山南ノート4【劇団夢桟敷】

山南ノート4冊目(2008.10.3~)
劇団夢桟敷の活動や個人のことなどのメモとして公開中。

ブラジル公演日記【8】

2009-02-28 23:25:32 | ブラジル公演2009.2
 【報告会のお知らせ】
 
 ■3月22日(日)午後7時より
 ■熊本市中央公民館ホール
 ビデオ上映などがあります。
 入場無料。

  エピローグ

 エピローグ(最終章)は「終わらない旅」として綴ります。
 ブラジル公演とは何だったろうか。
 次へ向かって行く為のビッグバンだったようにも思う。
 
 劇団として動く場合は集団の力、そのエネルギーの爆発がある。演劇は個人の自己表現では追いつかない。それを理解するには何年も何十年もかかることがある。
 今回のブラジル公演では、多くの方のご協力とご支援の賜物で実現できた。感謝の気持ちで一杯である。
 「ブラジル移民百周年」は単なる記念行事ではなく、私たちはブラジルで実際に移住している多くの人々(2世以降の方たちも含めて)とお会いすることができた。ナマの声、人々とのふれあいの中で、如何に本音でお付き合いすることの大切さが必要か、・・・それがわかった。
 劇団の内部でも言える。終わったことを放りっぱなしで思い出アルバムの中で公演を記念として納める者もいるであろう。ここには反省や次へのステップがなければ体験が生かされていかないのではないだろうか、とも思う。
 
 反省すべき点は山ほどある。
 その内のひとつ。ユニットであるが故の継続性の問題である。
 劇団笠戸丸の解散と同時に誰かが引き継いで、次へつなげていくことの必要を感じている。その誰かとは当面、17名中8名が参加した劇団夢桟敷の今後にかかっていると思う。個人ではなく団体として継続はある。
 
 今回「移民」をテーマにした劇を上演するにあたり、その歴史背景や劇そのものの虚構を対立させながら舞台を作ることになった。
 堅苦しいアカデミックな解釈を並べ立てることから、如何にエンターテイメントとして見せていくか。これは演劇の宿命でもある。ここには個人としての気持ちや考えなどを「伝える」自分というものが邪魔になってくる。
 毎回、同じことを反省しながら課題だけが残されていく。満足できないところがあるから、次に挑戦するのである。

 「終わらない旅」である。

ブラジル公演日記【7】

2009-02-27 23:29:58 | ブラジル公演2009.2
 毎日新聞熊本支局の和田さんがサンパウロ市より同行取材してくれている。ブラジル公演に向けては密着取材でこれまでも稽古の段階から付き合ってくれた。劇団員たちもマスコミの人を忘れて、身内のお兄さんのように気楽な関係となっている。
 安永信一兄さんが劇団員の点呼を取るときに孝道兄さんに続いて「19番!」。和田さんも「20番!」で応える。いつしか、劇団員は17名から20名になっていた。
 ブラジルに着くまでは17名から何人減ってしまうのだろうか心配だったが、逆に増えたのである。

 2月16日(月)

 和田さんは孝道兄さんと上塚周平先生の墓参りのために昨夜の交流会後よりプロミッソンへ走る。きっといい取材になるだろう。しかし、往復1000kmはある。 

 昨夜の熊本県人会では調子に乗って飲みすぎた。実はピラールに着いた時に血尿が出たから、余り飲まないようにしようと控えたつもりだったが、ついつい調子に乗ってしまう。ホテルに帰っても男たちが集まってウイスキーを飲む。酔うと健康管理もあったものではない。・・・四会場とも無事に終わったのだ。
 
 今日はサントス港へ向かう。移民船笠戸丸が着いたところ。その近くにはビーチがある。トップレスに立ち会いたい。
 バスに乗って窓を眺めながら時々「トップレス!」と囁くと、近くの席の男性共が眠っていたのに片目を開けて窓をみる。私は上半身裸の男が道を歩いているのを「トップレス!」と囁いていた。
 サントス港を眺めるためにケーブルカーに乗って丘に登った。大西洋か。この海はアフリカとヨーロッパにつながっているのか。アジアを遠くに感じる。
 ビーチに行って若者たちははしゃぎまくっていた。まだ、完全燃焼していなかったのか。否、立ち直りが早いのだろう。子どものように浅瀬を走っていた。

 夜。ラウル社長のマンションのガーデンにて打ち上げパーティーを催してもらった。ピンガにキューイを混ぜたカクテルを飲む。何から何までお世話になりっぱなしである。昨日公演のビデオを見ながら遠い時間のようにも思えた。

 2月17日(火)

 午前中はフリータイム。みんなはお土産を買うためにリベルダーデの店を回る。日本語が通じる店も多い。リベルダーデ広場で「カサトマル!」と声を掛けられた。公演を見られたお客さんだろう。嬉しいことだ。後ろ指をさされなくて良かった。
 午後より文協福祉会館にある「移民資料館」に行く。ここには安永さん提供の上塚像(木彫り)もあった。信一さんが子どもの頃、この像を踏み台にして遊んでいたそうだ。その名残に耳が欠けていた。

 夜、サンパウロ空港からアトランタに向かう。安永兄さんたちに見送られる。最後までありがとうございました。・・・まだまだ感謝し切れない。
 ブラジルで出会った全ての皆様、ありがとうございました。又、お逢いしましょう。

 2月18日(水)~2月19日(木)

 日本へ。長い時間である。飛行機の中は夜が長い。アトランタで乗り換えの際、コーヒーを飲む。英語がわかるような気がした。ポルトガル語よりも耳に慣れている故か。
 サンパウロを夜出発して熊本着が夜だった。飛行機の中で2泊3日したことになるのだが、日付変更線のマジックにより時間が混乱する。
 熊本空港では劇団員の家族が迎えに来てくれていた。無事に帰れたことだけが最大のお土産でもある。
 時間が経過するにつれて、今回のブラジル公演体験は大きく膨らんでいく。

