山南ノート4【劇団夢桟敷】

山南ノート4冊目(2008.10.3~)
劇団夢桟敷の活動や個人のことなどのメモとして公開中。

言語不明?

2016-05-31 22:57:51 | モノローグ【エトセトラ】
「なかさにさ。」
?。。言語不明。

うちの孫が文明の機器をいじって、この「なかさにさ。」をある方のフェイスブックにコメントしたらしい。送信元はパパになっている。
くるくる爺さんは「うけるーっ!」と笑ってしまった。
この意味は「こんにちは。」と良いように訳した。
最近、ファミリーレストランに入って小さなお子さんが騒いでいても腹が立たなくなったよ。

因みに、昔の南阿蘇の牧場では「うなうな!」と叫んで牛たちを追う婆さんがいました。今では誰も知らない。



ところで、夜御飯外食中、座長が「先日、坂本スミ子さんに会ったよ。」と喋りだした。今、住んでいるアパートの近所、豪邸に住んでいるらしい。訳もなく嬉しくなったよ。
私たちはミーハーである。

あれはどこさ?

2016-05-29 19:19:27 | 熊本地震2016.4.震度7
今の住まいは物置場のようになっている。片付けられない症候の人ではありません。6月10日からの引っ越しに向けて荷物整理を座長と取り掛かった。
私はモノ探しに時間がかかる。緊急に必要な写真のCD1枚が見つからない。一日中、宝探しをして遊んでいるように見えるかもしれないが、何が何処にあるのかサッパリわからなくなっているのだ。

会議とアレ

2016-05-28 16:58:45 | 九州「劇」派2016
5月27日(金)
九州「劇」派//制作会議

基本的な予算案が見えてきたが、厳しさもある。ま、いつものことだ。支出と収入のバランスを計算しなければならないのです。
旅公演で頭が痛くなるのは交通費と宿泊費。ネット検索で経費削減を探った。ふむ。
お!仮面工房の関さんが正式に制作協力者として加わった。仕事のスピードが速いので大助かりだ。

「少女都市からの呼び声」(唐十郎 作)事務レベルで動き出した。稽古は6月よりスタート。

5月28日(土)

必ず今日の日付と曜日を声をあげて確認するようにしている。認知症予防のための習慣にしたい。
固有名詞が出てこないことがある。そういう場合、「アレです。」の代名詞を使う。「アレ、アレ、アレがコウしてソウなるのです。」自分でヤバイ!と情けなくなる。
アレとは?「少女都市からの呼び声」に登場する少女雪子や田口、有沢、ビン子、オテナの塔へ登ろうとする老人AとB。そして、フランケ醜態博士である。
それぞれの役者たちがこぼれ落としてくれるものを拾い集めようと思う。
ことばや肉体からこぼれ落ちるものが宝であり、命だ。
自分も舞台に立ちたいであります。却下と言わないでね。
アブちゃんをつけた少女か、防空頭巾の少女!
子宮の中で眠っている誰かと巡り会いたいアレだ。

プライベートな夜とプラス

2016-05-27 10:51:51 | モノローグ【エトセトラ】
4月14日からテレビも無ぇ、デジタル機器(パソコンなど) も無ぇ、冷蔵庫もレンジもオーブンも炊飯器も無ぇ。つまり、友人や親戚からもらった保存食とコンビニ弁当、ファミレスなどの外食で食いつないでおります。自炊ができないのです。
今夜は久しぶりに座長と二人きりで居酒屋に行った。酵母菌は飲み過ぎなければ体に良し!免疫力が高まりますね。百薬の長だー。
6月10日より新居へ引っ越すのを指折り数えており、その作業と次の公演準備が同時進行となっている。
帰り道、方向は反対になりますが、娘夫婦の新居に4番の孫と猫の おおもり君に会ってきたよ。
清く正しく クルクルパー!をモットーにしながら日付が変わってしまった。
今夜はおとなしく寝て、明日は朝から劇団の制作会議のことを進めよう。はい、脱力!

