よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

薩摩街道(豊前街道)4日目(その1)「瀬高(福岡県みやま市)~南関(熊本県玉名郡)」

2021-06-10 11:29:20 | 薩摩街道(豊前街道)

6/6(日)自宅から車で来て、瀬高駅に駐車後、薩摩街道(豊前街道)を歩きます。今日は熊本県玉名郡南関まで予定しています。

7:50 瀬高駅スタート。

上小川の信号辺りに「二里石」があるそうですが、見つけられませんでした。二里石は、柳河城から二里(約8km)の地点ということです。

 

満福寺より旧道に向かいます。民家の庭先には、山法師と煙の木が綺麗に咲いていました。

どこからともなく、鶏の声が聞こえてきます。見ると、大きなこれは、シャモでしょうか、見事な色をした鶏が鳴いていました。

  

先を歩くと、このあたりに「松延城址」があると書いてます。近くの人に聞くと竹林あたりが松延城址だと教えてくれました。

松延城址は、築城は天正7(1579)年、山下(八女郡立花町)城主・蒲池志摩守鑑広に属した樺島式部によると云われている。肥前(現、佐賀県・長崎県)の龍造寺家に対する備えとしての

役目を担い、天正15(1587)年に立花宗茂が柳河城(柳川市)に入ると、重臣・立花三郎右衛門が城代となった。

慶長6(1601)年、関ヶ原の合戦に際し、立花家は西軍に与したため改易となり、代わって田中吉政が筑後一円の領主として入封した。この時、当城には家老・松野主馬が1万2千石を賜って

入城したが、元和元(1615)年、徳川幕府の一国一城令により廃城となった。

近くには、樺島という表札の家があります、樺島式部の末裔の方でしょうか?

 

九州新幹線のガード下を潜ります。

 

大根川橋の手前を左折。

 

面ノ坂です。両側は竹林や小高い山に囲まれています。江戸初期柳川田中藩主の時、肥後の赤腹村の立花宗茂の正室・闇千代姫に米や金品を隠れて送った罪で松延村の大庄屋樺島式部と

嫡男彦左衛門などを磔の刑に処した所です。坂を下ると祖霊廟やお墓が立っています。

  

国道との合流地点に三里石があるそうですが、また見つけることが出来ませんでした。

歩いていると御座敷梅林の看板が飛び込んできます。2年ほど前の2月に御座敷梅林を訪ねたことがあります。御座敷一面に梅の花がありそれは壮観でした。

  

このあたりが「野町赤坂」です。ここには、「野町追分石」がありました。また、地元の人に聞くと、この地「赤坂」は、源平合戦の時、流れた赤い血の坂が「赤坂」となったそうです。

  

歩いていると通りに鳥居が2本並んだ神社があります。一つは「天満宮」もう一つは「祇園宮」です。多分祇園宮の鳥居があとで建てられたと思いますが、二つの鳥居が並んでいるのは

珍しいです。

お牧山案内図」という看板があります。お牧山というのは、みやま市最高峰(標高405m)。天和3(1683)年、柳河藩3代藩主立花鑑虎が、母の郷里仙台から種馬を取り寄せ、軍馬、農馬を

育成する牧場を開いたことから御牧山といわれています。市内を一望できる山頂からの展望は抜群で、阿蘇山や筑紫平野、佐賀平野、背振連峰、有明海、雲仙普賢岳と360度のパノラマが

楽しめます。山頂にある「お牧山公園」では夏になるとキャンプが楽しめるほか、正月は初日の出スポットとして多くの人が訪れます。(みやま市観光案内より)

立ち寄ってみようかと思いましたが、ここからでは結構な距離がありますのでパスしました。尚、ここから高速道山川PAバス停に行けます。

 

JAみなみ筑後の所には、大きな「山川みかん」のオブジェがあります。山川みかんは、みやま市山川の特産品です。皮が薄く甘くておいしいとの評判です。

ちょうど、この時間JAみなみ筑後内で朝市が行われていました。総菜コーナー、甘夏、肥後グリーン(メロン)などが売ってます。見ると肥後グリーンが1個@400です。

リュックが重くなるのはわかっていてもついつい買ってしましました。店主からは、山川みかんをいただきました。  

  

山川みかんのオブジェの横に「平家の塔」があります。「要川の合戦」に敗れて亡くなった平家方の人々を弔うために、里人が建立した塔です。

  

 

みやま市役所山川支所から少し歩いたところに「日当川地蔵」があります。案内板を見ると、「戦国時代(1579)肥後領内で一つの領地を巡り隣接する隈府(わいふ)城主赤星氏と隈部氏の間で

争いが起り、肥前の龍造寺氏と結んだ隈部氏が勝利した為、赤星統家(むねいえ)は、長男新太郎を龍造寺氏のもとへ人質に出し和睦した。その後、赤星に対して肥前の龍造寺氏のもとに

伺候するよう再三呼び出すがそれに全く従わない赤星に対し最後の使者を隈府に出す。然し生憎城主統家は、留守であった為、使者は、そこに居合わせた長女の安姫を城主の代理として