 □ 

 まだまだ言い足りないこと、具体名が足りないこと、色々気になりながら、いつか演劇や文化的な活動の中で生かしていこうと思う。

ブラジル公演日記【6】

2009-02-26 23:28:06 | ブラジル公演2009.2
 サンパウロ市(聖市)へ。ブラジル最大都市。人口1,100万人。第4ステージ、最終公演の地である。
 今回のブラジル公演を主催してくれたニッケイ新聞社もここにあり、ホテルはバンリホテル、公演会場はブラジル日本文化福祉協会、いずれもリベルダーデ(東洋人・日本人街)が拠点となる。

 2月14日(土)

 ブラジルではサマータイム最後の日。つまり今日は一日25時間とのこと。明日より一時間遅れて時計を回さなければならない。初体験である。
 AM9:00にピラールの日本語学校を出発。走って生徒さんたちがバスを追っかけてくれる。まさか、サンパウロ市まで走ってくるのではないだろうか。それだけのパワーがあった。まるで映画のワンシーンのよう。いつまでもバスの中で手を振り続ける劇団員たち。

 午後2時頃、リベルダーデにあるブラジル日本文化福祉協会に到着する。幹線道路は6車線もある大きな道路であるが、この街は大型バス一台通るのにやっとの狭い道である。神業のように会場に横づける。ニッケイ新聞社のラウル社長と山根さんが迎えに来てくれる。
 劇団の荷物と個人の荷物を振り分け、近くにあるバンリホテルへチェックインする。ラウルさんより近くのブラジルバイキング料理レストランに案内してもらう。ここは重さで料金が設定される。みんな冷奴と間違えてチーズに醤油を垂らして食べる。うん?表情が固まる。
 
 移住者協会会長の小山さんの店(スポーツ店)を訪問する。軽い脳梗塞で暫く入院していたそうだ。お土産はジョニクロ。本人は飲めない。残酷だ。下見に来た際に本人様よりご指定の品物。
 「サンパウロ市の人々は舞台を見る目が肥えている。油断するなよ。」と言われる。熊本でも随分、言われた。ブーイングも容赦ないところだ。バッシングがあると立ち直れないらしい。ブロードウェーでもそうだが、ここにはその筋の評判屋が存在する。

 会場は文協の小ホールである。音響・照明の設備がない。通常は業者さんを雇って設置するそうだが、私たちは手作りの器具を持ち込んだ。日本の「小劇場」らしいニュアンスを持って来たかったからだ。
 座長たちで窓の遮光作業に取り掛かった。これには相当に手間取るだろうと思っていたが、意外と合理的に運ぶ。照明が暗い。明日は電球を仕入れて、もっと明るくしようと思っていたが、ニッケイ新聞社のビデオ記録を担当して下さる方から、ビデオの照明500W2本を両サイドから照らすことにより、問題解決となる。
 いずれにしても天井からの吊りが不可能なため、簡易スタンドと転がし(フットライト)をメインに照明を設置する。明かりをいれると私好みの「アングラ」舞台になる。

 夜はホテル隣の和風レストランにて交流食事界をセッッティングしてもらった。入場整理券300枚は全て完売。見に来れない方からの問い合わせもたくさんあるようである。気を引き締めて飲む。すっかりピンガが染みてしまった。

 2月15日(日)

 午前中は仕込み作業とリハーサル1本。上手からの出ハケ(入退場)に問題が生じ、下手からの出ハケ中心に変える。臨機応変にも慣れて来た。
 12時頃よりお客さんが集まり始めた。サマータイムのまま来られたお客さんもいる。早めにに来られたお客さんの中に国際交流基金ブラジル支部の西田さんもいた。今回のブラジル公演に際して心配をかけたお一人である。国際交流基金からの助成金をもらえなかったことで随分、心を痛められた方。実績のない無名な集団である。熊本県からの助成金を頂けただけでも奇跡だと思っている。

 さて本番。午後2時スタート。最終公演である。第4ステージ。
 着物の着付けがおかしい。日本文化の伝承に誤解が生じるのではないか?・・・船(笠戸丸)の中での実際にあった人質事件を宴会芸にしてしまったところは茶化しすぎではないか、等の批判的な意見もあった。全くストレートな感想が頂けて嬉しくもある。
 史実にどこまで迫ることができるか、について。演劇の虚構性と史実を織り交ぜる劇である。一歩間違うと危険なことになる。そこを見抜いて批判は出たのであろう。が、反面、その奇抜さを支持して下さった方もおられた。
 「熊本から出てきて、どんな田舎芝居をやるのだろうかと心配していましたが、斬新的で都会的。今の日本の新しい演劇を感じられた。」と絶賛する方もいた。
 劇団1980や維新派とも交流もありアートディレクターのクスノさんである。初期の天井桟敷(寺山修司の主宰した劇団)にも在籍されたこともある方でJAシーザーさんとも親交が深い方。サンパウロには色々な方がいる。

 終演はラウル社長にも舞台に上がってもらった。ブラジル公演を実現できた大きな力になってくれた方である。劇団笠戸丸の親分である。安永ファミリーと共にどのくらい心配したことだろう。計り知れない。
 お客さんとの熱い握手と涙の別れの連続である。一生忘れることはできないだろう。これでブラジル公演が最後のステージだと思うと、これまでの緊張感が溶けてなくなりそうである。
 今日は一日中、雨。足元の悪い中、ご来場頂いたお客様に感謝申し上げます。
 
