6/23(木) 3ケ月ぶりの東海道歩きの再開です。
宿舎の四日市から関西本線亀山へ。亀山から加茂行に乗り換えて前回ゴール地「関宿」に9:11到着しました。
昨晩からの雨は、まだ止まずカッパを着てのウオーキングです。
先ずは、延命寺へ。延命寺の山門は、川北本陣の門を移築したものです。
川北本陣は、関宿に2つあった本陣の一つで慶長(1596~1615)の頃から明治3年(1870)に廃止されるまで代々本陣を勤めました。
一門一戸の薬医門で彫刻の形式から17世紀後期の建築とみられています。
延命寺の横の方が、「関神社」です。
なし得る限度、精一杯などの意味でつかわれる「関の山」は、夏に行われる関神社の祭礼で町内を練り歩く山車が語源と言われています。
絢爛豪華な山車が町内の街道をいっぱいにふさぎ、これ以上通るに通れない様子を表現し、この言葉が生まれたとのこと。また、山車がとても豪華で、
これ以上の贅沢は出来ないと言われたことからきたという説も。いずれにせよ、現在も残る4台の山車は、毎年“関宿夏まつり”で盛大に町を練り歩き、祭りを華麗に彩 っています。
今年も7月16、17日に行われるそうです。
「御馳走場」というのがあります。御馳走というと、昔、ここに美味しい料理屋さんがあったのかな?と思いますが、実際は、「宿場に出入りする大名行列の一行を
村役人が出迎えたり、見送ったりした場所」です。wikipediaで調べてみると、「馳走(ちそう)」とは、元来、「走りまわる」「馬を駆って走らせる」「奔走(ほんそう)する」ことを意味する。
古くは『史記』(項羽本紀)にもみられる語である。これが日本にはいったのち、(世話をするためにかけまわるので)世話をすること、面倒をみることといった意味が生まれた。
さらに、用意するためにかけまわることから、心をこめた(食事の)もてなしや、そのためのおいしい食物といった意味が、中世末から近世始めにかけて生まれた。
現代で使われる「御馳走」は、このような意味があったのですね。
東の追分にやってきました。ここには、大きな鳥居が建っています。
関宿の東の入口にあたる東追分は、東海道と伊勢別街道の分岐点です。大鳥居は、伊勢神宮を遥拝するためのもので、20年に一度の伊勢神宮式年遷宮の際、
内宮宇治橋南詰の鳥居が移されてきます。
注)伊勢別街道・・・・・・伊勢別街道は、関宿東追分から津市芸濃町椋本(むくもと)、津市一身田(いっしんでん)を通り、伊勢街道と合流する江戸橋までの総距離およそ四里二六町の街道です。
日本の政治の中心が大和にあった頃には、大和から伊賀を通って伊勢に至る主要ルートでもありました。また、一般の参宮道者も通ったとされる古くからの歴史ある街道です。
追分の横には、「関の小萬のもたれ松」がありました。
案内板によると、「江戸も中期、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は、良人(おっと)の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿。一女小萬を産んだ後、病没した。
小萬は、母の遺言により、成長して三年後、亀山城下で武術を修業し、天明3年(1783)見事仇敵軍太夫を討つことができた。
この場所には、当時亀山通いの小萬が若者の戯れを避けるために、姿を隠してもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」と呼ばれるようになった。」
関の小萬は、長唄や歌舞伎の題目にもなっています。やはり東海道は当時日本の主要幹線道、すぐ全国に広まって行ったのでしょうね。
朝から降っていた雨も上がり、近くの公園でカッパを脱ぎます。街道は1号線と合流し、歩道橋の所から右折します。
街道は、鈴鹿川に沿って続いています。高速道を渡るとトンネルの中に東海道の浮世絵のイラストが描かれていました。
神辺小学校の所に「太岡寺畷」という案内板がありました。畷(なわて)というのは、まっすぐな長い道のことです。
太岡寺畷は、東海道が約3,5kmに渡って鈴鹿川の堤の上を通り、東海道の畷道では、随一の長さとされています。この畷には、松並木があったそうですが、枯れてそのあとに
桜を植え、今では見事な桜並木になっているそうです。太岡寺の地名は、かつてこの地にあった大寺である「六門山四王院太岡寺」に由来すると伝えられています。
