よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

奥州街道➂2日目「氏家宿~喜連川宿」(栃木県さくら市)

2022-04-13 05:07:20 | 奥州街道(奥州道中)

3/29(火)奥州街道(道中)2日目

宇都宮駅8:02の電車で昨日ゴールした氏家駅へ。今日は、「氏家宿~大田原宿」まで約30kmを予定しています。

【氏家宿~喜連川宿】

8:25氏家駅に到着。氏家駅前のポストには、さくら市の桜がデザインされています。

 

西導寺は、建久2年(1191)氏家(宇都宮)公頼の開基。公頼は、氏家氏の始祖。西導寺は氏家氏の菩提寺です。

  

西導寺の横には、「蔦(つた)地蔵

鎌倉期に宇都宮氏を中心に形成された宇都宮歌壇は京都・鎌倉に次ぐ一大地方歌壇で、歌聖藤原定家と親交を結び、宇都宮頼綱の女は定家の長子為家に嫁いでいます。

頼綱は法然上人に帰依し蓮生法師と称しました。宇都宮氏の支族氏家公頼も浄土信仰をもち、定家の七周忌に定家の面影を写した石仏を造立したと伝えられ、以来定家地蔵といわれるように

なったといいます。また、蔦のからまる場所を好んだという伝説と藤原定家と式子内親王の悲恋、定家葛伝説も混ざって蔦地蔵と言われるようにもなったといいます。

高さ1,36m、右手には錫杖、左手は摩尼宝珠を持っています。

  

寛方・タゴール平和公園 荒井寛方(1878~1945)はここに生まれ、日本画家を目指して巣立ちました。仏画を志した寛方は原三渓やアジアで初めてノーベル文学賞を受賞したインドの

詩聖ダゴールの知遇を受け、日本画の教授として渡印しました。その間、アジャンタ壁画模写の難事業を成し遂げ、多くの人々と交わり、日印文化交流の懸け橋となりました。

タゴールとはその後も親交がつづき、現在インドにおいて寛方とダゴールへの畏敬の念はますます深まっています。「仏画の寛方」と称された寛方は、晩年には法隆寺金堂壁画の模写にも

従事しました。無念にも完成直前に急死してしまいましたが、その業績は今なお燦然と輝いています。寛方の遺した膨大な資料、遺品とこの地は、故人となった子息の英朗氏と孫の聖也氏が

引継ぎ、寛方顕彰を果さんとしました。英朗氏夫人なみ子氏と子息の孝志氏はその遺志を守り、これらを氏家町に寄贈されました。氏家町は、このご意向を尊重し、寛方とタゴールの偉業を偲び、

二人の友情を永遠に記念するため、この地を公園としました。(さくら市観光ナビより引用)

 

街道に戻ります。上町の信号を右折。その昔、鬼怒川は氏家の中を流れていたそうです。五行川にかかる五行橋も鬼怒川水系だそうです。

 

桜野中の信号を過ぎると左手に大きな屋敷が立ち並んでいます。

村上家は、桜野村の庄屋を勤めました。門には、五十里(いかり)湖決壊による洪水の水位が残されています。

説明文が書かれていますが、文字がかすれて読むことができません。

ネットで五十里洪水を調べました。

天和3年(西暦1683年)9月1日、マグニチュード6.8の大地震が日光・藤原・南会津地方を襲った。昭和24年の今市大地震がマグニチュード6.4と記録にあるがそれと同規模以上のものと推測できる。

   これにより、日光御神領、西川村(現日光市栗山)の葛老山が崩壊し、流出した土砂が男鹿川をせき止めた。崩壊した土砂の量は、現在の地形から判断して約60万立方メートルと推測される。

さらに折からの降雨により男鹿川の水位はみるみる上昇し、五十里、西川地区に住む31軒の村人たちは、上の大地への避難を余儀なくされた。

  当時、会津西街道(国道121号)の交通も遮断され、通行人は山越えとなったが、駄馬の荷は山越えがかなわず、にわか仕立て筏で運搬した。

  土砂崩落後、90日間で村は湖底に沈み、湖は150日間で満水に湛えた。水深は、一番深いところで47メートルに達したといわれている。

西川、五十里村に住む人々は、天災の影響を受けて窮乏生活を余儀なくされた。また、下流地域に住む人々にとっても、万一崩壊した土砂が決壊した時のことを思うと、なみなみ湛えた湖水を

抜くことが切なる願望であったことは容易に想像できる。

  五十里湖の出現から24年を経て、会津藩が水抜き工事の着手に乗り出した。請負額は4,375両、当時としては破格の金額である。

 地元村人達の協力も得、工事が進められたが巨大な一枚岩盤に突き当たった。当時の工法では、岩盤の上でいもがらを燃やし、その後水をかけ岩盤を脆くして掘り進むような方法だったため、

