21世紀の骨のあるヤツ
第266回
深井正樹(サッカー)
駒沢大学時代、卒業を目前にした深井正樹には躊躇があった。
「代表選手が多い鹿島では、試合に出場できる保障はありません。でも弱いチームならチャンスがある。そこでいくつかのチームの練習に参加してみたんですが、自分が成長できると強く感じたのが鹿島だったんです。それからもうひとつ、鹿島から弱いチームへ行くことはできても、その逆はないだろう。そう思ったのも決め手となりました」
カメラマンが向けるレンズにはにかんでいた深井だったが、一度口を開き始めると、理路整然とした言葉を並べる。一瞬のスピードとクレバーさ、そして強気な姿勢を兼ね備えた背番号11は、トニーニョ・セレーゾ監督の秘蔵っ子になりつつある。
ルーキーイヤーの’03年、深井はFWとしてプロデビューを果たし、リーグ戦と天皇杯でそれぞれ2ゴールをあげている。鹿島FW勢の海外移籍や引退などと重なり、図らずも巡ってきた幸運だった。とりわけ印象的なのが、ナビスコカップの決勝である。この大舞台にスタメンで出場した彼は、その喜びとともに、何もできずに負けた悔しさ-プロの醍醐味と厳しさ-を知ったのだった。
今季の優勝争いが、最後まで混迷を続けている。首位のガンバ大阪を猛追する鹿島アントラーズは、一時勝ち点1差まで肉薄した。しかし「ホームだから絶対に負けられない」と、深井がそう気を引き締め直した30節のFC東京戦で、痛いドローを喫してしまう。さらに31節の大分トリニータ戦にも引き分け、3位のセレッソ大阪に2位の座を奪われてしまったのだ。
だが、まだ先に何があるか、わからない。関西勢初戴冠を狙うガンバは、じわじわと忍び寄るプレッシャーとも戦わねばならない。一方、年間王者に4度輝き、ナビスコカップ3回、天皇杯2回の優勝を誇る茨城の常勝軍団は、現在のガンバが直面する修羅場を何度となく、くぐり抜けてきているのだ。
それまでの鹿島のFWと違い、深井はドリブラーである。小刻みなステップとタイミングで相手DFを出し抜くことに快感を感じてきた。
「現代サッカーはデカくて速くて強いのが主流ですけど、小っちゃくてもできるスポーツなんだと、自分はそう思っていたい。というか、自分がそれを示していきたい。だからデカい相手の時は、逆にチャンスだと思ってるぐらいです。たとえば相手がショルダータックルをしてくれば、脇に入っていく。反転の速さや一瞬のスピードだったら、自分の方が絶対に速いという自信がありますから」
しかしデビュー翌年の’04年、深井はFWから左サイドのアタッカーにコンバートされる。「なんで自分が2列目に下げられたんだろう……」。身長161cmの小兵ドリブラーは、次第に自分の良さを見失っていった。
「ボクは小学生の頃から、相手が誰であろうと、とにかくドリブルをし続けました。自分が生きていくにはドリブルしかないと思っていたからです。2列目は運動量も厳しいし、守備も求められる。だから最初は慣れるのに時間がかかって、すごく辛かったです。眠れない夜もあったほどです」
アントラーズの中盤は、ボックス型をベースとする。ところが23節の川崎フロンターレ戦に敗れたのを契機に、指揮官は本山雅志を前線に上げ、攻撃に専念させた。こんなオペがたやすくできたのも、深井という存在があったからだった。突然のコンバートに苦しんできた彼が苦しみから解放されるようになったのも、今シーズンに入ってからだと言う。
「監督がボクに求めているものは、前を向いて仕掛けていくことだと思うんです。今はサボれる時間帯もわかるようになってきたし、自分のカラーを出しつつ、チームの約束事を守りながらできてるんじゃないでしょうか。高い位置でボールを奪った後に、すぐにビッグチャンスに繋げることができるポジションです。今では、結構やりがいも感じるようになりました。課題は、1試合に数えるほどしかないビッグチャンスを確実に決める技術。それから、中盤の繋ぎ役としてミスを少なくすること。ゴール前の密集地帯でも、確実にボールを回すことですね。パスの技術は、ドリブルと比べるとやっぱり落ちるんで……」