肥前に連れ去った。そして龍造寺氏の意にあくまで叛く赤星に対し、これでは示しがつかないと日当川の河原で人質の新太郎14歳、安姫8歳それにお供の者12名の計14名をたく殺(はりつけ)

という残虐極まりない処刑を見せしめの為下知したのである。その折、新太郎は次の辞世の歌を詠んでいる。

「わが面て 西にな向いそ 赤星の 親に後ろを 見せじと思へば」そのことがあってこの地の里人達は、他国の地で無念の死を遂げた幼い二人の霊を供養するためここに地蔵尊を祀った。」

桜舞館小学校は、平成28年(2016)山川東部、山川南部、飯江、竹海の4小学校が統合してできた小学校です。ネーミングがいいですね。

  

郡境石 隈府(わいふ)とは、現在の熊本県菊池市。以前は隈部と呼ばれていましたが、隈部の府ということで略して「隈府」となりました。

原町お茶屋跡 原町には、お茶屋と宿駅(馬継所)が置かれていました。現在の原町郵便局あたりがお茶屋でした。

 

郵便局の隣には、「原町の観音さん」(大悲山甲山寺多福院)があります。ちょっと読みにくいが、説明文を見ると、

元禄7年(1693)清水寺(みやま市瀬高町)の隆尚法印によって建立され本尊は千手観音と馬頭観音を祀る。

原町は薩摩街道の宿場町として栄え、今の原町郵便局あたりに、お茶の接待をした「お茶屋」があり多くの人が往来していた。

毎年旧暦8月17日18日の2日間は、観音様の縁日で賑わった。 町の両側は色々な出店や催し物が並んだ。 中でも遠目がねと言う珍しい時代ばやしの歌入りもので男女二人が掛け合いに

竹ムチに手拍子を合わせ今の紙芝居のような事が催され、それが非常に面白く見物人が多かった。

「買うてくれんの十七夜」という珍しい風習があった。 土地の娘子は参詣に来た男達に「買うてくれんの」と言って腕にすがる。 男達はその十七夜のために働き貯蓄をし、

観音様を参詣したといわれる。 娘達は縁日が終わる頃、お互いに、買ってもらった品々を見せあい自慢するという娘子達にとって一年中で一番の楽しみであった。

誠に奇な風習であって他郷に類例のないということである。肥後・肥前からも参詣が多く大変賑わったということである。

西楽寺」は、江戸後期の文化9年(1812)街道の測量の為この地を訪れていた「伊能忠敬一行」が宿泊したお寺です。

  

要川(かなめがわ)古戦場跡 (源平最後の古戦場跡) 要川は、飯江川と待居川の合流地点です。

要川は源平最後の激戦地としての伝承がある。文治元(1185)年3月、平家栄華の夢破れて壇の浦で敗れ生き残って九州に落ちのびてきた平家一門は、やっと太宰府に逃れる。

だが源氏の追討の手ににあい南へ南へと遁れ、久留米の竹井城主草野永経(ながつね)を頼ったが相手にされず筑後の山門本吉山にある清水寺に加勢を求めた。船小屋の北方尾島においても

源氏の大群と戦ったが敗れ去った。九郎原から中山上庄下庄吉井の里から清水、そして野原庄へと逃れた。小桜威の鎧(よろい)も無惨に引き裂かれ、弓弦は切れ矢はすでに尽き果てて、

ついに狩道(かりじ)の駅(山川町尾野)に着いた。
そして天台宗である
清水寺の僧兵数千人と近郊の法師土豪の力添えを得た平家軍は、ここ山川の地を最後の戦いの場と決め、要川周辺に背水の陣を敷き源氏軍の追撃を持った。

しかし、琴平山の見張台、大物見から源氏の軍兵を待ち受ける平家武将が見つめていたものは、時の運に見放された平家一門の歩んできた道ではなかったか。 
そして、平家は押し寄せる源氏の大群の前に勝つ術もなく、
中原の戦いで決定的な敗北を喫した。斬殺された者の血で草も木も朱に染まり、川面も血の色に濁り流れたというところから、

血波川とも名がつけられた要川である。
 清水寺など平家に味方した寺社は源氏軍の豊後の武将緒方三郎に建物を焼き払われた。矢つき、刀折れ、生き残ったものもわずか。ある者は山や谷に逃れ、ある者は南を指して逃れ行き、

散々に落ちていったと言われている。平家の姫君たちは、もはや逃げることも叶わず四方を断崖に囲まれた中原の奥深くの森に分け入り、今を限りと瀧に身を投じた。

また捕らえられた平家の武将たちは、各地で首をはねられた。松風ノ関平家台中原平家の塔湯谷平家墓小萩平家墓現人神さては中原七霊宮等激戦の様相を残している

                                                               (みやま市山川町歴史散歩より抜粋)

尚、近辺には、「坂梨」の名字が多く、一説には平家一門の末裔がその“平”を隠すため、坂梨(坂がない)としたとも伝えられています。

現在、要川は、公園として整備されています。

 

物見塚は、要川最後の決戦の時、平家軍の物見の指揮所跡です。ここからは要川を眼下に遠く野町、飯江方面を一望できます。

  

山川町では、毎年3月ごろ「平家祭り」が行われています。                                  

 

(その2)に続く

 


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