【追加記事】

新宿梁山泊の金守珍さんの過日亡くなられた蜷川さんへの追悼記事です。
夜中に帰り着き、すぐにでも寝ようと思ったのですが、この記事を読んで、つるんとした脳が伸びたり縮んだり屈伸を始めた。眠れない!モヤモヤではなく頭がスッキリしてきたのだ。
追悼文の流れは唐十郎さんとの出会いや、そこで学んだこと、蜷川さんがそのきっかけを作ってくれたことが述べられています。
出会いですね。待っててもダメですね。守珍さんはとても素晴らしい環境と体験をされている。
私にも人生を変えてくれた良い出会いがありました。本当に感謝しています。
守珍さんが関係した蜷川さんや唐さんとは距離感が違い過ぎて羨ましいやら嫉妬したくなるやら!バネになります。
まずは、この記事を一番読んでもらいたいのは、今から取り組む「少女都市からの呼び声」(唐十郎 作)九州「劇」派メンバーだ。
今日の夜は制作会議がある。守珍さんのことが話題になるのが目に見えてきましたよ。
何故、space早稲田演劇フェスティバルに参加するのか。何故、唐十郎作品なのか。その道筋を立てて行こうと思います。

以下、金守珍さんの記事

シアターコクーンから演出の依頼を受けた。とても光栄な事ではあるが、同時に寂しさが込み上げてくる。役者の私を演出できるのは唐十郎と蜷川幸雄しかいない・・・。

追悼文(シアターコクーンに向けた)
 蜷川さんの訃報を聞き、あぁ、とうとうその日が来たのかと、全身の力が抜けた。それは14年前に父を亡くした時の感覚と、とてもよく似ていた。
 演劇を志した若い頃、初めて蜷川さんが演出する『オイディプス王』を見て、これほどダイナミックな表現をする日本人がいるのかと激しい衝撃を受けた。そこで私は「蜷川教室第一期生募集」の告知を見つけた時、迷わず応募した。
 教室で蜷川さんはしきりに「おまえら、唐十郎の状況劇場を見て来たか!」と檄を飛ばし、エチュードでは『盲導犬』が使われる。その台詞に感動を覚え、状況劇場の『ユニコーン物語』を見に行くと、意味はよくわからないがなぜか体がカッと燃え上がった。その後『近松心中物語』や『ノートルダム・ド・パリ』『ロミオとジュリエット』の舞台に立たせてもらったが、熱気をはらんだテント芝居が忘れられない。そこで『ロミオとジュリエット』の楽日に帝国劇場の屋上で打ち上げをしている時、蜷川さんに「しばらく状況劇場で修行し、成長して帰ってきます」と宣言した。1979年夏のことだ。
 翌日から毎日唐十郎の稽古場に押しかけ、6日目にやっと本人にお会いでき、「丁稚奉公をさせてください」と直談判。そこから研究生以下の「飼育生」としての生活が始まる。私は唐さんの小説を芝居化したりするなかで徐々に認められ、異形の役をもらえるようになった。たまに状況劇場を見に来る蜷川さんからは、「おまえ、がんばっているな」と声をかけてもらった。
1987年、唐さんの『少女都市からの呼び声』を自ら作り上げたいと思いから、新宿梁山泊を旗揚げした。旗揚げ当初は在日コリアンをテーマにした作品が中心だったが、満を持して唐十郎の作品を演出。以来、今に至るまで唐作品に取り組み続けている。
私は演出家としても、役者としても、若い日に蜷川さんから教わったふたつの言葉を自分の座右の銘としてきた。そのひとつが「幕開き3分勝負」。日常を背負って劇場に来た観客を、3分以内に日常から引き離さなくてはいけない。その仕掛けをいかにつくるかが、演出家の重要な仕事だ。もうひとつが、「役者は一生自分の言葉を持つな。そこに悲惨と栄光がある」。役者は自分の生理で台詞を変えてはいけない。作家の言葉を完全に消化する、精神と肉体のタフさを持たねばならない。そしてスペクタクルな演出も、蜷川さんから学んだ。
蜷川さんが演出する寺山修司作品『血はたったまま眠っている』に役者として出て呼ばれたのは、6年前のことだ。公演中、「僕の演出は、すべて蜷川さんからもらったものです。僕は蜷川さんの弟子でいいですよね」と言ったら、蜷川さんはすっと手を出して私に握手を求め、「ありがとう」とひとこと言ってくれた。その瞬間、涙があふれ出て止まらない。5年くらいで戻るつもりでアングラの世界に修行に出て、実に31年。放蕩息子はやっと演劇的父の懐に戻ってくることができたのだ。
 蜷川さんはもともとアングラ演劇から出発し、商業演劇で「世界の蜷川」となった。だが常に、アングラ演劇への強い思いを持ち続けていた。テントという子宮の中に咲く闇の花は、大きな劇場の光の元でも決してその魅力を失わない。そのことをダイナミックかつ繊細な演出で、私たちに見せてくれた。  
晩年はもう一度アングラと向き合い直したいという思いから、唐十郎や寺山修司の作品をたてつづけに演出した。そんな蜷川さんがどうしても手掛けたかったのが、唐十郎の『ビニールの城』だ。それだけ思いの深い作品だった。その願いがかなう前に逝ってしまったことは、本当に悔やまれてならない。
 私はこの作品に役者としてキャスティングされていたが、蜷川さんが入院したため、蜷川さんの演出を手助けできないかと考えていた。だが残念ながら、間に合わなかった。しかしBunkamuraに演出を依頼されたからには、蜷川さんはこうしたかったであろうとイメージし、そこに向かって全力で進むしかない。
 蜷川さんの死によって、アングラ1世代は確実に終わろうとしている。アングラ芝居は一種の風俗として始まり、世界に誇る日本の演劇文化として育っていった。この文化をしっかり定着させ、次代につなげていけるかどうかは、私たち2世代目、3世代目にかかっている。演出家・蜷川幸雄が最後まで抱き続けた、劇作家・唐十郎への敬愛の念を、なんとか形にしていきたい。この2人のエッセンスを後世につなげていくことが、私の使命だと思っている。