思うようにはかどらず、ついに工事中止となった。

 この工事中止の責任を負い、会津藩士早川上粂之助と高木六左衛門という武士が割腹自殺を遂げた。葛老山崩落地点近くにある小高い丘、布坂山の頂上にこの藩士の墓と伝えられる小さな

祀られている。この伝説から布坂山は腹切山とも呼ばれている。

享保8年(西暦1723年)8月10日、五十里湖出現からちょうど40年度、その一帯が暴風雨に襲われ、五十里湖の水位が著しく上昇した。そして、ついに上昇する水圧に耐えかね、ダム状に堆積していた土砂が押し流された。世にいう五十里洪水である。洪水は下流地方を席巻し、下野国(栃木県)では未曾有の大災害となった。直下流の川治村、藤原村は全村壊滅的打撃を受け、

下流70ヶ村におよび12,000人(推定)もの人命や牛馬を飲みこんだといわれている。

 

 

村上家の隣には、瀧澤家住宅があります。

瀧澤家住宅は、さくら市の櫻野地区の旧奥州街道沿いにあります。通りに面して伝統的な塀を巡らし、堂々たる長屋門を開くなど、今なお旧家の面影を留め、明治期の重厚な雰囲気を良く

残しています。鐵竹堂は明治33(1900)年に、長屋門も同時期に建築されたとされ、蔵座敷は明治20(1887)年に建築された建物に明治天皇の行幸を機に望楼が増築されたといわれており、平成10年(1998年)に、建築遺産として歴史的な価値が認められ県指定文化財になりました。上質な材料と意匠が目立ち、近代和風建築の水準を知ることができる貴重な遺構です。(さくら市観光ナビより)

 

瀧澤家住宅を建築したのが、明治期の栃木県を代表する実業家であった瀧澤喜平治(弘化3(1846)年~大正5(1916)年)です。喜平治は、明治期の日本主力輸出品であった絹製品に着目し、

養蚕業に着手しました。養蚕業のほか、多くの会社・銀行の設立、経営にたずさわり実業家として大きな業績を残しました。喜平治は実業家として活躍する一方、

氏家地区に大きな貢献をしています。上野原の開墾を行い、養蚕技術を教える養蚕伝習所の開設と雇用を行いました。また、氏家小学校の広大な敷地や改築費の提供や、櫻野地区に医師を招いて

病院を開設しています。(さくら市観光ナビより)

 

 

 

村上家、瀧澤家のほかにもこの一帯には、大きな旧家があります。

 

狭間田一里塚 氏家地内には、堂原一里塚と狭間田一里塚がありましたが、堂原一里塚は明治以降消滅しました。

  

日本三大美肌の湯は、嬉野温泉(佐賀県)、斐乃上温泉(岐阜県)とこの喜連川温泉です。

台町の信号の所に大黒天が祀られていますが、工事中の為立ち入りできませんでした。

 

 

台町の信号から早乙女坂という上り坂になります。坂の途中、「早乙女坂古戦場」跡があります。

天文十八年(1549)、那須氏、喜連川塩谷500余騎と宇都宮尚綱率いる宇都宮軍2000余騎とが戦った古戦場で、激戦の末宇都宮軍は喜連川軍の鮎瀬弥五郎実光に背後から大将の尚綱が射たれ

退散したといわれています。

 早乙女坂は、下野国の北部(塩谷・那須)と中央部の接点にあり、戦国時代に、下野一円の領国経営を望む宇都宮氏にとって、早乙女坂を抜き喜連川を治めることは、北部支配への橋頭ほ(保)を確保する上で

最も重要な課題でした。このため、早乙女坂をめぐる攻防は幾度かくりかえされましたが、その中でも、天文十八年(1549)の戦は、宇都宮軍の大将尚綱が喜連川方の助っ人、鮎ヶ瀬弥五郎(左衛門尉)に

射殺されるという大激戦でした。弥五郎の働きによって、喜連川城下のピンチが救われたため、喜連川領民は万こう(腔)の感謝を込めて早乙女坂を、弥五郎坂と呼ぶようになりました。

 今、この地には、宇都宮尚綱のものと言われる供養塔が建ち、古戦場の跡を示しています。

  

早乙女温泉があります。歩いていると硫黄の匂いがしてきます。残念ながら2月20日から機械の故障で休業中でした。

 

奥州街道古道 急な坂で長らく難所とされていた場所。1880年(明治13年)に迂回路ができ、使われなくなったが、旧道はそのまま残されています。

 