周囲の味方の動きは、大学時代から見えていた。それでも、「あえてパスは選択しなかった」と言う。じつはこの時の経験が、今に生きている。すなわち“ドリブラー”という自分のカラーを出しながら、見えていた味方へのパスも積極的に選択するようになったのだ。
「一発のパスで倒せたら相手も怖がりますからね。それに、自分も労をかけずにゴールに一番近い所へ行けます。こうしたプレイを何度も繰り返すことで、自分でも足元にボールを受けて1対1の状況を作れる。結果、相手のラインが下がり始め、自分たちのボール回しが生きるようになります」
さて、いよいよ佳境に入ったJリーグ終盤戦である。29節のセレッソ戦から3試合連続ドローと足踏みを強いられたが、チーム内の雰囲気はいかがなものだろうか。
「そのセレッソ戦から、チームが一丸となりつつあります。残りすべての試合に連勝すれば、絶対に優勝できるんじゃないでしょうか。最終節のレイソル戦までに優勝を決めたいですね」
山場は11月23日(水)の32節、横浜F・マリノスとのホームゲームだろう。すでに3連覇の夢がついえ、天皇杯に照準を絞ったかのように見える横浜だが、調子をみるみるあげてきた。長期離脱中だった久保竜彦も戦列に戻り、ゴールを連発する。深井とマッチアップするのは、横浜の右サイドバック・田中隼磨だ。深井の一瞬のスピードが勝つのか、それともタフな田中のスタミナが勝つのか。鹿島の行方を占う大一番になることだけは間違いなさそうだ。
取材・文:李春成
撮影:岡本寿
五年前、2005年11月21日の記事である。
当時、中心選手として在籍しておった深井にスポットが当たっておる。
2003年に新人として入団した深井はJリーグ開幕前に開催されたA3でデビューを果たし、ACLにも出場しており、フロントの期待の表れが感じられた。
開幕戦でも平瀬に変わってピッチに立ち、サポーターの気持ちを一気に惹きつけた。
この2003年は、柳沢敦のイタリア移籍、長谷川祥之の引退、エウレルの負傷が重なり、深井は新人ながらFWの軸として活躍を果たした。
明けて2004年には、深井は名実共にFWの軸となり、FJとの2TOPで開幕を迎える。
しかしながら、チームが波に乗れぬ中で、4月半ばに深井は負傷で戦列を離れることとなった。
ここで平瀬と本山、野沢にポジションを奪われた。
皮肉なことに、無理矢理コンバートした本山と野沢がFWとしての才能を開花させることとなったのである。
復帰後、深井はサブに落ち着き、チームは不安定な成績を残しておった。
そんな中で迎えた11月20日の第13節アウェイの大分戦で当時の監督トニーニョ・セレーゾは深井の二列目起用を決断した。
ここからチームは調子を取り戻し、無敗でシーズンを終えるのである。
上記の記事にあるようにトニーニョ・セレーゾとしては、深井のポジションを見つけることに成功し、続く2005年の開幕ダッシュへと繋がっていったことを記憶しておる。
後にトニーニョ・セレーゾはシュートの上手い選手として野沢と本山を挙げ、下手な選手として深井を名指しで挙げておる。
このコンバートは必然だったのであろう。
この記事での深井は攻撃的中盤である二列目に対してやりがいを見いだしてきたように語っておる。
とはいえ、深井はFWへの拘りを捨てることが出来ずに2007年に移籍という判断をするのである。
深井という男の判断や行動については多くを語ってきた。
ここで、今更何かをコメントする必要は無いと思っておった。
しかしながら、上の記事に深井の鹿島入団の意志がどのように決定されたかが語られておる。
「鹿島から弱いチームへ行くことはできても、その逆はない」
まさに正論である。
鹿島の選手であることは特別なことなのである。
その特別な選手の一人であった深井を懐かしく思う。