     2016年5月16日  新宿梁山泊代表  金 守珍

メンバー公開

2016-05-25 00:38:07 | 九州「劇」派2016
2014年12月、劇団夢桟敷「火の君、鳥の物語」東京公演につづく公演でもあります。但し、次回はユニット 九州「劇」派と名乗り、space早稲田演劇フェスティバルに参加することを目的に新たに結成しました。昨年より福岡市の劇団との合同公演のつもりで計画を進めて参りましたが、諸事情により福岡の劇団が参加できなくなり、結果、コンパクトな集団で固めることに!コンパクト故に無駄はありません。
海千山千!いいんじゃないの。役者はバリバリに揃いました。
この5月に募集のためのワークショップを2回おこない、メンバーの個性や力は充分に理解することもできました。
公演は10月21日(金)ー23日(日)の5ステージで短期集中になります。会場はspace早稲田。都の西北、前回と同じ場所です。
4月の熊本地震によって活動は一時的に停滞したものの、熊本の元気をお届けする良い機会であるとも思います。応援をよろしくお願いします。
福岡市や久留米市からの参加者は高い交通費を払っての稽古がこれから続きます。又、東京からも強力な客演さんを仲間に頂きました。こころ強い!チャチャチャ。
12月熊本公演の会場が今のところ決定されておりませんが、予定しております。お楽しみにして下さい。
とりあえず、現時点でのメンバーを公開致します。

そしてハジマル。

2016-05-24 10:48:10 | 九州「劇」派2016
■ことのはじまり(3)

初めて紅テントをこの目で見た時は巨大な子宮だと思った。
1978年「ユニコン物語」、熊本市子飼橋河川敷にぶっ建てられた子宮は橋や道路、仕出し屋の建物や川向こうの商店街を見上げる。下から目線で夕闇に包まれていく巨大な子宮も夜になると小さく感じる。巨大な夜空に包まれた子宮だ。
子宮が風景に溶けるとは?川の流れる音が体内の音のように聞こえる。どっくん、どっくん。海に向かって落ちる音か。
ポスターには「子飼橋」の名称を「子買橋」と書かれていた。子どもを売り買いする橋。一気に虚構へ想像力が掻き立てられた。

