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2018.3 中御門跡、黒門跡、岩城門跡、再建鉄門を抜け、犬山城天守閣へ

2018年05月01日 | 旅行

2018.3 犬山城を歩く ②中御門跡、黒門跡、岩城門跡、再建鉄門を抜け、天守閣へ

 食後、城前広場に戻る。広場の東に朱塗りの鳥居が立ち、猿田彦神社、三光稲荷神社、犬山城近道と書かれている。登る人、下る人が多い。着物姿の女性も少なくない。桃の節句+土曜のせいだろうか。
 神社は帰りに寄ることにして、広場西の犬山城と彫られた巨石の先の朱塗りの橋を渡り、石畳の坂道を登る。こちらも人が多い。国宝犬山城は人気が高いようだ。


 石畳は緩やかな登りである。左手=西側は崖のようだ。堀の跡らしい。中御門の立て札が立っている(写真、web転載、ホームページ参照)。ここに城内への登城口があったようだ。たぶん枡形が設けられ、抜けると松の丸になるはずだ。
 現在の猿田彦神社、三光稲荷神社あたりが松の丸らしい。右手に、猿田彦神社に向かう階段があるから、かつての登城路は右曲がりかも知れないが、石畳をまっすぐ進むと、右手に石垣が現れ、石垣の上に櫓を思わせる建物が建っている。松の丸の櫓のイメージであろうか(写真、web転載、ホームページ参照)。

 坂は少し急になり、坂の左半分は階段、右半分はスロープになる。櫓下あたりで、石畳は右に曲がりすぐ左に折れる。石畳は急勾配で、黒門の立て札が立っている。
 立て札の右手は石垣で、奥は針綱神社境内、左も石垣で上に建物が建つ(前掲写真)。たぶん、右手の針綱神社境内がかつての桐の丸、左手の石垣+建物あたりが樅の丸で、黒門の先に枡形があり、本来は、桐の丸=針綱神社→黒門→枡形→樅の丸が登城路だが、明治以降の公園化の際にいま歩いている石畳の斜路が整備されたのではないだろうか。


 右手の桐の丸=針綱神社、左手の樅の丸のあいだの石畳を登る(写真、web転載、ホームページ参照)。右手に新たな石垣が現れる。どの石垣も野面積みで、古そうだが、犬山城の遺構か近年の再建かは見ただけでは分からない。城のパンフレットにも記されていない。
 石畳を登り切ると、右手に岩城門の立て札が立っている。たぶん、右手の新たな石垣の上が杉の丸で、本来は、樅の丸→岩城門→枡形→杉の丸が登城路だったと考えると、納得しやすい。

 岩城門の立て札あたり=杉の丸の正面に城門が立ちはだかる(写真、web転載、ホームページ参照)。本丸への入口で、再建である。門扉を鉄帯で補強していたことから鉄門と呼ばれた。二重楼門で、上階は敵への攻撃のためのつくりのはずだが、立格子をはめた窓のように見え、豪壮さ、堅固な守りとは縁遠い感じである。
 鉄門を抜けると、たぶん枡形があったはずで、その先が本丸である。本丸にはいくつかの櫓と居館などが建っていたが、天守を除き取り壊されてしまった。いまは、鉄門と隣に櫓風の建物が再建されただけで、広場になっている。
 もっとも丘の最頂部はさほど広くないから、再建を進めない方が、天守閣の優美な姿を楽しむことができる(写真)。

 天守閣は3重4階、高さ19mで、高さ5mの石垣の上に建つため、高さが強められ、伸びやかに見える。
 屋根は南北軸の入母屋で、南北にしゃちほこを載せている。前述したように、向かって奥の北側しゃちほこが落雷で壊れ、再建されたばかりなのでまだネットが残っているが、天守の容姿にはほとんど影響していない。
 4階の外周には回廊が巡っていて、南側扉脇には花頭窓が見える。2重目の屋根は東西軸の入母屋で、南側に唐破風を設けている。
 2階の白壁は高さを抑え、水平性を強めている。1階外壁の下半分は黒色に塗られた板張りで、板張りのあいだに格子の開口がある。この黒い板張りで、1階外壁の上半分の白壁の水平性が強調されている。
 天守まで万が一敵が攻めてきたときの守りとして、右手前、南東に突き出して付け櫓が構えられている。全体に小づくりながら、プロポーションがよく、花頭窓、唐破風、白壁の水平性、小さな付け櫓が柔らかさを演出している。

 石垣の中は地下2階建てになっていて、地下2階から入場する。周りは野面積みの石垣がむき出しで、荒々しい雰囲気になっている。
 中央に木製のかなり急な階段があり、地下2階から4階まで通じているが、大勢が上り下りしたためか、段板がすり減っていて滑りやすい。手すりにつかまりながら、用心して上る。地下1階は板張りで、石垣の中のため開口がなく、展示もない。


 1階は納戸の間と呼ばれ、板敷きの部屋と畳を敷いた上段の間がある。開口があり、明るい。城主の対面に使われたらしい。
 2階は武具の間と呼ばれ、武具用の棚が設けられているが、武具の展示はない。戦時には弓矢、鉄砲で敵を倒すようだが、弓矢用、鉄砲用の狭間はない。開口には格子がはめられているが、敵の弓矢、鉄砲を防ぐには心もとない感じがする。
 3階は入母屋屋根+唐破風の中に位置するため、破風の間と呼ばれる。床は板張りで、天井が低い。展示はない。
 最上階は高欄の間と呼ばれる。外周の回廊の手すりに由来したようだが、回廊は狭く、手すりは低い。眺望は素晴らしいが、足下がおぼつかないのでおそるおそる一周する。
 木曽川の上流側=北東側に架かる橋が、先ほど渡ってきた犬山橋鉄橋になる(写真、ホームページ参照)。木曽川の右手が愛知県、左手が岐阜県で、上流の山並みのさらに奥が御嶽山など飛騨の山々になる。下流側は木曽川流域流域の平野が広がる。さらに下れば長良川流域の平野と連なり、濃尾平野となるはずだ。

 パンフレットには北東の山に岐阜城と記されている。金華山らしい山が見えるが、肉眼では岐阜城は確認できない。織田信長は岐阜城の眺めから天下統一を野望したが、天下を取った徳川家康が岐阜城を廃城にした。
 同じように眺望の開けた犬山城は、羽柴秀吉は陣取り小牧・長久手の戦いで徳川家康に勝利したが、家康が天下を取ったのち2代秀忠は成瀬正成を犬山城主とし、天守閣はいまに残った。同じように眺望が開けても、城の歴史には運不運があるようだ。

 天守閣から本丸を見下ろす(写真、ホームページ参照)。手狭だから、櫓や居館が建ち並ぶとぎゅう詰めになりそうだ。
 再建された鉄門、櫓風施設が往事の名残をイメージさせる。もう一度、回廊を一周し、遠望を楽しんでから、木製階段を下る。滑りやすいので、ゆっくりゆっくり降りる。今日は空いていたが、混雑時には長蛇の列になるそうだ。続く

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