余談ですが、ここからシャープ亀山工場は、直線距離で約2kmです。
1号線の高架橋を渡ると「布気町(ふけちょう)」に入ります。
歩いていると、近くの方が声を掛けてくれました。やはりリュックの後ろに「風車」を付けているから目立つのでしょうね。(笑)
その方は、観音坂まで案内してくれました。観音坂というと、観音様があるのかな?と探すと「昼寝観音」というのがありました。
昼寝観音とは、面白い名前ですので調べてみると、「布気町落針の観音さんは、奈良東大寺の大仏を建てなおすお金を全国から集めている時に、石山観音から運ばれてきたそうです。
各地の観音様が集まって西日本で観音様を巡って御参りする33か所のお寺を決める会議が開かれた時、落針の観音様は、昼寝をして会議に行かなかったので
33のお寺に選ばれなかったそうです。(亀山こども歴史館より)
布気皇館太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)があります。由緒 延喜式神名帳には、垂仁天皇一八年鈴鹿郡布気神社と見えている。 昔、旧野村字に布気林という所かあり、
そこに奉斎してあったことから布気神社と称えたのであるが、 文明(一四六九‐八六)の頃に起った兵乱のため、社殿悉く焼失したため、後に皇舘の森へ奉遷したと伝えられている。
皇舘の森の皇舘とは、垂仁天皇の御宇、天照大御神が忍山に御遷幸の折、大比占命が神田・神戸を献じ給うたことに由来する地名であり、 野尻、落針、大岡寺、山下、木下、小野、鷲山の
七ケ村を神戸郷と言い皇舘太神社を総社と仰ぎ、平素の尊崇は論を俟たず、 大祭の奉仕に専念、殊に早魃の時には郷民こぞって参籠して祈ったということである。
いろいろな名で親しまれたが、 亨保八年(一七二三)に、吉田家から皇舘大神の神号を受け、布気神社皇舘大神となったが、明治四一年六月より現在の社名となった。
明治四一年、近郷近在の小社・小祠を合祀して今回の神社になった。倭姫が立ち寄ったとも言われている
確か布気皇館太神社の近くに「能古茶屋跡」というのがあるのですが、探しても見つかりません。多分神社の前のこの家かな?
「大庄屋 打田権四郎昌克邸跡」があります。打田家は江戸初期に近江国からも野尻村に来て土着し本多家の代官を勤めその後の城主からは本庄屋に任ぜられた。
この北に屋敷があった。権四郎昌克は17代当主で寛永19年(1642)に生まれ、大庄屋在任中亀山藩領86ヶ村を中心にした見聞記「九々五集」9巻(13冊)別巻などを記録し編纂した。
享保16年(1732)1月25日に没した。菩提寺の帰郷院善性寺に墓がある。
歩いていると珍しい建物がありました。3階建てでレストランだそうです。また、タートルヒル(亀山)と英語表記のマンションがありました。
野村の一里塚 三重県には旧東海道に沿って、12ヶ所に一里塚が設置されていましたが、現存するのはこの野村一里塚のみとなっています。また、もともとは道の両側にありましたが、
現在は北側だけが残っている状態で、昭和9年1月に国の指定文化財となりました。塚の上には、歴史を見守り続けてきた樹齢400年の椋の巨木がそびえ立っています。
忍山(おしやま)神社 忍山神社は、延喜式その名が記される延喜式内社で、もとは愛宕山(押田山)にあったとされます。明治41年(1908)野村地区にあった能牟良神社などを
合祀して現在地を 忍山神社としました。
垂仁天皇の命を受け皇祖神をまつる適地を探す旅に出た倭姫命(ヤマトヒメノミコト)がその途上で滞在した「鈴鹿小山宮」が後の忍山神社に」なったとされます。
又、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の妃となった弟橘媛(オトタチバナヒメ)は、忍山神社の祀官である忍山宿禰(オシヤマノスクネ)の娘であるとの伝承があります。
弟橘媛は、日本武尊と共に東国へ赴きますが、三浦半島へ渡る海路(水の神)で荒れ狂う海を鎮めるため自ら海中に身を投じてタケルを助けました。
弟橘媛の死を悼んだタケルは、東国を離れる際に「吾妻(わがつま)はや」と嘆き、このことから関東地方のことを「吾妻」と呼ぶようになったといわれています。
交差点の所に焼肉長治郎があります。ここは、内池家主屋で「明治天皇御召替所跡」です。
明治13年5月明治天皇は、東京から山梨を行幸され、続いて三重県で伊勢の内宮と外宮を参拝されました。東京へ帰る途中、高田山専修寺や鈴鹿郡亀山を行幸されました。