高塩背山の墓入口  代々喜連川神社の神職を務める家に生まれ。歌人を志し若山牧水と親交がありました。

 

 

勝善神の所から右折します。荒川沿いには桜並木があります。開花したらきれいでしょうね。

 

荒川に架かる連城橋を渡ると「喜連川(きつれがわ)宿」です。

喜連川という地名は、源平合戦で武功のあった塩谷氏、その後の足利氏と約800年にわたり中世から江戸時代まで続いた城下町宿場。町には荒川・内川・江川・岩川という四つの河川が南北を

貫流しているが「喜連川」という川はありません。この喜連川の地名の由来には諸説あり、その昔荒川が「狐川」と呼ばれていたのが変化したという説が有力だそうです。

昔 荒川の上流にキツネが住んでいたので荒川はキツネ川と呼ばれていましたが、キツネ川ではあまり格好良くないので、荒川・内川・江川が喜んで連なって流れているということで、

喜連川(キツレガワ)としたのではないかと言われています。

 

 

喜連川藩は、天正18年(1590)足利家の断絶を惜しんだ豊臣秀吉が古河公方(足利尊氏の次男基氏を祖とする鎌倉公方系統)5代足利義氏の娘と足利義明(古河公方4代足利高基の実弟)の

孫国朝を婚姻させる事で足利家を再興、喜連川領3千5百石の領主にしました。国朝はこれを機に喜連川氏を称し周辺を支配、関が原の合戦では東西どちら側にも兵を出さず中立を保ちましたが、

戦後すぐさま徳川家に使者を送り戦勝祝いを行った事で領地が安堵されます。徳川家は江戸幕府を開く際、朝廷から"源氏長者"(幕府を開く為、作為的に家系図や出生地などを改ざん説がある。)を賜った事で源氏の一族である喜連川家は保護対象となり、1千石の加増の上10万石の格式が与えられ、1万石以下にも関わらず例外的に喜連川藩を立藩しました。

慶安元年(1648)派閥争いから藩主喜連川尊信が幽閉される"喜連川騒動"が起こりましたが改易にはならず12代に渡り喜連川氏が藩主を勤め明治維新を迎えています。

又、明治元年(1868)に藩主聡氏は足利姓に復してその後子爵に列せられています。

 

龍光寺は、足利尊氏の開基で喜連川氏の菩提寺。墓所には歴代藩主の墓があります。

  

町の中に入ります。

 

喜連川宿は、喜連川藩の陣屋町として発展しました。藩主の喜連川氏は、足利尊氏の流れを汲む「古河公方」の為、幕府はその格式を認め参勤を免除しました。

天保14年(1843)の奥州道中宿村大概帳によると、喜連川宿の宿内家数は、290軒、うち、本陣1,脇本陣1,旅籠29軒で宿内人口は、1198人(男611人、女587人)でした。

喜連川宿本陣は、上野太郎平が勤め、問屋を兼ねました。現建物は、大正15年(1926)築の旧喜連川警察署です。

脇本陣は、現芳川屋で、永井家が勤めました。

 

 

 

福岡ではそんなになかったのですが、ここにきて私の花粉症が再発しました。ポケットティッシュがすぐなくなります。薬を持っていましたので休憩して飲みました。    (続く)

 


奥州街道➁1日目「白澤宿~氏家宿」約8km(栃木県宇都宮市~さくら市)

2022-04-11 17:07:53 | 奥州街道(奥州道中)

白澤の一里塚を過ぎ、鬼怒川に向かって歩きます。

 

鬼怒川河原には、「鬼怒川の渡し跡」があります。遺跡か何かあるのかな?と思いましたが、この案内板だけでした。あとで調べてみると、

栃木県史の白沢宿鬼怒川については、「鬼怒川は、平常は広い河原で、川幅30間(約54m)であるが、出水時は8町(約872m)にも及ぶ大河で、渡船があった。雪どけの増水期からの

夏期3月から10月まで渡船、11月から2月の冬の渇水期は板橋を架けた」と記されている。

 

鬼怒川というと、温泉のイメージがありますが、鬼怒川温泉は、日光の方です。ここからはちょっと遠いです。

鬼怒川に架かる「阿久津大橋」を渡ります。この橋には、歩道橋もなく橋の隅の方を歩きますが、車が勢いよく飛ばしていきますのでその風圧で飛ばされそうになります。

車のドライバーさんもこの橋を歩いて渡る人なんかいないとおもっているのでしょうか?

