yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2019.10 コートールド美術館展でセザンヌ、ルノワール、マネ、ゴーギャンたちの名画を見る

2019年11月01日 | 旅行

2019.10 東京都美術館「コートールド美術館展」でセザンヌ、ルノワール、マネ、ゴーギャンたちの名画を見る  <日本の旅・東京を歩く>

 東京都美術館で9月10日から12月15日まで「コートールド美術館展」が開かれている。  コートールドはレーヨンの製造、取引で蓄財したイギリス人であり、1920年代、印象派、ポスト印象派の作品を次々と購入した。
 ロンドン大学に美術研究所ができることになったとき、多くのコレクションを寄贈、1932年、研究所の付属機関としてコートールド美術館が誕生した。その美術館の改修を機に、およそ60点が都美術館で展示されることになった。
 都美術館は毎月第3水曜に限り65才以上のシルバーは無料になる。10月の第3水曜日に「コートールド美術館展」に出かけた。
 都美術館2階レストランでランチを済ませたあと、展覧会の列に並ぶ。およそ20分待ちだった。

 展示は、ロンドン大学美術研究所付属機関の研究成果を踏まえ、第1室「画家の言葉から読み解く」、第2室「時代背景から読み解く」、第3室「素材・技法から読み解く」に分けられていた。あるいは都美術館の学芸員の構想かも知れない。
 それぞれの絵には、題名、画家名などに加え、画家の意図を読み解くための解説もつけられ、展示室のコーナーには代表的な絵画を例に拡大図を掲示し、読み解き方が詳述されている。絵の見方が参考になった。こうした解説はこれまでの展覧会ではなかなか目にすることがなかった。画期的な試みとして評価したい。

 第1室には13点展示され、ゴッホ「花咲く桃の木々」」やモネ「アンティーブ」ほか1点なども並ぶが、セザンヌの作品は9点が展示されている。
 ポール・セザンヌ(1839-1906、フランス)は「近代絵画の父」といわれるそうで、多角的な視点からの見え方を組み合わせた表現や、造形的な画面構成を作品化している。
 1892~1896年ごろに描かれた「カード遊びをする人々」(油彩、カンバス、60×73cm、写真web転載)では二人の農民が傾いたテーブルをはさんで座り、お互い自分の手札をジーとのぞいている光景が描かれている。
 田舎の居酒屋だろうか、飾りっ気は見られない。一人はパイプをくわえ、一人は口をしっかり閉じている。テーブルには飲みものも食べものもない。二人に会話をしている雰囲気はない。
 貧しい農民にとっての楽しみはカード遊びしかなく、ぼくとつとした農民はカード遊びを通して会話を交わすのが日常の暮らしだ、とセザンヌはパリで絵を見ている者に伝えようとしているのだろうか。

 第2室には22点が展示されている。ブーダン、ルソー、シスレー、ピサロ、ドガ、ロートレック、モネ、ルノワール、マネなどの絵が並ぶ。
 ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919、フランス)の「桟敷席」(1874年、油彩、カンバス、80×63.5cm、写真web転載)は、画面一杯にオペラハウスの桟敷席に座る上流階級らしい男女が描かれている。
 手前の女性は白黒の縦縞の衣装を身につけ、真珠の首飾りを何重にも下げ、金の腕輪をはめている。後の男性も蝶ネクタイの正装のようだ。
 女性は上品な顔立ちながらどことなく寂しさを感じさせる。右下を見つめる視線に力強さは感じられない。男性はオペラグラスで右上を見ている。
 夫婦であれ愛人であれ、二人はいっしょにオペラを楽しむというより、会話もなく、ばらばらにオペラを見に来た人たちを眺めているようである。というより、画家の視線のようにこの二人もほかの誰かに見られていることを意識しているようだ。
 ルノワールは、パリのオペラ座?に集まる上流階級の退廃的な日常風景を描き出そうとしたのではないだろうか。