第266回
深井正樹(サッカー)
駒沢大学時代、卒業を目前にした深井正樹には躊躇があった。
「代表選手が多い鹿島では、試合に出場できる保障はありません。でも弱いチームならチャンスがある。そこでいくつかのチームの練習に参加してみたんですが、自分が成長できると強く感じたのが鹿島だったんです。それからもうひとつ、鹿島から弱いチームへ行くことはできても、その逆はないだろう。そう思ったのも決め手となりました」
カメラマンが向けるレンズにはにかんでいた深井だったが、一度口を開き始めると、理路整然とした言葉を並べる。一瞬のスピードとクレバーさ、そして強気な姿勢を兼ね備えた背番号11は、トニーニョ・セレーゾ監督の秘蔵っ子になりつつある。
ルーキーイヤーの’03年、深井はFWとしてプロデビューを果たし、リーグ戦と天皇杯でそれぞれ2ゴールをあげている。鹿島FW勢の海外移籍や引退などと重なり、図らずも巡ってきた幸運だった。とりわけ印象的なのが、ナビスコカップの決勝である。この大舞台にスタメンで出場した彼は、その喜びとともに、何もできずに負けた悔しさ-プロの醍醐味と厳しさ-を知ったのだった。
今季の優勝争いが、最後まで混迷を続けている。首位のガンバ大阪を猛追する鹿島アントラーズは、一時勝ち点1差まで肉薄した。しかし「ホームだから絶対に負けられない」と、深井がそう気を引き締め直した30節のFC東京戦で、痛いドローを喫してしまう。さらに31節の大分トリニータ戦にも引き分け、3位のセレッソ大阪に2位の座を奪われてしまったのだ。
だが、まだ先に何があるか、わからない。関西勢初戴冠を狙うガンバは、じわじわと忍び寄るプレッシャーとも戦わねばならない。一方、年間王者に4度輝き、ナビスコカップ3回、天皇杯2回の優勝を誇る茨城の常勝軍団は、現在のガンバが直面する修羅場を何度となく、くぐり抜けてきているのだ。
それまでの鹿島のFWと違い、深井はドリブラーである。小刻みなステップとタイミングで相手DFを出し抜くことに快感を感じてきた。
「現代サッカーはデカくて速くて強いのが主流ですけど、小っちゃくてもできるスポーツなんだと、自分はそう思っていたい。というか、自分がそれを示していきたい。だからデカい相手の時は、逆にチャンスだと思ってるぐらいです。たとえば相手がショルダータックルをしてくれば、脇に入っていく。反転の速さや一瞬のスピードだったら、自分の方が絶対に速いという自信がありますから」
しかしデビュー翌年の’04年、深井はFWから左サイドのアタッカーにコンバートされる。「なんで自分が2列目に下げられたんだろう……」。身長161cmの小兵ドリブラーは、次第に自分の良さを見失っていった。
「ボクは小学生の頃から、相手が誰であろうと、とにかくドリブルをし続けました。自分が生きていくにはドリブルしかないと思っていたからです。2列目は運動量も厳しいし、守備も求められる。だから最初は慣れるのに時間がかかって、すごく辛かったです。眠れない夜もあったほどです」
アントラーズの中盤は、ボックス型をベースとする。ところが23節の川崎フロンターレ戦に敗れたのを契機に、指揮官は本山雅志を前線に上げ、攻撃に専念させた。こんなオペがたやすくできたのも、深井という存在があったからだった。突然のコンバートに苦しんできた彼が苦しみから解放されるようになったのも、今シーズンに入ってからだと言う。
「監督がボクに求めているものは、前を向いて仕掛けていくことだと思うんです。今はサボれる時間帯もわかるようになってきたし、自分のカラーを出しつつ、チームの約束事を守りながらできてるんじゃないでしょうか。高い位置でボールを奪った後に、すぐにビッグチャンスに繋げることができるポジションです。今では、結構やりがいも感じるようになりました。課題は、1試合に数えるほどしかないビッグチャンスを確実に決める技術。それから、中盤の繋ぎ役としてミスを少なくすること。ゴール前の密集地帯でも、確実にボールを回すことですね。パスの技術は、ドリブルと比べるとやっぱり落ちるんで……」