 

阿久津大橋の中間点が宇都宮市とさくら市の境界です。さくら市は、平成17年(2005)塩谷郡氏家町と喜連川町が合併して誕生しました。人口約44、000人。

シルビアシジミは、蝶のことです。てっきりシジミ貝かと思ってました。

 

鬼怒川を渡り「與作(よさく)稲荷神社」に向かいます。

三本松(現河内町・白澤)に流れ着いた稲荷社がここに移されました。村人、旅人、鬼怒川の船頭等が詣でると様々な霊験が現れ、奇瑞(きずい)がおこったといわれ、爆発的な稲荷信仰が

起きました。門前には稲荷町が出来て、参拝者の飲食遊興の場となりました。然し、河岸の衰退とともに霊感談も消え、境内も賑わいも遠い昔の物語になってしまいました。

  

船玉(魂)神社 徳川家康が江戸城に入部すると、領地である関八州諸国からの建築用材や食糧の輸送はもっぱら川船によった。幕府が開かれ、やがて参勤の制が布かれると、東奥の糧穀や

物産などは、阿久津まで陸送され、ここから川船で江戸に送られるようになり、さらに商用の荷駄も旅人もこれを利用するようになった。川船の発着所を「河岸」という
阿久津河岸は奥州街道の鬼怒川渡河点にあたり、最上流に位置するという地の利を得て、慶長以来、明治の中期まで水陸交通の要地として300年間の繁栄を続けた。
鬼怒川上流独特の川船を「小鵜飼船」といい、また、船頭たちが水上安全の守護神として河岸場にまつったのが、船のみたま・船玉(魂)大明神である。境内は船の形を模して作られたといわれ、

舳の位置に神殿がたてられており、一般の神社とは趣を異にしている。

 

浮島地蔵 鬼怒川沿岸の人達が恐れたのは、洪水や水死などの水難です。それを救済してもらおうと水神や地蔵などの民間信仰が生まれ、特にこの浮島地蔵が信仰されました。

どんな洪水にも流れず浮いてその地に留まり救済する霊力のあるのが浮島地蔵です。元文4年(1739)の造立。

  

将軍地蔵 源義家が奥州征伐に向かう途中、鬼怒川釜ヶ渕の悪蛇に進路を阻まれました。そこで宗円法師が念じると「将軍地蔵」が現れ、悪蛇を退散させてしまいましたので勝山城を守護する

寺院として将軍山地蔵院満願寺を建てました。

室町の頃、ここから日光山に修業にいったお坊さんが意地悪山伏に無理やり素麵を食べさせられて気絶しました。別のお坊さんが来て日光中の素麺を食べつくしたので山伏は降参しました。

お坊さんは、将軍地蔵の姿となり、お坊さんを連れて勝山に帰りました。これから「そうめん地蔵」伝説が生まれ日光責め・強飯式が起こったといわれています。

 

勝山城址から左折します。スーパーの横を通り国道4号線を横切ります。この国道歩道がありません。先の信号で車が止まっているのを見て走って渡りました。

 

お伊勢の森 伊勢神宮を勧請したもの。氏家の宿役人は、氏家以北37大名の参勤や公用役人等の送迎をここで行いました。

 

大谷街道と合流する地点に「道標」があります。道標には、「右 江戸海道」「左 水戸かさま 下だて 下づま」と刻まれています。

  

氏家宿に入ってきました。

勝山城が廃城になると禄を失った旧臣「平石佐渡守等三十六人衆」が宿形成に尽力しました。阿久津河岸の集積地で宿内には諸藩の蔵が並び、会津中街道、会津西街道、原方街道の要衝を

控え、大いに賑わいました。天保14年(1843)の奥州道中宿村大概帳によると、氏家宿の宿内家数は、235軒、うち本陣1(平石本陣)、脇本陣1(石井脇本陣、村上脇本陣)、旅籠35軒

宿場人口は、879人(男449人、女430人)でした。

 

 

時間も17時を過ぎました。氏家駅東口の信号から氏家駅に向かいます。

 

ちょうど17:24の宇都宮駅行きがありました。

 

3/28のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥州街道①1日目「宇都宮宿~白澤宿」約12km(栃木県宇都宮市)

2022-04-10 19:17:39 | 奥州街道(奥州道中)

4/2~3までふくしま吾妻荒川・花見山ツーデーマーチに参加しますが、その前に奥州街道「宇都宮宿~白河宿」まで歩きました。

奥州街道は、陸奥(みちのく)を貫き、津軽、蝦夷地函館に至るまでの日本一長大な街道でした。

古代、陸奥(むつ)は、「道の奥の国」と呼ばれ、今の青森、岩手、宮城、福島を包括する広大さでした。

徳川家康は「五街道」の整備に順次着手し、奥州道中は慶長7年(1602)から取り掛かりました。但し、五街道に制定された奥州街道の道筋は陸奥国白河迄でした。(ちゃんと歩ける奥州街道より)

