2004年から中国・山東省・青島における歴史的街区構成と現代的住志向に関する調査研究を始めた。
2005年3月、第1次調査の結果を報告するとともに、歴史街区構成に関する第2次調査を行った。
以下は5月に記した速報である。
3月26日は成田発・青島着、青島理工大学のJ教授、S助教授、K助手の出迎えを受け、宿泊先となる青島理工大学の学苑賓館に向かう。
当日は、調査地の下見のあと、2004年9月の調査結果を報告し、第2次調査の打ち合わせをすすめ、青島都市計画図の入手を依頼した。
27日は調査対象街区の向陽院の補足調査と他の2街区について配置構成の観察記録、を行った。
28日は2街区の立面構成、1階の使われ方、周辺街区構成の実測をすすめた。28日は息が白くなるほどの冷え込みとなった。
29日は別の2街区の配置構成、立面構成、周辺街区の1階の使われ方調査をすすめた。
30日の午前は野帳の整理を行い、昼に青島理工大学副学長と共同研究の打ち合わせ、午後は青島の歴史的建築の見学、ならびに文献収集を行った。
31日は野帳整理のうえ荷物をまとめ、空港へ向かったが、なんと、滑走路整備のため、国際便はすべて欠航となり、青島に足止めとなってしまった。翌日便に振り替わったため、その間、野帳整理をすすめ、1日遅れの4月1日に帰国となった。
調査成果の概要を記す。
共同研究者・青島理工大学J教授を通じて入手した地図は3点、①1901年10月のドイツによる青島都市図、②1/3000の現況街区図、③1/1000の現況街区詳細図である・・この地図入手はその後の解析に大いに役立った・・。
ドイツ時代の都市図には、南の海沿いにいくつかの建造物が描かれている。そのいくつかは現存し、ホテルや事務所、商社などに使われている。
いまや観光名所となった船着き場から北にのびる幹線道路の周辺はおよそ100mの街区が描かれているが、当時の都市図には建造物が描かれていない。
海からおよそ400mのぼった幹線道路の東側に50~80mの街区が構成されていて、ここにはかなりの建造物が描かれている。
この地区は大鮑島dabaodaoと呼ばれ、2004年9月調査の向陽院街区はこの一角にある。都市図には向陽院の西棟だけが描かれていて、2004年9月調査時の聞き取り=ドイツ時代の1896年ごろに西棟が建てられ、日本時代に東、北、南棟が建てられた、と符合する。
1901年都市図には、この地区の幹線道路である中山路zhongshanluとこれに平行する東から順に濰県路weixianlu、博山路boshanlu、易州路yizhoulu、芝罘路zhifulu、済寧路jininglu、および中山路zhongshanluに直行する南から四方路sifanglu、海博路haipolu、高密路gaomilu、胶州路jiaozhoulu・・が描かれている。いずれも現況街区図と一致していて、歴史街区構成がいまに残されていることがうかがえる。
ただし、胶州路jiaozhouluは拡幅されていて、胶州路jiaozhoulu北側の街区はおおむね半分が道路になっている。
(中略)・・その結果、いずれも街区の四方に4棟が中庭を囲んで建つ里院様式の構成で、1階は洋服、用品などの衣服を筆頭に、食堂、ヘアーサロンなどの店舗として利用され、街区の数カ所に設けられた入口から上階の住居にアクセスする向陽院と同じ形式であることが分かった。
この様子は現況街区詳細図と見比べてもほぼ一致する。
ただし、中庭に建つ建築は、向陽院に比しかなり建て詰まっていて、今回の調査では把握できないほどに高密住居をなしていた。
現況街区詳細図も1/1000のため、高密居住の様子を把握することは難しい。
向陽院では、当初、労働者のための一種の社宅のように使われ、一部はその後、払い下げられ、現在は、自己住居と貸家が輻輳している。
ほかの街区でも同じように居住者の実体解明は難しそうである
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