 エドゥアール・マネ(1832-1883、フランス)の「草上の昼食」(1863年ごろ・油彩・カンバス・89.5×116.5cm、写真web転載)は、林の中に4人の男女が描かれている。
 手前には草上に座るジャケット姿、草上で足を投げ出し半身を起こしたジャケットの男性、こちらを見つめる裸の女性、少し向こうに下着を身につける女性がいる。
 最初のタイトルは「水浴」だったそうだから、女性は川?で水浴びを終えた?、これから水浴びをする?女性のようだ。
 タイトルが改題され、昼食をしながら歓談している光景が強調された。飲み干した瓶が描かれているから、想像をたくましくし、アルコールが効いて身体がほてったから水浴びになったと思えなくない。
 しかし、だからといって男性はジャケットのままなのに女性は丸裸だから余計なことやいかがわしいことを想像させる。絵の中の女性は、余計な想像、いかがわしい連想をしている鑑賞者を射すくめるように見つめてくる。
 マネは、それまでの絵がまさに絵空事で理想化された虚構が描かれていたのに対し、パリでの上流階級の人々の現実の光景を描こうとしたようだ。
 さらには、こちらを射すくめる女性の目を通して、余計な想像、いかがわしい連想をするあなたも同じ穴のむじなよと問いかけているようだ。

 展覧会のポスターに使われている「フォリー=ベルジュェールのバー」(1882年、油彩、カンバス、96×130cm)はマネの最晩年の作品である。
 パリのよく知られたミュージックホールで働く女給が、画面中央にアップで描かれている。後の大鏡には客席で飲み騒ぐ客たちが映し出されている。
 ミュージックホールの喧騒のなかにいる大勢を鏡に映すことでマネは静寂を象徴し、女給は身だしなみは整っているものの相手をする上流階級にはほど遠い貧しい暮らしで、ときどき絶望感におちいる様子を描いたのではないだろうか。
 鏡の女給の背中は少し右にあり、その横に男が描かれている。女給を口説いているのだろうか、断りたくても貧しさ故の仕事がら断れない切なさかも知れない。
 手前の瓶と鏡の瓶など手前の光景と鏡に映った光景は対応していない。女給の困惑を表そうとしたのだろうか。

 第3室には、ドガ、スーラ、モディリアーニ、ボナール、ゴーガンらの絵画20点、ロダンの彫刻5点が展示されている。
 「ネヴァーモア」(1897年、油彩、カンバス、60.5×116cm、写真web転載)はポール・ゴーギャン(1848-1903)の作品である。
 パリの画壇で意見が合わず、逃げるようにタヒチに滞在し、14才の少女を妻とした。2人目の子どもは生まれてすぐに死んでしまう。この絵はそのころに描かれたらしい。
 横たわる裸の女性はマネの「オランピア」(1863)を思い出させるが、「オランピア」に比べ原色が用いられ、モデルの妻も原住民のたくましさがにじみ出ている。
 「オランピア」には絵を読み解くヒントが散りばめられていた。「ネヴァーモア」ではどんな意味が込められているのだろうか。
 妻は肉感的だが、「オランピア」のような官能感はなく、素朴なたくましさがあふれている。目は左上、窓枠に止まる大鴉を見ている。大鴉は悪魔の鳥と呼ばれている。妻を見守っている?のだろうか、それとも見張っている?のだろうか。外の2人の女にはどんな意味があるのだろうか。
 ゴッホはゴーギャンと意見が合わず、ゴーギャンが去って間もなく自殺する。ゴーギャンの最初の妻はデンマーク人で5人の子どもがいた。ゴーギャンはタヒチのあとフランス領マルキーズ諸島に移るが、タヒチの妻は同行を嫌う。マルキーズ諸島で新たな妻と暮らし、子どもも生まれるが、その妻もゴーギャンから去って行く。
 「ネヴァーモア」の妻の寂しげな顔、悪魔の鳥、無関係な二人の女などは、ゴーギャンが感じた不安の表現だろうか。不安は現実になる。病状が悪化し、パリに戻ることもなく、マルキーズ諸島で孤独のまま病死する。

 名画の自由な解釈を楽しんで帰宅した。(2019.10)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2019.9 オーストリアの旅/... | トップ | 2019.9 オーストリアの旅 ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

旅行」カテゴリの最新記事