 どの会場も満席だった。劇を見られる前から、どんな思いで足を運ばれたのか。私たちが遠い国へやって来たと思っていることとは反対に、ここで身近な日本を感じることになった。私たちは情報としての日系社会ではなく、ナマの日系社会を体験してきたのだとつくづく思う。人とのつながりである。

 夜は熊本県人会館にて交流会をしてもらう。まさに、ブラジルに来て地元を味わう。不思議だ。ここには熊本がある。
 「お帰りなさい。」と言われた。
 3世、4世の時代になって来て、日本の地方の名のつく県人会も意識が薄められてきていると聞いた。だからこその県人会だとも思う。
 ここにきて、ナショナリズムに燃えそうにもなった。インターナショナルって何だったけ。時々、忘れそうになるのである。

ブラジル公演日記【5】

2009-02-25 23:26:10 | ブラジル公演2009.2
 第三ステージはピラール ド スール市(通称、ピラール)。会場は日本語学校(入植65年。運営は文化体育協会)。ここでの滞在中、子どもたち60名余りと交流した。劇団員たちはふたり一組になってホームステー。楽しいひと時を綴ります。

 2月11日(水)

 プロミッソンの安永さん宅では朝からお餅をついてくれていた。
 今日はピラール ド スール市の日本語学校へ移動する日。プロミッソンから400kmは離れている。・・・貸切バスに乗り込む際、お父さんの涙にもらい泣きする。別れは淋しい。しかし、「さよなら」が言えない。「又、会いましょう!」で別れる。ありがとうございました。オブリガード!
 テレビの「うるるん滞在記」でタレントが涙を流す場面があるが、その心境がわかる。嬉しくて悲しい。

 安永兄(考道さん)が同行してくれる。全日程、兄さんは道案内と通訳で私たちをサポートしてくれる。このブラジル公演の旅では大黒柱になってくれた人だ。
 劇団員17名、全員揃っているかで毎回、番号の点呼を取っていたが兄さんは「18番!」と大きな声で応えてくれる。間違いなく劇団員になっていたのだ。
 
 6時間後の午後2時にピラール日本語学校に到着する。道中の道路工事や市内に入ってからの交通渋滞で到着時間が1時間遅れた。
 ここでの会場担当者は田中幸太である。渡辺先生とは連絡を取り合っており、子どもたちとの交流会も企画されている。
 昼食は文化体育協会の方々と学校の先生、生徒さんたち、PTA(日系)の方々と盛大におこなわれる。子どもたちの「よさこいソーラン」の稽古も見せてもらう。大拍手である。・・・この時点から劇団員たちと生徒さんたちは打ち解けていた。
 
 夜は舞台仕込みに取り掛かる。会場での音の響き方が気にかかる。馬場君の悪戦苦闘が始まる。舞台上の吊りバトンがない。竹で枠を作り旗などの布をレイアウトする。村上と卓さんの指示も板についてきた。・・・座長の唇の怪我もメンバーの体調不良も気にならなくなった。

 ホームステーへ。劇団員たちはそれぞれの家に分かれる。私は単独、協会会長(阿部さん)宅へ行く。金髪シェリーちゃんがいる、と聞いて「日本語は通じるのですか?」と聞くと「全く喋れない。」と言う。「困った。」・・・会うと子犬だった。金髪ではなく黒い。・・・一日中、雨。
 日本では春一番の風が吹いたという。中国から黄砂が降っていると、ブラジルからNHKを見て知った。

 2月12日(木)

 生徒さんたちとグラウンドにてゲームなどを楽しむ。
 <グループ作り> 先生が言った動物の名前の仮名の数と同じ数のグループを作る。
 <仲人探し> 紙を取り、そこに書いてある名前と同じ紙を持っている人を探してペアを作る。
 <だるまさんがころんだ> 日本の伝統ゲーム(70人バージョン!)
 この時ばかりは劇団員たちも生徒さんたちも無邪気に楽しむ。大きなプレゼントを頂いた。みんなの笑顔である。

 遊びの合間に舞台作り。夜は2時間程度の舞台稽古。9時終了。会場では食事の世話などで協会の方々が居残ってくれる。
 いよいよ明日は本番である。
 気を抜くと怪我をするのが舞台。緩みっぱなしのピラールの一日であった。

 2月13日(金)

 東田さん(マナミー)を女優にする!その目標はブラジルに着いてからは達成されたように思う。宮下遥(はるかちゃん)も昨年4月の出演の時と比べれば人が変わったように演劇を楽しめるようになった。
 上手な役者さんは熊本、日本、世界中にうんざりする程いる。演劇は上手だけでは物足りないと思い続けてきた。それがブラジルにやって来て見えたような気がする。
 
 自己表現では追いついていかないのだ。・・・今回の舞台で脇役の固まり方に問題を感じていた。最初から「これは群集劇である。」と言っておいたが、全体を感じながら自分の立つ位置を決めることは容易なことではない。滅私奉公ではないが「わがまま」が通用しないのが群集の中の個人である。下がりすぎてもいけないし、出すぎてもまずい。・・・劇団笠戸丸は「役者に統一性がない。」と言われ続けたが、それは台詞がないと芝居ができない者たちが目立っていたからだろう。
 ここに来て、移民劇に対する思いの深さに個人差はあるものの、確実に深まったのである。個人の力ではどうしようも出来ないことが、環境の力で一点突破することがあることを実感した。

 ピラール日本語学校の先生たちは個性豊かな方ばかりだった。笑顔が無邪気で「よさこいソーラン」や和太鼓を指導、見つめる目は鋭くなる。このメリハリに惹かれた。生徒さんたちの豊かな表情と無邪気さ、舞台に立ったときのパワーの秘密は、この学校の先生たちの豊かさにあるのだと思った。・・・ここでは「陸上部」「ソーラン部」「太鼓部」の部活動があって、サンパウロ州でもトップレベルで活躍されている。
 
