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2019.9 オーストリアの旅/ハイドンの棺を安置したハイドン教会、ハイドンが妻と暮らしたハイドンハウス

2019年10月28日 | 旅行

2019.9 オーストリアの旅 2日目 エステルハージ城→ハイドン教会&ハイドンの墓→ハイドンハウスへ          
ニコラウス2世侯爵の部屋
 ハイドンホール見学後、ニコラウス2世侯爵の部屋に入った。侯爵の執務室のようで、白を基調にし、落ち着いた部屋である。壁にニコラウス2世と夫人の肖像画が飾られていた(写真)。
 手持ちの資料のエステルハージ家にはニコラウスはいない??。そのころのアイゼンシュタットはハンガリーであるから、人名、地名などはハンガリー語で表記された。第1次大戦後にオーストリア共和国となり、ドイツ語表記に変わる。
 ハンガリー語のエステルハージ・ミクローシュ(1765-1833)はドイツ語でニコラウス・エステルハージになるらしい。当主になったミクローシュ=ニコラウスは2人いたので、ハイドンにミサ曲を依頼したエステルハージ・ミクローシュ(1765-1833)はドイツ語でニコラウス2世と呼ばれたようだ。
 オーストリアに住むガイドは当然のようにドイツ語のニコラウス2世侯爵として紹介したことになる・・スペイン王カルロス1世はスペイン語で、同じ人物がドイツ語では神聖ローマ皇帝カール5世になる、こうした人名、地名の表記の変化はしばしば体験するが、メモを取っているときは混乱する・・。

インペリアルルーム
 続いてインペリアルルームを見た。侯爵の部屋に比べ広々とし、内装も手が込んでいて、格式を感じさせる(写真)。エステルハージ家では正餐用の食堂として使われたそうだ。
 1807年、ベートーヴェンのミサ曲がこの部屋で披露されたらしいが、ニコラウス2世は気に入らず、ベートーヴェンは憤慨して立ち去ったとの説もある。いまは小ホールとしてイベントなどに使われている。

チャペル
 最後に、西棟1階のエステルハージ家専用のチャペルに入った。バロック様式で、白い交叉ヴォールト天井に白壁で、明るく落ち着いた雰囲気である。要所には金細工の彫刻が飾られ、風格を表している。
 正面祭壇はサーモンピンク色の大理石で、上部にはL字を彫り込んだ金細工の紋章が飾られ、正面には聖母子とイエスが描かれている(写真)。エステルーハージ家は敬虔なカトリック教徒だから、ことあるごとに祈りを捧げたようだ。
 ハイドンもここでミサ曲を演奏したそうだ。ガイドが雰囲気だけでも想像できるようにと、ハイドンのミサ曲をかけてくれた。
 椅子に座り、手を合わせながら瞑想すると、ミサ曲が身体を包みこんでくるような気がする。心が洗われた?ころ、ガイドの呼びかけで中庭に出た。時計は10:30、2時間近い見学になった。

 エステルハージ城南棟の入場口のショーケースにHAYDN ESTERHAZYと銘打ったワインが飾られていた(写真)。南棟の向かいに建つ歴史建造物はもと馬小屋で、改修されてレストランとワインショップ+ワインセラーになっている。
 アイゼンシュタットは白ワインがおすすめで、ハイドンもワインをよく飲んだらしい。が、ガイドはハイドン教会に向かって歩き出した。ワインの味見は棚上げにしてあとを追った。

ハイドン教会Bergkirch
 エステルハージ城から西に500mほど、緩い登り勾配の大通りを歩くと、斬新な形の建物が現れた(写真)。教会とは思えないデザインだが、エステルハージ城を建てたエステルハージ・ポール(1635-1713)が1705年に建設を始め、一時中断し、1803年、エステルハージ・ミクローシュ(1765-1833)=ニコラウス2世の代に完成し、Bergkircheと名付けられた。
 直訳すれば山の教会になる。
 あとで資料を読んで分かったが、上階にイエス・キリストの受難を表したヴィア・ドロローサと磔刑されたゴルゴダの丘が模型としてつくられていることから、丘=山の教会と名付けられたようだ。
 塔に上れば、エステルハージ城や広大な沃野も見えるらしい。いずれも見逃した。目当てはハイドンの墓だったのでやむを得ない。
 ハイドンはアイゼンシュタットのほとんどの教会で演奏したそうだ。資料には、1803年71才が最後の演奏になったと記されている。
 想像をたくましくして、ベルク教会が完成した1803年、エステルハージ家への最後のご奉公とハイドンはここで演奏したのではないだろうか。
 教会の外観は、私にはユーゲント・シュティール≒アール・ヌーヴォ≒分離派を連想させるが、バロック様式である。
 聖堂は円形平面でドームがのり、天井には聖書をテーマにしたフレスコ画が明るい色調で描かれている(写真)。祭壇画は東方の三賢人のようだ。一礼する。