周囲の味方の動きは、大学時代から見えていた。それでも、「あえてパスは選択しなかった」と言う。じつはこの時の経験が、今に生きている。すなわち“ドリブラー”という自分のカラーを出しながら、見えていた味方へのパスも積極的に選択するようになったのだ。
「一発のパスで倒せたら相手も怖がりますからね。それに、自分も労をかけずにゴールに一番近い所へ行けます。こうしたプレイを何度も繰り返すことで、自分でも足元にボールを受けて1対1の状況を作れる。結果、相手のラインが下がり始め、自分たちのボール回しが生きるようになります」
さて、いよいよ佳境に入ったJリーグ終盤戦である。29節のセレッソ戦から3試合連続ドローと足踏みを強いられたが、チーム内の雰囲気はいかがなものだろうか。
「そのセレッソ戦から、チームが一丸となりつつあります。残りすべての試合に連勝すれば、絶対に優勝できるんじゃないでしょうか。最終節のレイソル戦までに優勝を決めたいですね」
山場は11月23日(水)の32節、横浜F・マリノスとのホームゲームだろう。すでに3連覇の夢がついえ、天皇杯に照準を絞ったかのように見える横浜だが、調子をみるみるあげてきた。長期離脱中だった久保竜彦も戦列に戻り、ゴールを連発する。深井とマッチアップするのは、横浜の右サイドバック・田中隼磨だ。深井の一瞬のスピードが勝つのか、それともタフな田中のスタミナが勝つのか。鹿島の行方を占う大一番になることだけは間違いなさそうだ。
取材・文:李春成
撮影:岡本寿
五年前、2005年11月21日の記事である。
当時、中心選手として在籍しておった深井にスポットが当たっておる。
2003年に新人として入団した深井はJリーグ開幕前に開催されたA3でデビューを果たし、ACLにも出場しており、フロントの期待の表れが感じられた。
開幕戦でも平瀬に変わってピッチに立ち、サポーターの気持ちを一気に惹きつけた。
この2003年は、柳沢敦のイタリア移籍、長谷川祥之の引退、エウレルの負傷が重なり、深井は新人ながらFWの軸として活躍を果たした。
明けて2004年には、深井は名実共にFWの軸となり、FJとの2TOPで開幕を迎える。
しかしながら、チームが波に乗れぬ中で、4月半ばに深井は負傷で戦列を離れることとなった。
ここで平瀬と本山、野沢にポジションを奪われた。
皮肉なことに、無理矢理コンバートした本山と野沢がFWとしての才能を開花させることとなったのである。
復帰後、深井はサブに落ち着き、チームは不安定な成績を残しておった。
そんな中で迎えた11月20日の第13節アウェイの大分戦で当時の監督トニーニョ・セレーゾは深井の二列目起用を決断した。
ここからチームは調子を取り戻し、無敗でシーズンを終えるのである。
上記の記事にあるようにトニーニョ・セレーゾとしては、深井のポジションを見つけることに成功し、続く2005年の開幕ダッシュへと繋がっていったことを記憶しておる。
後にトニーニョ・セレーゾはシュートの上手い選手として野沢と本山を挙げ、下手な選手として深井を名指しで挙げておる。
このコンバートは必然だったのであろう。
この記事での深井は攻撃的中盤である二列目に対してやりがいを見いだしてきたように語っておる。
とはいえ、深井はFWへの拘りを捨てることが出来ずに2007年に移籍という判断をするのである。
深井という男の判断や行動については多くを語ってきた。
ここで、今更何かをコメントする必要は無いと思っておった。
しかしながら、上の記事に深井の鹿島入団の意志がどのように決定されたかが語られておる。
「鹿島から弱いチームへ行くことはできても、その逆はない」
まさに正論である。
鹿島の選手であることは特別なことなのである。
その特別な選手の一人であった深井を懐かしく思う。