 演劇公演は一部「日本語学校のソーラン・和太鼓」(30分)と二部「ボクノフルサト。」で構成する。
 同じ舞台に立つ仲間だ。来られるお客さんたちに感動してもらいたい。会館は400名近くで満杯になる。劇団メンバーと生徒さんたちとの絆はこの三日で強く結ばれている。
 夜7時開演。2時間を越える公演に見入って頂けた。終演後は役者たちも満足したようであるが、それ以上にお客さんたちに囲まれる様子を見て胸を撫で下ろす。
 劇団員たちと生徒さんたちのメール交換や、生徒さんたちからプレゼントしてもらった「インタビュー記事」を見て感動する。
 舞台の搬出作業を終えて打ち上げパーティーをしてもらう。安永兄さんも楽しく飲んでいる。
 今夜は下見の際にお世話になったジョージマさんのお宅に宿泊する。座長・山本真実・山室優衣のホームステー先である。ここには二人のゲストさんも宿泊している。
 打ち上げでも飲み過ぎていたが、ここでも追加のビールを頂いて熟睡する。 

ブラジル公演日記【4】

2009-02-24 21:48:28 | ブラジル公演2009.2
 プロミッソン市。1908年にブラジル移民が始まり、その10年後に「第一上塚植民地」開設。ここに上塚周平氏は眠っており、劇の舞台もここをイメージした。
 劇団員の宿泊所としてお世話になった家は上塚周平先生の墓守をしている安永忠邦さん。安永ファミリーと言えばブラジルの日系社会では有名。プロミッソン市でも大きな影響力を持っている。
 
 2月8日(日)

 この日の朝は弓場農場とのお別れである。会場担当者のましまんは目に涙を溜めている。感謝の涙。・・・「みんな純粋に演劇をやっておられる。」会場でお世話をしてくれた矢崎さんから頂いた言葉である。
 この劇場では火を使わせてもらった。日本では消防法で問題になる為、火の使用は基本的には禁止。
 食事や宿泊所も提供して下さり、何から何までお世話になりっぱなしで去ることになる。「又、お会いしましょう。」お互いに握手をして別れる。
 何よりも劇で感動してもらえたことが一番である。・・・本当にありがとうございました。大変、お世話になりました。涙の別れです。

 貸し切りバスで一路、プロミッソン市へ。アリアンサ市からプロミッソン市は100km離れている。それでも隣だと言う。スケールの大きさを知る。
 プロミッソン市では市の主催事業として演劇公演を受け入れてもらった。宿泊所からの移動は市提供の小型貸し切りバスになる。プロミッソン市全面協力である。私たちの知らない間に安永さんたちがフォローして下さった。
 
 昼には安永忠邦さん(お父さん)の家、広いガーデンで歓迎昼食会となる。ここに17人宿泊できるのだから、日本だったら考えられない。個人の家屋である。周辺はコーヒー園。信一兄さんが「皆さん、ピンガ(酒)でもどうぞ。昼からでもどうぞどうぞ。これがブラジルの流儀です。」と配ってくれる。一杯飲んで、くらぁ~と倒れそうになったが、余りの美味さに隠れて三杯飲んだ。考道兄さんが私を見つけて「もう一杯飲めー!」と追いかけて来るが、私は三杯が限界である。走って逃げたらよろけてこけた。・・・毎晩の飲みすぎで目が充血してきた。
 酔い覚ましにマンゴーとスイカ、葡萄。フルーツは山盛りだ。
 昼食後、上塚街道にある上塚公園に行く。移植を記念して作られた公園。・・・それから、いよいよ上塚周平の眠る墓参りである。
 劇団員たちが飛行機の中で織った千羽鶴を捧げる。墓には石造が建っており、それを見つめる上塚周平役の田中幸太が立つ。不思議なものだ。この時から田中幸太が上塚に見えてきたのだ。乗り移ったか。安永ファミリーから彼のことを「先生!」と呼ばれるようになる。そう呼ばれると益々、そのように見えてくるから七不思議である。
 夜。ガーデンにて交流会となる。プロミッソン市の文化部長(女性)さん、元市長さんたちが駆けつけてくれる。お世話になっているお礼を述べたかったが、ポルトガル語が喋れないこともあって、近くに座ることに躊躇していた。
 
 2月9日(月)

 朝8時半、市長表敬訪問に行く。後から判ったことだが市長はプロミッソン大学の現役教授とのこと。親しみ易い目は劇団員を熊本の大学生が大半だと知っていたからか、教授の顔に見えた。日本の政治家のような匂いを感じられない。
 プロミッソン市の環境問題への取り組みを見てもらいたい、とゴミ処理場なども見学する。市長はエタノール工場(砂糖きびで燃料を作るところ)も見学・昼食をとらせたかったらしいが、午後からの劇場仕込みのために断念。
 午後2時から6時までプロミッソン市劇場で仕込みに入る。近所の子どもが日本人が何をしに来たのだろうか?と興味をもって見つめていた。この劇場は新しく、演劇公演は初めてだと言う。300席程度の劇場である。
 安永ファミリーも「何か仕事はないか。」と買出しに出かけてくれたり、水の世話までしてくれる。
 (注)本来、ここまでお世話してくれることが当たり前だと思っては勘違いが起こるのではないかと心配していた。自分たちでやらなかれば劇団として甘えが生じる。それが心配だった。感謝しなければ!感謝してもしきれない程のことなのだ。

 夜7時半から9時半までは劇場近くの文協会館にて歓迎レセプションを開いてもらう。只の飲食会だと思って臨んでいたのだが、歓迎市民の盾を頂いたり、様々なプレゼントを頂く。市長や文協会長から9年後はプロミッソン市創立百周年であり、劇団笠戸丸としてご招待したい!と言われる。州知事秘書さんもサンパウロ市から来られていた。ここまで注目されているとは思わなかった。
 明日は本番である。 
 