拝啓 唐十郎様。
あれから幾年、流れたでありましょうか。
生まれる前に見た夢からでしょうか。指折り数えて百年、千年、何万年?
私たちが生きているこの宇宙は気が遠くなるような大子宮でしょうか。
わからん!わからんことの魅力は永遠に広がります。
しかーし、これは神秘主義ではありません。紛れもない、もう1つの現実に出くわしてしまったのです。
これから行く未来は?
不安があります。人は子宮からハズレっぱなしになるのではないかという不安がのしかかってくるのです。
命はガラスの中から生まれることが現実味を帯びてきました。何故に虚構が現実に襲いかかってくるのでしょう。いや、現実主義が想像力を萎えさせてしまうのか?
夢の暴力。
裏返せば、夢の暴力は演劇のやさしさだと思います。意図せず、狂った現実へ仕返しを!ここには薄っぺらな愛や恋はなく、あるのは暴力的なやさしさ。演劇があります。
いつまでも生きて下さい。お体、大切にして下さい。

(注)ユニット 九州「劇」派
「拝啓 唐十郎さま『少女都市からの呼び声』より」
space早稲田演劇フェスティバル参加上演致します。
時)10月21日(金)~23日(日)
乞うご期待!
※尚、熊本公演は12月、会場は地震のため当初予定していた会場が取り壊されることになり、只今、公演会場を探しております。近日中に発表致します。

ハジマリはじまり。

2016-05-23 14:29:40 | 九州「劇」派2016
■ことのはじまり(2)

1979年ー1984年、ポストアングラ!を掲げて東京で劇団を旗揚げしたものの、そもそも「アングラ」と言われる演劇自体を曖昧模糊なものとしてしか捉えていなかった。要するに演劇を歴史的体系的に捉えようとはしていなかったのである。振り返れば、バカだ、アホだったと自虐的に思うことばかり。それも今だから楽しい。若気の至りは「どうもすみません。」で落着する。

(注)夢桟敷は東京時代、その前身を劇団ブラックホールと名乗っていた。1984年7月に熊本に戻って名称を「夢桟敷」に変更した。

正直に言うとアングラを一括することは出来なかった。劇団によって個性が強過ぎたもの。はみ出ていたもの。
一括りに言えることは1960年代の新劇批判にあったように思う。ところが、この新劇についても一括りにして良いものか疑問もあった。それは商業演劇から文芸路線、リアリズム社会派まで幅広くあったからである。

1980年代は新劇ーアングラ劇の境界線自体が薄れていった時代になっていたように思う。つまり、60年代ー70年代前半を知らない若い世代が小劇場の分野に台頭し始めたのが80年代からの特徴としてあった。知らないことも武器になるのか?何やらお子様ランチを食べているような演劇の楽しさも感じたのだが。
役者たちのメジャー志向も高まっていた。テレビ出演の下部組織が劇団のようにも位置付けられているではないか。
本来ならば、私たちの演劇も世代的に言うと小劇場第三世代に属するものであったかもしれないが、ここは本家アングラを頑固に意識していた。本家とは天井桟敷、状況劇場、黒テント、早稲田小劇場のアングラ四天王と言われる劇団だった。手に届かない雲の上の劇団。

その流れの中から突出して登場したように見えたのが、演劇団(現 流山児★事務所)と転位21だった。こころの師、流山児さんとは高田馬場群六舎スタジオを稽古場として使わせてもらっていたから身近にお会いする機会が多かった。演劇の教材はここから吸収しまくった。こころの師、転位の山崎哲さんへの批判とも悪口とも言えることも鵜呑み吸収した。とは言うものの転位から大きな影響も受けた。犯罪や事件を題材に日常や自身の中にもあるモヤモヤがえぐられる思いで接していた。自分の解体作業に立たされた。

政治の党派闘争と違って、演劇の内ゲバは面白いもんだ。兄弟喧嘩をすればする程、仲良しに見えたのだ。喧嘩って楽しいなーと思った。憧れた。その最たる事件が状況劇場と天井桟敷の新宿騒乱事件である。
あれこれどさくさ紛れに1979年ー1984年東京時代は演劇修行の時であったと思う。(実は今でも続いているのだが。)