亀山では、陸軍の大坂鎮台のありのままの様子を見分する為、野村の高平で5月11日、12日に勢揃いを御覧になりました。その折、当家でお休みになられたそうです。
「慈恩寺」:奈良時代に、聖武天皇の勅願により僧行基が開き、忍山神宮の神宮寺として創建されたと伝えられている古刹。往時には七堂伽藍がありましたが、たび重なる兵火で焼失しました。
災禍を逃れた本尊は、当初、薬師如来であったものが改作されたという阿弥陀如来立像。高さ163cmの一木造[いちぼくづくり]で、全身に木屎漆[こくそうるし]が塗られ、
平安初期彫刻の特徴をよく表した等身大の立像となっており、国の重要文化財に指定されています。
「森家住宅」:明治時代後期、東海道沿いに建てられた町屋建築です。木造平屋建、切妻、桟瓦葺、平入、外壁には下屋庇を設け、正面壁は黒漆喰仕上げに意匠的な開口部、
両妻面は塗屋造りとして防火対策を施しています。森家住宅は東海道沿いに残る数少ない町屋建築として貴重なことから国登録有形文化財に登録されています。
現在は、うどん屋さんです。
「京口門」にやってきました。安藤広重東海道五十三次の亀山・雪晴は、このあたりから書いたものと思われます。
京口門下にある「照光寺」に行くと、広重の浮世絵の案内板がありました。細い路地を進んでいくのですが、現在では、お城もありませんし、その構図を見ることができません。
亀山宿に入ってきました。亀山宿は、東海道46番目の宿場町。本陣、脇本陣各1軒、旅籠21軒、家数451軒。
亀山宿には、伊勢亀山城(丹波亀山城と区別するため)があります。文永2年(1265)に関実忠が若山の地に築いたと伝えられています。中世の亀山に勢力を持った関氏の居城で
現在の場所には、16世紀中頃までには移っていたと考えられます。天正18年(1590)、岡本宗憲によって天守を築造するなど修築を行い、本多俊次が寛永13年(1636)から
3ヶ年を掛けて行った大改修によってほぼ現在の城地が確定しました。亀山城は、「姫垣」を意味する「粉堞城」の別名がありました。
東海道の要衝ということもあって、城主は、その多くが譜代大名で、延享元年(1744)に石川総慶が入城後は、明治まで石川家が城主を務めました。
尚、丹波亀山城(京都・亀岡市)の天守を壊すよう命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を壊したと伝えられ、以後天守は再建されませんでした。
明治6年(1873)の廃城令により城内の建造物はその大部分が壊されましたが、現在は、多門櫓、石垣、外堀、二ノ丸から西出丸の北側の土居が良好な状態で残っています。
亀山宿の街道沿いには、古い町家が点在しています。その前面意匠は、1階が出格子戸、格子戸を並べ、建てられた当時の「すりあげ戸」が残っているものもあります。
また、それぞれの家の前には、昔の屋号が付けられています。
飯沼慾斎(1783~1865)は、亀山西町で西村守安の二男として生まれ、12歳で美濃大垣の飯沼長顕の元に身を寄せ、後に飯沼家に養子に入りました。
京都で漢方医学と本草学を学び更に江戸に出て蘭学を修め、大垣で開業しました。50歳で引退後、研究に没頭しわが国で初めてリンネ分類法による植物の分類を行い、
「草木図説前篇」を著しました。旧来の本草学を科学的に立証された植物学へと転化させ、また火薬調合や写真撮影法の研究を行うなど我が国の近代科学の基礎を築いた一人です。
街道から鐘楼門をくぐると急な坂で、坂の下に本堂があるため「頭で鐘撞く遍照寺」といわれた古刹。本堂は、亀山藩主在国中の居館であるとともに、亀山藩政務を執る政庁でもあった
旧亀山城二之丸御殿の玄関と式台の一部を移築してできたものです。本尊の阿弥陀如来立像は鎌倉時代に作られたもので、県文化財に指定されています。
また、本堂内に安置される地蔵菩薩立像は平安後期の像で、延命地蔵として信仰を集め、人々から親しまれています。(亀山観光ガイドより)
交番の所に大手門跡、高札場跡があります。交番の所を右折すると、樋口本陣跡の碑があります。脇本陣も確かこのあたりですが、探しても見つけられませんでした。
時間も12時を廻りました。松坂牛の看板を見つけましたのでそこでランチをすることにします。 (続く)
東海道チェック表。亀山宿まで歩きました。お江戸日本橋まではまだまだですね。