 2月10日(火)

 本番の日(第二ステージ)である。
 朝から夕方までリハーサル2本おこなう。テレビ局からの取材も受ける。「ブラジルに着いてからの第一印象は何でしたか?」と聞かれる。「日本では寒い冬だったのに、ここでは夏なのが信じられない。」とくだらない感想を述べる。脳がレンジで解けてしまって気の利いたことが述べられない。

 本番2時間前より客入れとなる。予備席まで作っている。本番前には満席となる。安永ファミリーは受付やお客さん対応に追われる。
 弓場での経験からか、出演者たちは心持、余裕が出てきたようにも思えた。が、私(照明係り)と馬場君(音響係り)は焦っていた。客席が階段状になっており、ひとり足元をはずして転倒したお客さんがおられた。注意を促すために二人はお客さんを誘導する。「日本から来られた劇団の方ですか。」と握手を求められたり、「カーニバルまでブラジルにいてくださいよ。」と話しかけられる。気安く、フレンドリーな方ばかりである。

 本番が始まると空気が変わった。百年前のことといえ、移民の苦労や上塚周平のことは私たち以上に身近にある方々である。
 前列でお父さん(忠邦さん)が見ている。針の筵に立たされている気分。演劇が上手、クオリティーが高い、そんな気持ちで舞台に上がっても通用しない空気なのだ。日本でもそうなのだが、演劇人のための演劇では通用しない空気なのだ。
 オープニングと同時に、お客さん自身「この劇に参加している。」ことがわかった。体当たりである。台詞やことばでなく、出演者の顔、表情、音すべてを食い入るように見てくださった。技術では通用しない。既にお客さん内部で「ボクノフルサト。」は個々にあるのである。個人の「フルサト。」を語っているだけでは追いつけない世界がある。百年の重さとはそういうものだ。現地である。

 「あっ」という間に100分の劇が終わった。気付けば笑って泣いてくれた。人情芝居のように楽しんでくれた。私たちが追求していた「小劇場」の思いは、見られ方によっては昔懐かしい大衆演劇のようにも感じとられたようだ。
 演劇論なんてどうでも良かったのだ。もう、劇が一人歩きしているようで、お客さんの思いが劇の色まで変えてしまうことがある。
 
 この劇で二人の登場人物が自殺とマラリアで死ぬ場面がある。実際、移植当時の日本人たちは大勢、ブラジルで死んでいる。演技者はその悲しみをどう演じきれるかで悩む。いわゆる重い場面である。
 最近、よく耳にするが、「どう伝えるか。」演劇をコミュニケーションの道具のように扱っている節がある。ところが、ここで起こった「伝わること」はそんな軽々しいものではなかった。「死」はそれぞれの立会い方や身近な人への無念やセンチメンタルが漂っている。
 日常のコミュニケーションとは違う。みんみんが気付いたように「感じ合う場」が劇場でもある。ところが演じ手を上回る感じ方がここにはあった。
 私はお父さん(忠邦さん)の顔を伺っていた。
 日本からブラジルまで渡って「移民劇」をやる意味が見えたような気がした。演劇はお客さんと共に時間を越える力がある。その場、その時間を共有することのすばらしさを教えてもらったのである。

 終演後、ピザ屋に連れて行ってもらう。
 プロミッソン市とも明日はお別れでである。安永ファミリー、市役所の人とピンガを飲みながら「プロミッソン百周年には又、劇を持って来てください。」と言われる。もし、死んでいたら散骨させてもらおうと思った。
 約束した。

 今度、劇で来るとしたらメンバーも変わっていることだろう。今のメンバーだと若い劇団員たちは30代になっている。子どもがいる者もいるだろう。
 私と座長、卓さんは60代である。兄さんたちは70代、お父さんは百歳近く。
 生きている内に会いたい人たちばかりだ。

ブラジル公演日記【3】

2009-02-23 13:11:38 | ブラジル公演2009.2
 ブラジルに着いて2日目の朝を迎える。ここはサンパウロ市から内陸に600km向かった赤土の農場。アリアンサ市の弓場農場内テアトロ・ユバ。公演会場の第一ステージとなる。
 創立者の弓場勇氏(1926年5月26日ハワイ丸にて着伯。6月1日アリアンサ入植。1976年12月10日没70才)・・・「芸術すること、宗教すること、百姓すること。この三つがハーモニーした生活こそ人間の求める本質的な生き方である。」という生活に根差した思想の下に、舞踊家小原明子氏の指導による弓場バレエ団を組織した。

 2月6日(金)

 朝から仕込みに取り掛かる。
 弓場での会場担当は過眞嶋憲法(鈴木貞次郎役。通称ましまん。)・・・カマシマノリノリと読む。名古屋の少年王者舘の天野天街さんから名付けられて、本人は気に入っている。
 
 昨年2008年は劇団1980が「ええじゃないか」をここで上演した。気合が入る。昨年、ブラジルでは維新派(大阪)も上演しており、新劇以降の波が押し寄せていることに安堵感もあった。
 劇団笠戸丸は熊本から「小劇場」を発信しよう!とブラジルにやって来た。
 移民の父と言われる上塚周平をテーマにした劇である。その表現方法に「歌って踊る」シュールな感動を作ったつもりで来た。
 通用するだろうか。内心、不安はあった。
 舞台のセットを組み立てる作業で気は紛れるものの、手際の悪さが目に付く。日本から移動しただけで皆、疲れきっているのだろうか。暑さの故か。
 