その奥州街道を3/28から4日間の予定で歩こうと企画しました。

奥州街道は、宇都宮~白沢~氏家~喜連川~佐久山~大田原~鍋掛~越堀~芦野~白坂~白河までの10宿、約90km。

   

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【宇都宮宿~白沢宿】

3/28(月)博多を6時00分の新幹線に乗って一路宇都宮へ。宇都宮には12時ごろ到着しました。

ここ2,3日福岡はぽかぽか陽気で春を感じるのですが、宇都宮は、少し寒く感じます。桜の花もまだ開花してないそうです。(3/28現在)

荷物をホテルに預け、奥州街道のスタートです。

昨年の11月に奥州街道を宇都宮駅まで歩きましたので宇都宮駅から歩きます。

 

旧篠原家住宅

宇都宮を代表する旧家の一つである篠原家は、江戸時代(19世紀初めごろ)から奥州街道口の現在の場所で、しょうゆ醸造業や肥料商を営んでいました。
現在の建物は、1895年(明治28年)に建てられたものです。第二次世界大戦の戦火により、主屋と石蔵3棟を残して焼失してしまいましたが、明治時代の豪商の姿を今日に伝える貴重な建造物です。
国の重要文化財・宇都宮市の有形文化財の建造物に指定されています。

中に入ってみようかと思いましたが、今日は月曜日休館日でした。

八坂神社は、宇都宮城の鬼門除けとして康平6年(1063)創建されました。

  

東北新幹線のガード下を潜ります。潜った先右側の細い道が烏山城(現那須烏山市)があった「烏山道追分」です。

 

長屋門 明治27年(1894)築の岩淵家の長屋門。豪農でした。家の中を見てみると、「大谷石」で造られた蔵などがありました。

  

宝蓮院の北側には、立場(たてば)があり、トコロテンが名物でした。

注)立場(たてば)とは、宿場と宿場の間にあって、旅人や人足、駕籠かきなどが休息する場所。もともと杖などを立てて一休みしたのでその名が生じたといわれています。

 

岩曾の交差点の公民館の後ろに「首切り地蔵」があります。

宇都宮藩の刑場跡。根来衆はここで斬首されました。享保8年(1723)造立の「首切り地蔵」は根来塚(首塚)に安置されたものです。

注)根来衆事件:元和元年(1615)二代将軍秀忠の日光社参に先立ち、警護のため「鉄砲組根来同心百人衆」が宇都宮に派遣されました。宇都宮藩主本多正純は、一行に城普請を命じましたが、

お役違いと拒否したため全員を座bb種しました。「宇都宮釣り天井事件」の遠因になりました。

 

県道125号線を進みます。奥州街道は、白沢街道と呼ばれています。

  

遠くに雪を被った日光連山が見えてきます。男体山(2484m)、女峰山(2483m)、赤薙山(2010m)でしょうか?

  

稚児坂に差し掛かりました。1196年、鎌倉幕府から奥州総奉行の任命を受けた伊沢家景が、任地に向かう途中、この坂にさしかかったところで、
同行していた乳幼児の我が子を亡くしました。それ以来、この坂は「稚児坂」と呼ばれる様になりました。

稚児坂の中ほどには茶屋があったそうです。

 

稚児坂を下っていくと、白澤宿の入口です。江戸から30里(約120km)です。私の奥州街道歩きも120kmを越えようとしています。

 

白澤の地蔵堂は、伊沢家景が先ほどの稚児坂(王子製紙あたり)で鎌倉から東北に向かう途中子供が病気になり亡くなりました。そしてこの子をこの地に葬り地蔵堂と石塔を建てました。

この白澤の地蔵堂を含め白澤には、七福神があるそうです。

  

やけん(薬研)坂 この坂は、漢方の薬種をくだく舟形の器具(薬研)に坂の形が大変似ていることから「やけん坂」と呼ばれるようになりました。

mあた、慶長14年(1609)白澤宿として町割りができる以前から街道の道しるべとして夫婦の大きな榎があったそうです。

  

 

白澤宿の案内板がありますが、文字がかすれて読めません。同じ文章がネットでありましたのでここに引用します。

「江戸時代に整備された五街道の一つである奥州街道(道中)の第一宿としておかれたのが白澤宿でした。宇都宮で日光街道と分れて白澤宿から白河宿まで23里(約91km)が

