試すことも兼ねて三輪山にて物部氏の祖神である
大物主神を大黒天法により封印している。
大国主神が大黒天にすり替わった(本地垂迹した)のもこれがきっかけである。
空海はそれにより日本にほぼ一神教といってよい大日如来の信仰を広めようと
したのだろうと推察される。
当初空海が毘盧遮那仏を拝する華厳経を法華経より上位に置いていたことからも
そのことは推察される。
ところが現在祭祀の効果において大日如来よりも不動明王が幅を利かせているところを見ると
それは成功したとは言い難い。

この封印されたはずの大物主神を日枝で再祭祀したのが最澄である。
これは形でけであればなんとかなるものの中身を伴なうのは
並みの霊力では出来ないことである。
最澄の潜在能力はとにかく桁外れているものがある。
空海の封印をどう処理したのか分からないが何事もないように外している。


記載途中




つまり
空海は自分とは大きく違う最澄の志を恐れていたことは間違いない。
そして現実に最澄亡き後も空海にとって取るに足りないはずの顕教に悩まされ
結局は法華経への信仰を再構築すると同時に
自己浄化のために高野山での三密瑜伽に全精力を注ぎこむことになる。

そして得られた空海の「阿耨多羅三藐三菩提」の境地は
阿耨遠池の龍王によるもので
これは日本に特別の縁のあるマハーナーガ(大龍菩薩)の救いといえる。
ifではあるがもし空海があの時に阿闍梨灌頂を最澄に授けていれば
日本全体が高野山となっていた可能性は高い。
これはすなわち日本国内においての大日如来信仰の広がりのことを意味する。
現在日本において一般に如来世界と言えば
釈迦如来の北方浄土 阿弥陀如来の西方極楽浄土
薬師如来の東方瑠璃光浄土 弥勒菩薩の南方浄土
であるが、大日如来の密厳浄土を一般人で知る人はまれである。
日本人が不可思議な血統宗門により適当に浄土を振り分けられるのは
かなり合理性に欠ける。
良く分からないのだが空海自身も迷いがあったのか
三密瑜伽の即身成仏により向かった先は弥勒菩薩の兜率天だという。

最澄は『山家学生式』で「一隅を照らすはこれ則ち国宝なり」
といっている。
これは現在は「それぞれの道において精一杯努力する人は皆
何者にも代えがたい大事な国の宝だ」ということになっているらしいが
最澄の弟子は四方の一隅をそれぞれ照らし法華や念仏や禅に
分散することになってしまう。
最澄の言ったことに「宝とは道心なり」とある。
最澄の弟子は釈迦の道心に従い同じ一隅を照らすべきではなかったか?
分散する天台宗では国家を守護する力において弱いのだ。


空海の付法弟子は、真済、真雅、実恵、道雄、円明、真如、杲隣、泰範、
智泉、忠延の10人とされる。
真雅は空海の実弟であるが先述の大三輪寺遍照院の一世として真言宗としての
三輪山の祭祀に携わっている。
そして空海より早く法光大師の称号を得ている。
泰範は最澄の元から空海の懐刀に転身した四哲の一人であるが残念な人である。
空海の元からは人が育たなかったという言葉の元となってしまった。
真言宗にも中興の祖 興教大師覚鑁がいて救われているが
最澄が空海に求めかつ目ざしたものは仏僧の腐敗堕落を防止し
切磋琢磨する意思であったはずである。それこそが実践修行である。
空海の密教優越思想による仲たがいにより仏教界はそれまで以上に分散し
それ以降の歴史で
僧兵化による武力崩壊と廃仏毀釈の二度の仏難を経験することとなる。
そこにも最澄・空海の責を感じてしまう。

さて空海の高野山創建で出てくる丹生明神であるが
九州での足跡を辿る限りは丹生明神の祭祀は物部氏とは
対抗しているようである。
どうも中央構造線や水銀鉱床と丹生明神は関係しているようであるが
これには空海も絡んでくる。
単に高野山だけの話ではなくもう少し奥が深い。
ただ神霊的には丹生明神は龍宮に関係する水神であり
空海を守護してきたのは間違いない。
いわば空海にとっての山王は丹生明神ということになるが
大日如来の神力を持って神仏眷属を使役することが出来るはずの密教において
空海はかなり丹生明神に頼っているように思える。

この記事がきっかけとなり
『中国寧波の天台山国清寺に繋がる熊本の阿蘇火口ライン No500』
このラインの延長線上に高野山があることが分かった。
これを偶然で片付けることは出来ない。




















































コメント (11)
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