 仕切っているのは村上精一。舞台監督として板についてきた。西岡卓さんとのコンビーネーションで、各自の分担作業を決める。
 だが、ここでも「出来る者・出来ない者」の個人差が目に付く。出来る者の個人負担が大きい。それぞれ頑張っているのだが、「出来ない者」の口数が多い。

 テアトロ・ユバではアリアンサ青年団が面倒をみてくれる。
 飲料水の確保、会場が乾いた土のために水まで撒いてくれる。椅子を並べる。音響や照明機器についても丁寧に教えて頂く。
 安永兄さんもずっと会場で立ち会ってくれていた。
 夕刻までにほぼ仕込が完了する。

 夕食後、ゆいちゃん、東田さん(通称、まなみぃ)、工藤慎平の三名の体調が悪く、近くの病院へ連れていってもらった。
 ユバ農場の方には何から何まで気を使って頂く。健康状態まで目を配って頂いていた。・・・私のところにやって来て、「あの子は舞台に立てる状態ではないのでは?」と何度も言ってくる。同じ舞台人として見抜かれていたのである。役者は体が資本!だということを一番に心得ている。
 「できることなら、プロミッソンまで休ませてあげなさい。」とも言われた。
 本番中に倒られると、「中止」ということにもなる。600人以上の来場者を予定しており、ユバ農場の方々も気が気ではないのだった。数百キロ離れたところからも貸し切りバスで見に来られることも聞いた。

 三人が病院へ運ばれている間にリハーサルはおこなわれた。
 ハプニングは想定していた。
 私は明日のリハーサルで劇の作り変えを考えていた。

 2月7日(土)

 座長はゆいちゃんと夜中まで話し合っていたと言う。座長も唇を切っており、早く休みたかったであろう。疲労困憊である。
 朝食後、私は土下座をして「今回のステージは休め」とゆいちゃんに言った。彼女も土下座して「出させて下さい」と言う。
 
 土下座の経験は過去にも経験あり。今回で二度目である。
 一度目はヤクザに対して土下座したことがある。若かった頃。殺されるかと思った。思い出したくない辛い過去である。今、こうして生きていられるのもヤクザが土下座を認めたからである。
 今回の土下座は、みんなのやさしさだと思っている。やさしさは厳しい。何でも言うことを聞いてあげることばかりがやさしさではない。
 しかし、話し合いが長引いてはならない。今日は本番なのだ。座長の一声。「仕方がない。」彼女の口癖が決断を早めた。「出演決定!」
 もし何かあったら、私がゆいちゃんを日本に連れて帰ってあげよう。その際は卓さんが照明係りに回ればよいか。このやさしさはホンモノだろうか。目を閉じることにした。時間がない。
 
 午前と午後に一本ずつリハーサルをする。体力勝負はつづく。集中力も要求される。風邪の二人組は回復したように見える。やはり、ゆいちゃんは心配であった。
 一人に気をとられている場合ではない。演出は全体なのだ。本番に向けてスイッチを切り替えた。
 集団活動の総決算が舞台に現れる。・・・第一ステージは始まる。

 夕方より農作業場倉庫では屋台が並んだ。貸し切りバスや乗用車が続々と集まって来た。
 7時半には開演だと思っていたが、受付では8時開演になっていた。屋台が7時45分まで営業だとのこと。
 アリアンサ市長も挨拶で駆けつけてくれることになっていたが、8時になっても来ず。もう30分押す。
 結局、一時間遅れて開演となる。日本だったら暴動が起こってしまうのではないだろうか。
 
 滑り出しの口上から拍手喝采である。650人で満席。後ろまで声が届いているのだろうか。後ろの席は日本語がわからないブラジル人が目立った。日系の方が訳してくれている。
 ポルトガル語で話すところで笑いが起こった。ちゃんと話せていたのだろうか。その心配はなく、現地の言葉(ポルトガル語)で台詞を言っていることに好感が持てたらしい。
 反応は上々。
 照明室は舞台下手袖にあるから振り向けば客席が良く見える。涙を流しているお客さんも大勢いた。
 エンディングではスタンディングコール「ブラボー!ビバ!万歳!」の声が聞こえた。これまでに経験したことのない歓迎である。
 
 公演終了後は出口でお客さんを役者たちが見送った。握手で見送る。一言ずつ励ましや感想を頂いて涙が溢れる。
 舞台バラシで夜11時を回っていたが、ユバ農場の方々とアリアンサ青年団の方たちが打ち上げ交流会の席を設けて待ってくれていた。
 若い者たちも多くいたから、劇団員たちも大はしゃぎである。
 特に会場担当者だったましまんは感慨深かったろうと思う。何でもが初めての経験であり、責任感の強い男である。

 酔いに任せてベッドで熟睡していると何やら柔らかい気配を感じた。
 劇団員の女優の誰かが酔って私のベッドに来たのかと思った。もう体力は残っていない。「今度ね、ゆっくり!」と囁いて目を開けると、大きな食用蛙だった、人間の頭くらいはある。完全に酔いが覚めた。
 食堂に行くと朝5時だというのにハル君が若い女の子たちと飲んでいた。彼は女好きじゃのう。健康な証拠である。

ブラジル公演日記【2】

2009-02-22 06:16:07 | ブラジル公演2009.2
 17名で旅立つことになった。他3名は仕事の長期欠席が不可能であったり、所属する劇団の活動で不具合あり。
 伊藤匠さん、井上菜穂子さん、蔵原壮一郎君。・・・昨年4月公演で流した汗を無駄にしない公演にできました。
 ブラジルでの観客はストレートな反応ばかりでした。

 どれだけの大きな思いで熊本から送り出して頂いたのか、私たちは計り知れない重圧を感じながら旅立つことができました。
 熊本のみならず全国からの個人的な寄付金も頂き、お金の問題ばかりでなく、稽古での和太鼓を提供して下さったり、マスコミ関係者のご協力や、ポルトガル語をご指導して下さった熊本県在住の日系の方々にもお礼申し上げます。

