(その1)からの続きです。
光行寺、官軍墓地から先を進むと、また坂道です。ここが豊前街道屈指の難所「腹切坂」です。何か物騒な名前ですね。
資料によると、永ノ原台地(西南の役古戦場)へ向かう約200mのこの坂を腹切坂という。道幅3mの右側は深い浸蝕谷となり、左側は急崖となっている。
腹切坂の名は、すでに慶安4年(1651)の「御帳之扣(ひかえ)」に見える。「小倉路」にも参勤交代の道中、屈指の難所とされた所である。
この坂道も戦後迂回道路の新設(昭和45年)に伴い、地域住民の生活としての使命を終えた。
どうしてこの名になったかは、
【腹切り坂の話】◆その1
約800年前、源氏と平氏とが天下を分けて戦ったが、平氏は壇ノ浦で敗れて、大方は討ち死にし、残った者は落ち武者となって、散り散りに九州の各地を逃げ惑っていた。
しかし、源氏の追討は厳しく、草の根を分けてでも平氏の落ち武者狩りを断行したため、平氏の多くは各地を逃げまどう途中で討たれたり、あるいは病に倒れたりした。 ある日、野を越え、
山を越えて逃げ延びた落ち武者の一団が、この険しい坂道に差しかかった際、風にそよぐ木の葉の音にも、すわ源氏の追討かと驚き恐れ、心身共に疲れきって、重い足を引きずりながら
登っていく。 一行の中に、矢傷を負い家来の肩を借りながらここまで歩いてきた武将がいた。坂の途中で一同を止め、「もうこれにて余が武運は尽きた。一足先に今度の戦いで散った
一族のいる黄泉(よみ)とやらに行かせてもらう。皆は達者にて生き延びてくれ。」と言い、遥か壇ノ浦とおぼしき方角を伏し拝み、西方浄土への来迎にあずからんと、西に向かって念仏を唱え、
見事腹を切って果てたという。 この痛ましい武将の名は残念ながら残っていないが、村人たちはここを「腹切り坂」と呼ぶようになった。
【腹切り坂の話】◆その2
昔、ある飛脚は、その日のうちに熊本の細川家に届けなければならない江戸からの大事な書状を預かっていた。彼は南の関で食べた物が悪かったのか、腹が痛くなり、何回も道端で
用を足しながら、きりきり痛む腹を押さえ、岩村から永ノ原に登る坂道にようやく差しかかった時は、足はふらふらで脂汗を垂らしながら、意識は朦朧(もうろう)としており、
這うようにして坂の途中までたどり着いたが、性も根も尽き果て地面に倒れ込んでしまった。 そこへ野良帰りの農夫が通りかかったので、飛脚は、「ここから頂上まではどのくらいあろうか。」
と尋ねたところ、農夫は、そこがちょうど坂の中間付近であったので、「貴方がこれまで来た道程はありましょう。」と答えた。飛脚は江戸から300里の道を駆けて来たことをそのまま
受け止めたために、勘違いして大変なショックを受けた。 そのとき、岩村の光行寺で打ち鳴らす入僧の鐘がいんいんと聞こえてきて、もはや今日中にこの書状を熊本まで届けることが
絶望となったことを悟った飛脚は、農夫から鎌を借りるやいなや自分の腹を切って死んだという。
【地質の話】◆その3
広い台地(原)の端(切り)にあたることから「腹切坂」と呼ぶようになった。
果たして真相はどちらでしょう?
この坂、本当に急です。少し歩いては立ち止まり、歩いては立ち止まりそれを何回も繰り返して何とか、この坂を越えることができました。
永ノ原付近は、田原坂の戦いと同じく、明治10年3月の西南の役時、薩摩郡と政府軍が死力を尽くした「山鹿口の戦い」でした。多くの官軍墓地がある中で、ここには、唯一戦死した薩軍の
兵士を森の周辺に埋葬した場所があります。西南戦争 - Wikipedia
説明文によれば、明治10年(1877)に起こった西南の役において田原坂と並ぶ激戦が繰り広げられたのが、山鹿市と和水町にまたがるここ永ノ原台地である。
2月14日別府晋介率いる薩軍先発隊が鹿児島を出陣し、翌日から約1万3千の大軍がこれに続いた。これに対し政府軍は、熊本鎮台小倉分営の他、東京・大阪・広島鎮台などから兵を派遣し、
24日には、山鹿市津留の正円寺に本陣を構えた。翌25日には、薩軍の桐野利秋四番隊長・熊本協同隊・宮崎飫肥隊が山鹿に進み本陣を設けた。
戦いはひと月近く続いた。途中、田原坂敗退の誤報により、薩軍は、一旦山鹿迄引き上げたものの薩軍有利のうちに進んでいった。然し、3月10日に三浦悟楼少将が三固隊を率いて、
岩村に入ると、兵力は薩軍を上回るようになった。その後も一進一退で戦いは続いたが、3月20日に田原坂が陥落すると、官軍の勢いは増し、翌21日の官軍総攻撃により薩軍は敗れ、
山鹿より後退していった。
ハゼ並木は、ロウソクの原料となるハゼの実を生産するため、肥後細川藩がハゼ栽培に乗り出した18世紀半ば頃に植えられたものです。樹齢250年のものもあります。
ハゼ並木を進むと、山鹿郡と玉名郡との「郡境碑」が建っています。ちょっとわかりにくいですが、「従是西北玉名郡」と書いてます。
ここから梅迫バス停までは、昔、「車返しの坂」(車坂)と呼んでいたそうです。荷車が戻るほどの急な坂道でした。現在では、改良されたのか、そんなに急ではありませんでした。
梅迫バス停で国道443号線と合流します。
七里木跡を過ぎ、山鹿市サイクリングターミナルに着きました。サイクリングセンターの前には、「追分石」があります。
右「南関道」、左「国道兼松」。兼松というのは、現在の福岡県八女市立花町兼松です。
山鹿市や菊池市を始め菊池川流域には、5世紀~6世紀にかけての古墳遺跡が多く残っています。この「石人」は、山鹿市にある「チブサン古墳」にある石人です。古墳を守っています。
いつか、この古墳を見にいってみたいですね。
鍋田横穴群は、古墳時代後期(6世紀)、熊本県北部を流れる菊池川の支流の岩野川に沿った崖面に作られた群集墓です。その崖面には阿蘇大噴火の火砕流でできた岩(阿蘇凝結熔解岩)が
露頭した場所があり、古墳時代の人々はここに横方向の穴を掘って、お墓としました。鍋田第27号横穴墓の左外壁には、人物、弓、盾、馬、靫(ゆぎ;矢の入れ物)などが浮き彫りされています。
山鹿市内では、このほか長岩横穴群や城横穴群など多数の横穴群が点在していますが、鍋田横穴群はわが国の装飾横穴の代表格と言えます。
15:50 山鹿市中心部にやってきました。ちょっと空模様がおかしくなってきましたので山鹿市内の観光は、また次回にしたいと思います。
今日は、GPSを忘れてきましたので携帯のヤマップを使いましたが、充電切れで使えませんでした。別の携帯のアプリです。