※写真はセンターど真ん中が東京時代の「ピンク中毒」1980年の座長=夢現と海幸大介。周りは2005年 近畿大学唐十郎フェスに参加した劇団夢桟敷「愛の乞食」より。

始まりのハジマリ

2016-05-22 09:38:15 | 九州「劇」派2016
■ことのはじまり(1)
今から38年前、1978年10月だった。
その前年の1年間は大阪の電気メーカーでサラリーマン生活を送っていた。体を壊して会社から脱走、熊本でのフーテンのトラ生活の時に赤テント状況劇場「ユニコン物語」に出会った。チケットの販売を目的にした実行委員会に入っていたのだが、チケットは飛ぶように売れていた。それは状況劇場に所属していた俳優さんたちがNHK大河ドラマ「黄金の日々」に出演していたことも大きな要因だった。
受け入れ実行委員会の拠点となっていた喫茶ジョイで唐十郎さんをはじめて見た時は体が震えた。アングラの帝王!
「ちぇちぇちぇ、何処でもうちにミーハーばかりが集るようになっちまった。」とつぶやいて笑っていた。
子飼橋河川敷に建てられた赤テントには長い行列ができてテント内はぎゅうぎゅう詰めになった。丸坊主のお兄さんが「もう少し詰めて下さい!ほれ、よいしょ!」と掛け声を発すると、どどっと外で入り切れなかったお客さんが押し寄せてくる。この場内整理係の人は天才だと思った。無理を可能にする人。この時点で芝居の醍醐味に目眩を起こした。後になって、その人は通称クマさんであったことを知った。「ユニコン物語」のポスターを作った人であり、世にゲージツ家として知られるようになった方だった。
ぎゅうぎゅう詰めはまんざらでもなかった。私は美人美女たちに囲まれていたからだった。肌と肌がぴったりと吸いついた中で夢心地になっていた。
開演するなり、「いよッ、レイセン!、ジンパチ!、小林!」などと掛け声があがった。アングラとは大衆演劇か歌舞伎のようにも見えた。観客と舞台の一体化とは気持ちの良いもんだ。水筒に隠していた球磨焼酎を終演までに飲み干してしまった。
これだ。この時に演劇の道に入ろうと思った。
26才、無職だった青年の途方もない演劇の旅はここから始まった、と言っても過言ではない。
若かった故もあり、ポストアングラに目覚めたのである。

「劇」派ワークショップ(2)

2016-05-21 02:44:49 | 九州「劇」派2016
ユニット 九州「劇」派 始動2
5月20日(金)
2回目のワークショップはオドリ➡歌➡本読み。
【出演者 決定】
肥後丸.(久留米市)
夢現
海幸大介
工藤慎平
太郎
峰尾かおり(福岡市フリー)
新大久保鷹(東京 客演)
山南純平(落選?◯あるいは!)

スタッフ◯タカハシユウジ(音楽)
東京協力◯森川陽月
東京協力◯村山治
他 スタッフ交渉中。

出演内定2名//出演交渉中1名


九州「劇」派はSpace早稲田演劇フェスティバル参加を目的に結成します。
ユニット名については1960年代に登場した前衛美術の九州派をイメージしました。
4月熊本-大分大震災からの復興をアバンギャルドの力!演劇で!
唐十郎 作「少女都市からの呼び声」には肉体から転げ落ち人々の復興があります。
ガラスの子宮は何を生む、ここから新たな命が生まれます。

■タイトル作演出
拝啓 唐十郎さま 「少女都市からの呼び声」より
作//唐十郎
演出//山南純平

■公演スケジュール
10月21日(金) 19:00開演
10月22日(土) 13:00開演//17:00開演
10月23日(日) 13:00開演//17:00開演
■チケット料金 前売り開始日
前売3000円//当日3500円
8月20日(土)より
■チケット取り扱い先
銀座熊本館 他
■劇団Website
九州「劇」派ホームページ
http://gekiha.wix.com/gekiha
■予約お問合せ
九州「劇」派 09045815190(事務局)
■熊本公演
12月9日(金)10(土)11日(日)//会場--交渉中

山都町にて

2016-05-20 04:52:46 | モノローグ【エトセトラ】
5月18日

座長の実家、熊本県山都町に来ています。国の重要文化財、通潤橋が痛々しい。
生後21日の孫と10日ぶりに会う。丸みを帯びて成長していることに和むジジばかです。
ここにいると脳の皺がツルンとしてくる。下界に比べると刺激がないからだ。時間の流れも緩やかになり、動きもスローになる。
のんびりを活用して次のワークショップのプログラムを練っています。
ところで、二転三転していた引っ越し先がやっと決まった。今度こそ本当です。入居は6月10日から。ヒビ、カビの今のアパートからは解放される。それにしても住居移転を希望しながらも決まっていない賃貸住居者が6割もいるという。