 (注)只今、報告書(パンフレット)作成につき、後日、ご協力頂いた方々の氏名や団体名を記してお礼とさせて頂きます。尚、記録ビデオを送付致します。

 2月4日(水)

 朝9時に阿蘇熊本空港に集合する。家族の車で送ってもらった者や自家用車で来た者、小雨降る中、これからの2週間の門出に不安と期待が入り乱れて緊張と笑顔で送り出して頂く。
 劇団と個人の荷物で一人では抱えきれない量になっていた。パネルや板関係は運ばず、布を中心にレイアウトするつもりではあったが、予備の電気類と小道具、衣装類だけでも大した量になっていた。

 羽田着12:00。リムジンバスにて成田空港へ。
 成田では旅行手続きをとって頂いたアルファーインテルの担当者さんが出迎えて下さる。旅費を一度に払えず分割で対応して下さったり、お礼してもしきれない限りです。
 デルタ航空にてアメリカ経由でアトランタに飛び立つ。
 この間、ハプニングが発生する。

 座長(夢現=さかもとまり)が機内で貧血を起こす。昨夜から徹夜しており、機内で缶ビールを飲んだのも原因かも知れないが、連日の強行スケジュールで制作者としては疲労困憊していたのである。
 トイレの金属に顔面から倒れこんだらしく、口を切ってしまった。口から血が溢れ出していた。機内にはアメリカ人の看護師がいてアトランタで縫ってもらった方が良いと指示された。
 咲希は目に涙を浮かべておろおろするばかり。アトランタに着いたのが9時間後で、縫うには時間が経過し過ぎており消毒だけで済ませる。
 予想外の出来事だったが、彼女の我慢強さに救われる。気弱になっていたら、ブラジルでの公演で暗雲に包み込まれるところだった。
 それにしても唇が切れたことで舞台で発声できるかどうか、内心不安であったろう。

 2月5日(木)

 日付変更線を超えており、実際は2日間の飛行機の旅であるが、現地時間のため、あくる朝にサンパウロ空港に着いた。
 
 夏である。
 日本を出発した時は冬だったのだが、ここに来て冷凍庫にあった肉がレンジでチンされた状態になった。
 硬いものが柔らかくなっていくのを体内で感じつつ、ブラジルの甘い匂いに酔ったようになる。甘い砂糖の味がどこからも感じる。
 
 ニッケイ新聞社のラウル社長と山根さんやプロミッソン市から安永兄(考道)さんが出迎えに来て下さっていた。
 これより弓場農場へ貸し切りバスで移動する。9時間の道中である。考道さんの同行で途中でブラジル料理を食べる。ステーキである。下見で来た昨年の9月では食べ過ぎてしまい胃弱を味わってしまったが、今回は自分の胃の消化力と相談しながら食べた。
 若い劇団員たちは流石に強い。一気に肉食獣になったように見えた。特に、田中幸太(上塚周平役)、馬場真治(音響、記録係り)、ハル君(夜逃げのフネタロウ役)のヘビー級トリオの食べっぷりには脱帽する。このトリオは中々図太くて気持ちが良い。

 弓場農場へ向かう途中、プロミッソン市に立ち寄る。
 若い劇団員たちにとってはおじいちゃん、私にとってお父さんである安永忠邦さん(今年の3月で米寿)と再会する。もうひとりの安永兄(和数)さんとも再会。
 お父さんは孫がたくさんやって来たようで顔が緩んで喜んでくれた。すぐに打解け合った。
 まるで劇中の光景である。みんな初対面の筈であるが、家族のように接してくれる。フルサト。
 プロミッソン市は第二会場となるが、私はこの会場の手ごわさを感じて緊張が走る。
 ここが劇の舞台だからだ。特別の想いがはちきれそうになる。・・・自分の力だけでは演劇は作り切れない。わかっていても、舞台にどう反映してよいものか途方に暮れる。
 安永ファミリーの劇団笠戸丸公演に向けての尽力なしには、この公演の実現もなかったようにも思う。サンパウロ州4会場を走り回ってくれていたのだった。
 大きな期待に応えきれるだろうか。本当に重いものを背負って来たのだ。

 夕刻に弓場農場に到着。
 バレエ団としてブラジルで公演をしている有名な農業自活集団である。代表のオバラアキコさんたちとも再会。
 固い握手で出迎えてくれる。交流会の前にバレエを見せて頂く。これで照明や音響のことがわかる。
 この農場は集落にもなっており、大きな食堂集会場の広場に面してテアトロユバ(劇場)がある。まるで野外劇場。
 村上精一はステージに向かって手を合わせていた。演劇人たる者、ステージには神様が見えるのである。

 安永兄(考道さん・信一さん)たちも同席の中、夜はブラジル焼酎、ピンガで酔う。
 農場の人々と飲み交わしながら、食事の時から気分が悪そうな山室優衣(ゆいちゃん)のことを心配してくれていた。長旅で疲れたのだろう、と彼女のことから目が離せない様子だった。
 
 明日は舞台仕込み、明後日、第一ステージが始まる。
 一晩寝て、体調万全でいきたいものだ。
 とは言っても、座長の切れた唇は一気に回復するものではない。ここはキャリアで頑張ってもらうしかない。
 彼女は妊娠中でも舞台に立って飛び跳ねていた経験を持つ。男より強い女なのだ。お互いに信頼することで成り立っている。
 