十宿で構成されました。16世紀以前は純農村で我が宿のルーツは、関ケ原の戦いの序曲になった徳川家康の上杉攻めに遡ります。

すなわち、徳川家康が鬼怒川を渡る時、その案内役をかって出たのが、白澤村庄屋「宇加地家」と上岡本村庄屋「福田家」でした。

その功績が認められ、戦いの後、両村共同で白澤宿という往還宿を構成することが許され、慶長14年(1609)には、町割りを完成し両家は御用を勤め問屋になっています。

(本陣:宇加地家、脇本陣:福田家)天保14年(1813)には、本陣1,脇本陣1,旅籠13軒、家数71軒、人口369人(男179人、女190人)を数えていました。

宿場の名物は,鮎と牛蒡汁でした。

白澤宿は江戸から明治になって大いに栄えました。明治18年(1885)奥州街道が現在の国道4号線に移り、おかげで現在の宿場の面影を今にとどめています。

白澤宿がしのばれる由緒ある家並みを保存していくため村おこし事業を契期に用水路に鯉を放流し、環境美に努め、歴史を伝えていきたいと思います。

                                                      昭和62年2月吉日 白澤宿保存会」

 

各家々には、昔の屋号が付けられています。

 

 

 

 

宿場の角の所は、明治元年(1868)創業の下野地酒「澤姫」の蔵元「井上清吉商店」です。

 

 

西鬼怒川を渡った所に「白澤の一里塚」があります。もともとは、鬼怒川の河原にありましたが、度々の洪水で流されたそうです。

 

一里塚の横には、「開田之碑」と白澤の七福神の一つ「福禄寿」がありました。

 

次回は、鬼怒川を渡り氏家宿に入ります。

 

 

 


楽しいウォーク「宝満宮竈門神社参拝ウォーク」(福岡県太宰府市)

2022-04-09 15:54:27 | ふくおかウォーキング協会

4/6(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「宝満宮竈門神社参拝ウォーク」でした。

集合場所は、西鉄二日市駅。参加者47人でした。

コースは、西鉄二日市駅~御笠川沿い~梅大路~九州国立博物館~宝満宮竈門神社~太宰府天満宮ゴールの役10kmです。

9:30 西鉄二日市駅をスタート

 

太宰府市に入ります。

 

思川沿いの桜並木を歩きます。

 

トキワマンサク

 

 

最初の休憩がJA産直店の「ゆめ畑」。

 

 

九州国立博物館からは、上り坂になります。歩道には、石楠花が植えられています。

  

正面の山が「宝満山」です。

 

宝満宮竈門神社に着きました。

宝満宮竈門神社は、主祭神に玉依姫命(たまよりひめのみこと)をお祀りしていることから、魂(玉)と魂を引き寄せる・引き合わせる(依)という御神徳を慕われ、古くから「縁結びの神」として広く信仰されてきました。「縁結び」とは、男女の「良縁」をはじめ、家族、友人、仕事、自然などとの良いご縁を結んでいただける神様として広く親しまれています。
 
 また古くは、大宰府政庁の鬼門除けとして、また、大陸へ渡る人々がこれから進む航海(道)の安全と事業の成功を祈願したことから「方除け」、「厄除」の信仰も篤く、現代においても、

新たな生活をはじめる方や、人生の節目を迎えた方々などが参拝に訪れ真摯な祈りが捧げられています。(竈門神社HPより)

  

宝満山への登山は、境内の横から登ります。

  

しばらく休憩の後、再スタート。

  

今日6日は、大学の入学式が多いです。ここ九州情報大学でも入学式が行われています。

 

お石トンネルとお石茶屋

「お石茶屋とお石トンネル」を紹介します。

太宰府天満宮の本殿を通り抜け一番奥に「お石茶屋とお石トンネル」があります。

お石さんとは旧店主の名前です。「お石さんのお茶屋さん」ということですが説明いたします。

お石さんとは?

「お石さん」と呼ばれていたのは江崎イシさん。色白のべっぴんさんとして広く知られていた女性で、筑前三美人のひとりにも数えられたほどでした。

1899年 明治32年生~1976年 昭和51年5月14日、お石さんは76歳独身で他界。現店主はお石さんの姪の娘さんです。

お石さんは「おイシしゃん」と呼ばれていました。彼女の美貌と気風の良さは東京まで響いて多くの人がお石茶屋に立ち寄っています。

皇族の高松宮殿下、詩人の野口雨情、歌人の吉井勇、政治家の犬養毅・緒方竹虎、外交官の松岡洋右、「電力の鬼」と呼ばれた松永安左衛門等々・・・

佐藤栄作元首相も国鉄二日市駅駅長時代から大臣になっても度々訪れているそうです。さだまさしさんが「飛梅」という曲に「お石茶屋」を歌い込んでいます。

 ※さだまさしさん「太宰府天満宮 飛梅 さだまさし - Bing video

「お石トンネル」、正式には「宝満宮 参拝隧道」といい宝満宮とはここから宝満山方面に約2km進んだ場所にある竈門神社のことです。お石さんがこのトンネルの先の自宅から遠回りして