5月19日

明日20日(金)は2回目にして最終回のワークショップになります。これは来る10月のspace早稲田演劇フェスティバル 東京公演に向けて出演者を募集する目的で行われています。
現在、10名程度が内定されており、明日のワークショップが終わり次第、配役やスタッフを決定します。
尚、12月の熊本公演の計画を立てております。未だ会場が決定されておりませんが、近日中には発表する予定です。当初、予定していた会場が震災の影響で上演が難しくなっており、公共ホールもメドが立っていない状況です。
発想の転換!臨機応変!困難な時にこそ、新たな展開を発見できます。
明日のワークショップでは、突然の訪問者も期待しています。想定外が新たな力を生み出すこともあり得る。

癒された山都町からカビ臭いアパートに帰り、ぼんやりと天井を眺めながら眠ってしまった。大きな揺れを感じて天井から押しつぶされる夢を見て目が覚めた。久しぶりに熟睡したのか、恐ろしい夢を見た割には頭が爽やかである。午前4時前。
生きている。良かった。このままでは死にきれない。
ふと、目に飛び込んできたのが山崎哲さんの「うお伝説」上映会のお知らせだった。1980年の頃が鮮明に蘇った。
1968年~アンダーグラウンドの演劇はメディアから発信される情報でしかなかった。学生演劇を経験したことはあるが、実は当時のサブカルチャーや最先端、演劇の革命を体験することはなかった。田舎に住んでいると頭デッカチになるものだ。情報だけでわかったような気分になる。
それが、1978年、黒テントの赤い教室シリーズ「馬 阿部定」や赤テントの「ユニコン物語」が立て続けに熊本にやって来た。
演劇だ!遅れて立ち上がったのが1979年、座長さかもとまり(夢現)と4人で熊本から東京へ劇団を作りに飛び出して行った。座長が早稲田大学文学部へ編入したこともきっかけにあったが。
右も左もわからない大都会で出会ったのが流山児さんの演劇団や哲さんの転位21だった。更に、右も左もわからなくなった。漂流の始まりである。暗黒舞踏を見てパーン!と頭が破裂し、天井桟敷を見て腰が抜けた。
流山児さんから「アングラ?そりゃあもう、カビだぜ、ぺッ!」と言われ失語症になりかけた。
哲さんの「うお伝説」を見た時はバラバラと解体される自分を感じた。
ここでは書ききれないことが1980年前後に山ほどある。
遅れてきた演劇青年は今やくるくるパーの白髪爺さんになったよ。
面白いじゃないか。先輩諸氏、亡くなられた方々もたくさんいるが、追っかける人たちがいる。
行ってみたいな、「うお伝説」へ。引退?演劇にはそれがないね。

熊本地震 3日間の記録

2016-05-17 17:46:04 | 熊本地震2016.4.震度7
まえがき

昨日(5月16日)夜の9時過ぎ頃、茨城県を震源とする震度5の地震があった。丁度、その頃、ブラジル公演2018年に向けての団結と計画の会議中だった。会議は途切れ、熊本地震のことが蘇った。うんざりする程、脳裏から離れない。今でも余震は続いており、いつになったら終息するのかわからない。トラウマになってしまった人々も多い。人間、自然現象の下ではそんなに強くはないものだと繰り返して思うようになった。
あれから1ヶ月が過ぎ、自分で勝手に命名した「引きづり地震」あるいは「ぬかるみの地震」が発生した3日間のことを振り返る。400年に一度と言われる震度6強と震度7を体験した個人的な体験談である。

4月14日(木)