 舞台で死ねる役者はそう数多くないことはわかっている。そに内の一人は劇団笠戸丸にいる。

ブラジル公演日記【1】

2009-02-21 23:53:35 | ブラジル公演2009.2
 あれもこれも書き残しておきたい。そう思えるブラジル公演でありました。

 序
 
 2008年1月にユニットを結成し、その年の4月「ボクノフルサト。」熊本公演は、ブラジルでの公演が実現するとは夢にも思っていなかった。
 ブラジル移民百周年を記念しての演劇公演ではあったが、制作予算の目途はなく、「小劇場」ならではの手作り感覚で立ち上げたユニット劇団である。
 行政主導の企画ではなく、自発的企画である。当然、援助金などは出ないと思い込んだ。だが、公演会場である熊本市国際交流会館の自主文化事業として扱われ、結果、「公」と協力関係ができた。
 「ブラジル移民100周年記念事業・熊本」の実行委員会に所属していた力も働いていた。 
 
 3年前にユネスコの活動や高校生国際ボランティアで奔走されていた榊定信先生から「ブラジル移民劇」をやらないか、と誘われた時は、「面倒なことには巻き込まれたくない!」と逃げ惑っていたのが実情です。
 榊先生が2年前に亡くなり、一昨年の5月に清田さん(日本みどりの会)から「移民劇」の話を持ちかけられ、衝撃のタイミングで弔い公演を決意。お世話になった故人との因縁は私のみならず作者の田中瞳さん(通称、みんみん)にも言えた。
 
 集まって来たのは学生たちだった。大丈夫だろうか?ホンネを言うと演劇の基本的な考えも経験もない者たちに不安もあった。
 劇団夢桟敷のメンバーも総出で立ち向かうしかない。だが、座長=夢現は脚本を読んでから出演を決める、と慎重な構え。裏返せば脚本がダメだったら出演は拒否の構えである。夢桟敷を説得するのに時間はかかった。
 ユニットの気楽さ「縛られない自由さ」に疑問を持っている者もいた。

 脚本の構成に徹夜することもあった。乗る気でない夢現が常に立ち会っていた。初演出の田中幸太も異が痛くなるほど、稽古場に違和感を覚えていた時期もあった。
 学生サークルのノリにうんざりしていた。私は田中幸太に渇を入れるばかり。稽古終了後は彼と酒を飲むことが多くなり、ある意味、演出者としての結束が固まっていった。
 稽古場ではギクシャクとした空気が流れる。夢桟敷派とのギャップだろうか。辛い涙を流した女性もあった。女は扱い難いとも思った。「男になれ!」。・・・学芸会のようにも見えて気持ち悪くなる日々が続いた。ユニットとは言え、劇団なんだよ。心の底から学校演劇(教育演劇)を打ち消していた。「小劇場」を経験させたかった。演劇は自由の不自由さとの戦いでもある。舞台に立つ意味から出発する。初歩的なことを繰り返していたのである。
 年頃の男女。くっついたり離れたり・・・。君たちは何をしに来ているのだ。そんな空気がよどんでいた。

 (中略。・・・問題点を記しておきたいのは、劇作りは人間の有様が集団として現れ易いことと、容易ではないことを提起しておきたいからだった。表面的なきれいごとでオブラートに包み込むと、逆に無残である。)

 熊本公演を見られたブラジルからのお客さんにニッケイ新聞社の高木ラウル社長と移住者協会会長の小山さんからブラジル公演の話を持ちかけられる。日本みどりの会からも後押しされる。だが、お金はない。20名で行くとなると制作予算は如何ほどになるか、私にとって天文学的な数字が頭の中を過ぎっていた。

 昨年(2008年)8月末~9月10日までブラジル公演下見にみんみんと二人で出かける。サンパウロを拠点にラウル社長と小山会長にお世話になりながら、弓場農場劇場、プロミッソン市(上塚周平の開拓した植民地。移民の父と言われる熊本県城南町出身の人物)、ピラールドスール日本語学校などを訪問する。サンパウロ州2000kmの旅。
 
 上塚周平の墓参りに行った時、ブラジル公演の必然を感じた。この劇はブラジルで公演して価値が見えると思った。特に墓守をしている安永ファミリーに出会えたことがブラジル公演を身近に感じた。
 現実として迫られる。お墓を目の前にして涙が流れた。上塚先生の背後には無数の名もなき移民の苦難や死が感じられた。言葉では言い表せないものである。
 幼い頃に「事務所のおじさん=上塚周平先生」と接している安永のおじいちゃんには是非見てもらいたい、と思った。おじいちゃんも個人ではなく、移民の多くのものを背負っておられる。
 ブラジルの日系の人々から重く、おおらかに、大きな笑顔に私たちは包み込まれる。

 ブラジル公演を実現しよう!・・・半端な集団ではダメだ。何もかも見抜かれる鋭い視線とやさしさがブラジルにはある。ストレートな文化がここにある。

 大幅に脚本を改訂しての構成劇となる。
 熊本県からの経済的な援助(くまもとファンド21)もあり、劇団員たちの自己負担金を合わせて、必要経費の半分くらいは目途が立っていた。企業からの協賛金は厳しい状況ではあったが、個人からの寄付金が予想以上に集まる。感謝の念。

 各会場の担当者も決定し、能力に応じて集団的な力も見えてきた。
 若者には若者でしかやれないことがある。そう信じながら稽古と制作作業が続いた。・・・ブレーキのかかる稽古は少なくなった。
 私はマナミーこと東田さんをマークした。彼女を女優にしたかったのである。最年少の彼女の表情が乏しかったからである。・・・変わった。彼女が進化するのを見て周りも変わった。
 集団は一筋縄ではないが、確実に進化したと思った。

 ☆

 さて、旅日記である。
 日本では冬。ブラジルで解凍されることとなる。夏なのだ。
 解凍の公演日記につづく。
 不定期・不連続の旅公演を綴ります。

 (注)写真については後日、編集して新たなページで公開予定です。