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順序がバラバラになっていますが、12/7(木)、ふくおかウォーキング協会優しいウォークは「渡り鳥とコウノトリ観察ウォーク」でした。
小郡市には、コウノトリが毎年何羽か飛来してくるそうです。そのコウノトリを見に行こうというウォーキングです。
コウノトリは赤ちゃんを運んでくると伝えられていますが、若しコウノトリが赤ちゃんを運んで来たら赤ちゃんが20歳になると私はいくつになるのかな????
この歳でコウノトリはないですよね。(笑)
9:30西鉄小郡駅スタート
小郡市役所横の公園には、「大原古戦場」の碑が建っています。
「大保原合戦」(大原合戦ともいう)は、北朝側の筑前・少弐氏、豊前・大友氏と南朝側の懐良親王(かねよししんのう)、肥後(ひご)・菊池氏が、正平14年(1359 年)7月下旬から
8月上旬にかけて繰り広げた戦いです。当時九州の政治の中心であった「大宰府」(だざいふ)は北朝側が支配しており、南朝側はこれを奪うことで九州での勢力を拡大したいと考えて
いました。大保原合戦はこの大宰府をめぐる戦いです。筑後川をはさんで、南岸には親王・菊池勢が、北岸には少弐・大友勢が互いに軍を並べてのにらみ合いから始まり、戦いは現在の
小郡・大保・山隈を中心に、両軍合わせて約10万人の大軍勢で展開しました。
小郡市の近くの大刀洗町は、南北朝で兵が刀を洗ったことからその地名になったそうです。
甘木鉄道の高架下を歩きます。
農家の野菜無人販売所があります。どれも100円! どこかのTVCMを引用すると「安い! うれしい」かな?
ふれあい磐戸公園で休憩
休憩後再スタート。
大添堤に来ました。ここに野鳥が飛来するそうです。コウノトリは・・・・・???
今日はコウノトリはいなく、代わりに絶滅危惧種の「クロツラヘラサギ」が20羽ほどいました。
大添堤の横には、「稲次因幡公墓」の碑が建っています。墓は、霊鷺(りゅうじょう)寺にあります。
稲次因幡正誠は、享保13年(1728)8月、生葉、竹野、山本、三郡の農民は藩の重税に堪えず、減税運動の一揆を起こした。 総勢5700余人が凶器を持ち、善導寺に集まり御井町まで押寄せた。
27才の若年家老、稲次因幡正誠は単身主謀者と会見して、
- 農民の要求に応ずる。
- 以後の税は一割一歩減税。
- 主謀者の処刑はしない。
という約束の下に解散させて農民の苦しみを救った。 喜んだのは農民だったが、 家老仲間の不満、藩公の怒りは後年藩主襲封の問題とからんで津古の庄屋斉田氏宅に幽閉させられ3000石の
家老から10人扶持の士となり、2年後没した。享年35歳。罪ある身だったので、この墓地に葬った。 後年、久留米に五穀神社が建立されるにあたり、公の霊を合祀して永く農民の神として
仰ぐことにした。
松崎宿にやってきました。コロナ禍でウォーキング大会などが中止になっている2020年、私は個人で、薩摩街道を歩いたとき、松崎宿を歩きました。
薩摩街道を歩いた時の写真も掲載しています。
「松崎宿」は、有馬豊範が御原郡19ヶ村1万石の分知を受け、 寛文9年-12年(1669-72)に郡内の「鶴崎」の地に居城を築き(現在の三井高校)、 名を「松崎」と改めたことに由来する。
松崎藩の設置に伴って、北は山家宿、南は府中宿に至る街道筋が天下道(参勤交代道)と定められ、 城下町である松崎の地が宿場町として整備されていった。
貞享元年(1684)に松崎藩は改易され、 最終的には久留米藩の所領に戻るが、 その後も参勤交代道路として九州の主だった大名がここを通り、 筑後地域における重要な宿場町として繁栄して
いったのである。
慶応2年(1866)の古文書によれば、 松崎宿の総戸数は129軒で、旅籠が26軒、煮売屋が6軒あったという。 旅籠以外には、藩主や大名を休泊させる御茶屋を設け、 また駅伝(問屋)では物資の
運搬にあたった。宿場町の運営には庄屋・町別当が主にあたり、 必要があれば問屋、町年寄、組頭らが加わった寄り合いによって合議決定されたという。(お寺巡りの友より引用)
旅籠「油屋」には、西郷隆盛も宿泊したそうです。
松崎宿北搆口です。
松崎宿北搆口からゴールの甘木鉄道松崎駅へ。
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