明日の演劇ワークショップのテキストをまとめる作業で日中を過ごしていた。これが日常となっている。
いつもは気分転換で部屋から出て座長と夜の外食をするつもりだったのだが、その日は久しぶりに家でカレーライスを作って食べようということにした。テレビを見ながら「つまらん!」と思いながら笑っていた。食べ終わった夜の9時過ぎ、いきなりヤツがやって来た。顔面の縦じわが深くなった。
本やカセットテープ、CD、DVD、戸棚や机、タンスが流れ込んできたように思えた。大きく横揺れと縦揺れを感じる。私たちは鉄骨のアパートの2階に住んでいる。このまま落ちてしまうのではないかと恐怖に襲われた。階下には小学生の可愛い少年が住んでいる家族がいる。押し潰してしまうのではないか!無惨な光景を想像した。電気が切れた。早く外に出よう!と焦った。持って出るものは?座長はiフォンと現金、私はiPadを持ち出した。情報が欲しかった。まずはそれが先決だった。家族や友人たちの消息が知りたかった。
外に出ると夜空にヘリコプターが4機ほど旋回。救急車や消防車、パトカーのサイレンが鳴り響いていた。ご近所さんたちも続々と集まってきて、「大丈夫でしたか?」と挨拶を交し合った。
余震が切れ目なく続く中、「そうだ、食料と水を確保しよう。」と車を発進した。幸い、近くのコンビニは空いていた、店一面に落下した商品を片付けていた。売り物は菓子とジュースくらいしか並べていなかった。お客さんが殺到していた。
今夜は近くの小学校の体育館に避難しよう!と様子を見に行ったが、余震の揺れで照明器が落ちてきそうな予感と人々の悲鳴で、ここでは落ち着かない!と車中泊を決め込んだ。

4月15日(金)

いつまでも眠れない。iPadでこの地震の情報を収集していた。座長はメールでみんなの無事を確かめていた。電話が繋がらないのだ。家の中に帰ろうとする者はいない。夜中の道路は近所の人たちの溜まり場になっていた。
震源地は隣の益城町だということがわかった。震度7?個人的なLINEでも様子を探っていると、「動物園から虎が脱走した。」「水源に毒を入れた。」など、馬鹿げた情報が拡散されていた。
若い消防団の人が法被姿で近所の様子を見回っていた。「閉じ込められていませんか?」「ガスの元栓を閉めましたか?」「電気のブレーカーを落として下さい。」「独居老人の方、知っていたら教えて下さい。」「怪我をされた方はいませんか?」一生懸命に呼びかけていた。ありがたいことだ。自分の家のことや家族の心配なこともあろうに走り回っていた。目頭が熱くなった。滲んだ目で川内原発を止めたのだろうか?と調べていたが、一向に止めたという情報は入らなかった。涙は乾いた。縦じわが更に深くなった。
眠れないまま朝を迎えた。部屋の様子を見に行ったら、ガラスの破片が散乱していた。
劇団員タロー君が部屋の片付けを手伝いに来てくれた。スペースが確保できたところで「美味しいものでも食べに行こう!」ということになり、空いている食事処を探しに座長と3人で車で移動した。その時!信号待ちでブレーキをかけようとスピードを緩めている最中、猛烈な音が襲いかかった。痛い!ブレーキを強く踏みしめた。再び、猛烈に追突された。こんな時になんてこった。追突してきた老人は益城町で家を全壊された人だった。気が動転したまま、ブレーキとアクセルを踏み間違えたと言う。すぐに警察を呼び、ムチウチが心配だったから病院に向かった。立て続けの災難だった。
この夜は空いたスペースで家の中で寝ることにした。コンビニも食事処も閉店している。とにかく眠りたかった。

4月16日(土)

夜中の1時過ぎだった。ガシャーン!メリメリ!14日の揺れよりも大きなものを感じて飛び起きた。長い!揺れが止まらない。座長と手と手を取り合って揺れが止まるのを待った。まっすぐ歩けない。もう、いい加減にしてくれ!と地面を叩いた。アスファルトにヒビが入っていることが見られた。余震が更に大きく感じられた。道路に集まってきた住人たちも余震があるたびに立っていられず座り込んでいた。
川内原発が止まっていないことを知っていた。止めなかればならない!これが常識だと思うのだが、九州電力や行政、お国のオエライ人たちは「止めないこと。」を常識と思っているのだろうか。苛立ちは治らない。
瓦が落下していた。近くの公園や駐車場も人集りになっていた。
電気 ガス 水道 は完全に切れていた。車中泊である。
若い消防団の方たちが走り回っていた。一見、ヤンキーそうな若者も混じっていた。こころの中で叫んだよ。
「ありがとう、ヤンキー!」
近所の若い住人たちである。余裕があったら「一杯、飲めや。」と言いたいところだ。
この日も眠ることができなかった。
バス、電車も運行停止。ヘリコプター、消防車、救急車のサイレンが鳴り響き、これは夢の中の出来事ではないと理解しつつ、景色がぼやけてしまう自分に呆れていた。