ハイドンの墓
 ここを訪れる観光客の目当てはハイドンの墓である。ハイドンは1809年5月にウィーンで息を引き取り、現在はハイドン公園と呼ばれるウィーンのフントシュトルマー墓地Hundsturmer Friedhofに埋葬された。
 1820年、ハイドンゆかりのアイゼンシュタットに改葬されることになった。ところが棺を開けたら、ハイドンの頭がなかったそうだ。
 のちに、ハイドンを信奉していたエステルハージ家の書記官が密かに頭だけを持ち去ったことが分かったが、当初は、頭無しの身体だけがベルク教会に埋葬された。
 その後、ハイドンの頭がウィーン楽友協会に保管されていることが分かった。
 1932年、ベルク教会にハイドン廟が建てられ、ハイドンの身体が大理石の棺に安置された(写真)。ハイドン教会と呼ばれるのはそのころからと思うが、まだ頭無しである。
 1954年、ウィーン楽友協会から頭が移された。ようやく五体がそろい、ハイドンも安らかになれたと思う。
 増築されたハイドン廟はシンプルな四角い外観で、ハイドン教会の入口を兼ねている。聖堂は自由に参拝できるが、ハイドン廟は厳重に管理されている。係りに入場料を渡すと鍵を開けてくれ、鉄柵の奥の棺を見ることができる。ハイドンの棺に合掌して外に出た。

ハイドンハウス
 フランツ・ヨーゼフ・ハイドンFranz Joseh Haydn(1732-1809)は、現在のオーストリア・ニーダーエスターライヒ州ローラウで生まれた。
 ローラウはウィーンの東南、アイゼンシュタットの東北、いずれからも直線で40~50kmの農村である。
 父は車大工だったそうだが、フランツは小さいうちから音楽に秀でていたらしい・・ローラウにはハイドンの生家が公開されているが、今回のツアーには含まれていない・・。
 フランツは6才のころ音楽学校校長の親戚に預けられ、音楽の才能を伸ばす。たぶん歌がうまく声が良かったので、声楽の練習をしたのではないだろうか。
 8才のころ、ウィーンのシュテファン大聖堂聖歌隊に採用される(写真はシュテファン大聖堂、オーストリア7日目見学)・・弟ミヒャエルも聖歌隊に採用される、ミヒャエルも作曲家として名を残している・・。
 フランツは9年間聖歌隊に属したが、1749年、17才のとき、声変わりのため聖歌隊を解雇されてしまう。フランツは音楽の才に長けていたばかりでなく、勉強熱心でオルガンやヴァイオリンなどの演奏も身につけ、作曲も試みたようだ。
 解雇後、ウィーンにとどまり、ヴァイオリンやオルガンなどの演奏でなんとか暮らし、独学で作曲を身につける。
 そうした地道な努力が報われ、1757年、25才のころ、ボヘミアのカール・モルツィン伯爵に宮廷楽長として雇われる。このころ初めての交響曲第1番を作曲し、次々と作曲を手がけた。
 1760年、ハイドン28才のとき、マリア・アンナ・ケラーと結婚する。ハイドンの好きだった妹が修道院に入ってしまったため姉のマリアと結婚したそうだ。
 妹が駄目なら姉と結婚するというのは安易すぎる。そのせいか、マリアとの結婚はうまくいかなかったらしい。
 ほどなくモルツィン伯爵の経済が厳しくなり、ハイドンは解雇される。
 1761年、エステルハージ・パール・アンタル(1711-1762)がハイドンを副楽長に雇う。
 ハイドンとマリア夫妻は、エステルハージ城から東に250mほどの住まいを借りて住んだらしいが、1766年、エステルハージから借金をし、この住まいを購入する。現在はハイドンハウスとして公開されている(写真)。
 室内の床は板張り、壁、天井は明るい色のプラスター塗で、当時の家具が置かれ、資料が展示されている。
 ハイドンが実際に弾いたピアノ・・ドイツのピアノ職人Anton Walter(1752-1826)製・・も展示されている(写真)。
 ハイドンはここに11年住んだが、エステルハージ・ミクローシュ・ヨージェフ(1714-1790)が現在のハンガリー・エステルハーザにオペラ劇場やマリオネット劇場などを併設した豪華な館を建てて移ったので、ハイドンも楽団員とともに移り住んだ。
 この住まいを出るときに「別れのシンフォニー」が作曲されたそうだ。
 エステルハージ家依頼の作曲、演奏を重ねるとともに、ウィーン、ロンドン、スペインなどからも作曲、演奏の依頼が来るほどハイドン人気が高まったようだ。モーツアルトとも知り合い、互いに作曲を献呈するなど、親交が続いた。
 エステルハージ・アンタル(1738-1794)に解雇されたあと、ハイドンはイギリスへの移住を考えたらしいが、ウィーンに住み続けた。
 エステルハージ・ミクローシュ(1765-1833)はハイドンを楽長として再雇用する。ミクローシュはウィーン住まいを好んだので、ハイドンもそのままウィーンにとどまり、1793年、王宮から南西に直線で2kmほどのグンペンドルフに住まいを建てた。
 ここがハイドン晩年の住まいとなる。現在は博物館として公開されているが、ツアーの予定に入っていない。ハイドンの遺体については前述した。

 フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの作品はすべてのジャンルを網羅し、作品数は弟ミヒャエルとほぼおなじ700曲を超え、未完、紛失、断片を含むと1000曲に及ぶらしい。
 1797年作曲の「神よ、皇帝フランツを守り給え」はオーストリア帝国国歌となり、現在はドイツ国歌「ドイツ人の歌」のメロディーとして使われている・・現オーストリア国歌「山岳の国、大河の国」のメロディーはモーツアルトの作曲である・・。

 ハイドン夫人マリアとのあいだにには子どもが生まれなかったが、ハイドンとエステルハージ家の歌手とのあいだには子どもができたらしい・・有名人は尾ひれはひれがつきものだから、詳細は不明である・・などの話をガイドから聞き、12時少し前、ハイドンハウスを出る。日射しが強いので上着を脱ぎ、半袖ポロシャツになる。バスはルストに向かう。(2019.10)

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