お店に通っていたので飯塚の炭鉱主麻生太吉(麻生太郎元首相の曽祖父)が見かねてトンネルを造ってくれたという話もあります。(大宰府魅力発見塾より引用)

 

お石茶屋の所が仮ゴール。

  

折角だから天満宮の方に行ってお詣りをします。

筆塚」 菅原道真公は、書道三聖と崇められ、書道の神様として信仰されました。筆塚は使い終えた自分の筆に感謝して納める場所です。

野見宿禰」 野見宿禰は、道真の祖先にあたり、我が国における相撲の祖神とされています。

  

「太宰府天満宮」

 

今日のGPSです。

 

 

 

 

 


ふくしま吾妻荒川・花見山ツーデーマーチ2日目「花見山コース」11km(福島市)

2022-04-08 12:35:28 | ウォーキング

4/3(日)「ふくしま吾妻荒川・花見山ツーデーマーチ」2日目

【花見山コース】11kmコース

本来ならば、22kmコースに参加したかったのですが、今日新幹線で福岡に帰りますが、東北新幹線は開通はしたのもの臨時ダイヤですので11kmコースにします。

今日も受付後随時スタートします。山形の歩友W様と一緒に歩きます。スタート時には、SNS友で大会スタッフのKさんと3人で記念写真を撮りました。

昨日の福島民友新聞に、花見山の開花状況が載っていました。桜は・・・・・まだのようです。

花見山の花に負けないよう私のリュックの後ろには、風車をつけています。8時少し前、山形のWさんと一緒にスタートします。

  

 

福島城址は、現在の福島県庁付近にあったそうです。

  

 

歩いていると遠くに花見山が見えてきます。

阿武隈川には、コハクチョウ?(オオハクチョウとコハクチョウの違いがわかりません)がいます。まだシベリアには帰ってないんですね。

  

渡利大橋を通り花見山へ向かいます。

  

花見山公園は、日本を代表する写真家 故 秋山庄太郎氏が「福島に桃源郷あり」と毎年訪れていた花の名所。ウメ、トウカイザクラ、ヒガンザクラ、ソメイヨシノ、レンギョウ、ボケ、ハナモモなど約70種類もの花々が、まさに百花繚乱のごとく一斉に咲き競う様は圧巻。頂上での吾妻連峰と花々のコントラストもおススメ。花木生産農家の方が、長い年月をかけて雑木林を開墾し、生活のために花を植えたのが始まりで、その美しさが人を呼び、「自然の花の美しさを一人で見るのはもったいない。 この喜びを万人のものとしたい」との願いから、昭和34 年に畑を一般開放し、今では国内外の観光客に親しまれています。(福島市観光ノートより)

 

桜の花がまだ開いていないのであまり期待はしていませんでしたが、他の花が主役の代わりをしています。

 

 

花見山で大津のOさんとお会いしました。Oさんとは、SNSでお名前だけ存じていました。

 

 

 

 

  

 

  

 

 

係りの方のお勧めの「花見山生け花の里」に行ってみます。生け花の里は、十数軒の花卉園芸農家が所有する約30haの山々で花見山に隣接しています。

ハイキング等が楽しめます。ハイキングコースは、30分、1時間、2時間、4時間コースとありますが、時間の関係で30分コースにしました。

 

ここでは、河津桜が見頃です。木につけられている札を見ると、何かの記念樹として植えられた木々があります。

 

 

展望台には、東日本大震災復興10周年記念として希望の鐘やハート形のオブジェがあります。

  

下山後、コースに戻ります。

 

大仏橋を渡り、ゴールに向かいます。

 

荷物の積み下ろしをする船着場を河岸(かし)と呼び、阿武隈川舟運の起点にあたる福島河岸は、福島城の西南に位置していました。幕府の年貢米を貯蔵する「御城米蔵」や福島藩・米沢藩の

「米蔵」などがありました。現在の御倉邸付近に福島河岸があり、今もその名残の船着場があります。

 

隈畔(わいはん)とは、阿武隈川河畔の略で明治時代から使われていたそうです。

洪水傷痕跡は、昭和61年(1986)、平成10年(1998)、平成14年(2002)の洪水の高さです。

 

 

【御倉邸】

幕末期から絹の集散地として栄えた福島市には、明治32年に東北で初めて日本銀行が設置されました。県庁南西の御倉町には、歴代の福島支店長が住んだ住宅があり、今は公園の一部として