あとがき

3日のことだけを記憶や気持ちで振り返ってみた。
この3日間、怯えながらも、あの人この人、あの時この時、眠れない夜の中で思い浮かべていた。
妊婦の娘もこの恐怖を体験して、無事に出産してくれたことに明るいニュースとして何倍にも幸せを感じことができたよ。
まだまだ予断は許されないが、不意に襲いかかった震災の体験を通じて、5年前の東日本大震災は他人ごとではないことを痛感した。
昨日の茨城の地震のニュースで他人ごとではない!と改めて感じる。この島国は天変地異の歴史でもあり、だからこそ戦争や原子力なる人災という危険からは人智で防ぐことを求めようと思う。

二転三転

2016-05-16 11:29:03 | モノローグ【エトセトラ】
眼が覚めると「長崎は今日も雨だった。」いやいや、ここは熊本じゃけえ。。
写真は広島を舞台とした「仁義なき戦い」。文太さんにあこがれたのう。
今や、 市民とヤクザの区別がつかんのう。経済が市民をヤクザ化させたのか、ヤクザが市民に化けているのか。よう、わからんのう。
只今、全国で同時多発ピースリーディングが展開されとるのう。ええのう、ええのう!
わしら、しがない熊本地震界隈では引っ越しにあたふたしており、同時に、12月の熊本公演を実現するべく九州「劇」派は会場探しに奔走しちょるのう。
同時に、2018年ブラジル公演に向けて再スタートする準備の会議が今日の夜、あるのう。
今日も忙しいのう。同時多発のピースじゃのう。

朝一番で電話が入る。引っ越しの件である。
座長から「一昨日の仮契約した一戸建二階の水前寺の物件、ダメ!」の連絡だった。
実は彼女の働く会社による被災援助の要件にはまらないということ。アパートかマンションが条件になっていた。社宅もあるのだが、それはもう手遅れだった。
熊本市都心部にコネ有りのマンションがある。最後の一手はコネしかない。
二転三転である。

アングラ劇は善玉菌である

2016-05-15 23:38:10 | モノローグ【エトセトラ】
こんな汚い写真を載せてごめんなさい。
カビです。放っておくと、男おいどん、これに包まれて過ごすことになり、それは恐怖です。
天井のカビは拭き取れるものの、戸袋や落下した換気扇の場所は手が届かない。
今の住居は屋根の修理がようやく進み、雨漏りはしなくなった。
倒壊した家屋の方々からすると、なんて小さな悩みなんだと笑われるでしょう。
ダメなんです。カビを見ただけでも蕁麻疹が出てしまう。
カビにも色々あり、善玉菌は大丈夫!
特にクロレラ菌やビールの酵母菌は我ら人類の友だ。
今から取り掛かるアングラ劇「少女都市からの呼び声」(作:唐十郎)も善玉菌だ。
5月20日(金)19:00-22:00 熊本電鉄亀井駅裏の亀井公民館にて2回目にして最終回の東京公演10月に向けた募集を兼ねた九州「劇」派の演劇ワークショップをおこないますので、興味のある方はご参加下さい。
前回のワークショップで内定者が決まりました。残りポストは僅かです。個性溢れる役者さん、来れ!
問)09045815190(事務局)まで。



気忙しい1日だった。
1.
6月 引っ越しの段取り
2.
10月 九州「劇」派の段取り
3.
2018年ブラジル公演の段取り

段取りだけで1日が暮れてしまった。
明日16日(月)は以上の3段取りを同時進行で行動する。
男おいどん、くるくるぱ~になる前にサルマタ布団に入りましょ。

あれから

2016-05-14 15:20:56 | 熊本地震2016.4.震度7
あれから1ヶ月か。今でも避難所暮らしの方々が一万人いるという。余震は1ヶ月で1400回を超えたらしい。
熊本地震を私なりに命名した。引きづり地震と申します。
地の神様よ、いつまでもネチネチグチグチやめて欲しい。川内原発とめんかい。フクシマの教訓が活かされていないことに憤慨する。
さて、引っ越しのスタートが遅れたが、やっと水前寺に物件を見つけ出し、今日、仮契約を済ませた。一戸建て二階。一階のリビングを劇団の事務所として使いましょう。
あれやこれやで、実際の引っ越しは6月に入る見込み。