山南ノート4【劇団夢桟敷】

山南ノート4冊目(2008.10.3~)
劇団夢桟敷の活動や個人のことなどのメモとして公開中。

結果、台本通りである

2012-10-31 06:28:38 | 「極楽少女」2012
生身の人間、ロボットではないのが役者だ。
ひとりの劇作家、演出が頭の中で描いたことを再現することが演劇ではないと確信している。
集団の力。口先では解決しない行動力。一筋縄ではない個性のぶつかり合い。そして信頼できる集団となる。
個人差はある。優等生ばかりではない。だから、劣等生である私は劇団の中での個人差は面白いと思っている。

稽古の時には何が起こるかわからない、そんな未知で謎めいた計算外のハプニングをこころの何処かで探し続けている。
凡百の言う「台詞を記憶する」場所が稽古場ではない。「台詞の時代」に幕を下ろしてしまったのである。演劇は事件である。虚構の事件を舞台上で巻き起こす。

今、強い意思で「極楽少女」の公演に向かう。あの世とこの世の中間点で彷徨っている宙ぶらりんを劇で形にすることへの挑戦である。
宙ぶらりん・・・まさに現代の様相だと思ってのこと。強い意思で宙ぶらりんへ立ち向かう。

生きているのか、死んでいるのか!得体の知れない時代だからこそ劇では「生と死」を意識する。
意識することがなければ劇で何も表すことはできなくなる。
だが、意識はずれることも薄れることもある。不明になる一歩手前で気付く。・・・未だ生きている。おや、ここは地獄?極楽?

稽古場では理解に苦しむ言動が溢れる。悩み苦しむこともある。形が見えない時だ。こんな時に笑ったらどうなる。
劇が好きでたまらない狂える恋に堕ちた時。役者が役者として一皮むける、そんな瞬間に立ち会うことができる。
観客はそれを見ている。とりつかれた役者の形相。

私は劇に後付けを認めている。今、全てを理解していなくても後から理解されることがある。理解には時間がかかるのである。焦らなくてもよくなってきた。それは結果だった。

「極楽少女」とは・・・公演ぎりぎりまで謎が深まる。稽古は続く。先は見えてきたのだが。


2005年の夢現「愛の乞食(尼蔵)」今回は旗揚げメンバーである海幸大介が演ずる。