一般公開しています。

 

11:25 ゴールしました。

今日は今から新幹線で博多まで帰ります。東北新幹線が臨時ダイヤですのでゴール後、駅に行き、時間を確認してきました。

12:36のやまびこで東京へ、東京から東海道・山陽新幹線で博多へ。約8時間の旅になります。

今週月曜日より奥州路の旅、あっという間の1週間でした。(後日、奥州街道 宇都宮~白河間をブログアップします)

 

 


ふくしま吾妻荒川・花見山ツーデーマーチ1日目22km「荒川コース」(福島県福島市)

2022-04-07 09:05:29 | ウォーキング

4/2~3まで福島市で行われる「ふくしま吾妻荒川・花見山ツーデーマーチ」に参加しました。

コロナの影響で2020年、2021年と中止になったため3年ぶりの開催です。また、先月16日福島地震(最大震度6)がおこり、開催を心配していましたが、無事開催されることに

なりました。私、今回で3回目の参加です。

  

【1日目荒川橋・民家園コース】22km

会場は福島駅東口・駅前広場。今回は、人数が事前予約で人数も500人と限定されています。

8:00受付終了後、随時スタートします。

  

駅前には、NHK朝ドラ「エール」の主人公「古関裕司」さんの像があります。前回参加したときは、駅前に古関裕司ご夫妻を朝ドラにという幟が立っていましたが、それが2020年前期の

朝ドラ「エール」になりました。私も毎日見ていました。

 

荒川に架かる吾妻橋を渡ります。ここからは、吾妻連峰の山々を見ることができます。

 

地震で不通になった東北新幹線「郡山~福島」間も今日開通しました。福島から仙台方面は今月末頃開通だそうです。

吾妻小富士(1707m)、北東斜面に現れるのは「雪うさぎ」と通称される種まきうさぎ。雪解けとともにウサギの形に雪渓が残り、農業開始の指針とされてきたことから種まきうさぎとして

親しまれています。ちなみに福島県観光マスコットキャラクターのももりんは、この種まき雪うさぎが元になっています。

 

 

 

荒川桜づつみ公園にやってきました。

 

まだ蕾です。あと1週間ぐらいで開花かな?2013年に参加したときは、4/10頃だったか、桜が満開でした。(右下の写真)

桜が満開ですと花見客がたくさん来られるのですが、今日はほとんど見かけません。

 

 

仁井田橋の所が11kと22k、33kの分岐点。11kコースは、仁井田橋を渡ります。22,33kは、道路の下を潜っていきます。

 

 

荒川橋の所が22kと33kの分岐点。22kは、荒川橋を渡ります。

  

荒川橋を渡り、民家園に向かいます。民家園は、110,000㎡の園内には、江戸中期から明治時代にかけての県北地方の民家を中心に梁川村(現伊達市)の芝居小屋、福島市内の商人宿、料亭、

板倉、会津地方の民家等を移築復原し、庭や畑と共に当時の環境を再現しています。

 

 

 

 

 

  

民家園を出たところが、チェックポイントです。ここで33kコースと合流します。

 

日の倉橋手前から荒川沿いに歩きます。対岸側です。

 

 

歩いているとリンゴの枝を剪定しています。福島もリンゴの産地です。

 

吾妻学習センターが2回目のチェックポイント。確か2013年の大会でもここがチェックポイントだったと思います。

 

野田緑地を通りゴールの福島駅東口に向かいます。野田緑地には、ハクモクレン、コブシなどの木々が花を咲かせています。

  

野田緑地から県道70号線に出ます。高湯街道は福島市と高湯温泉を結んでいます。

  

福島駅西口には、今年3月の大相撲春場所で優勝した福島市出身の「若隆景」の幟がかけられています。

  

西口の地下道を通りゴールの東口へ。

13:00 ゴールしました。

  

1日目22kmのGPS。右は、4/2 の福島民友新聞より。

 

このあと、福島電鉄の電車に乗り、「飯坂温泉」に向かいました。

 

飯坂温泉は、奥羽(東北)地方有数の古湯であり、古くは「鯖湖の湯」と呼ばれました。鳴子・秋保とともに奥州三名湯に数えられ、2世紀頃には日本武尊が東征の折に、元禄2年(1689年)には

俳聖 松尾芭蕉が奥の細道の途中に立ち寄ったとされる歴史ある温泉地です。

 

旅館の日帰り温泉を利用し最上階の展望風呂に行きました。湯舟は2つあり、一つは熱湯、もう一つは42度ぐらいかな?

42度に入り、あつい方のお風呂に入ろうとしましたが、足をつけただけですが、とても熱くて私には入れませんでした。