山南ノート4【劇団夢桟敷】

山南ノート4冊目(2008.10.3~)
劇団夢桟敷の活動や個人のことなどのメモとして公開中。

劇トレ④「歩く」

2010-05-21 23:26:31 | モノローグ【エトセトラ】
5月連休明けより、「劇」基礎トレーニングを進めている。何も考えずに今まで通りのことを繰り返していればいいのだが、そうは問屋がおろさない。(イカのキンタマである!・・・わからん)
基本的には「役者の身体作り」をテーマに据えているのだが、理想的な役者像がある訳でもない。
言葉で言うのは簡単・・・「役者は舞台にスカッ!と立つ」。そんなことを稽古中に何度も吐いていたのだが、人によっては空振りする。つまり、違和感という奴だ。どうやら「理論」では太刀打ち出来ないのが「役者の身体作り」ではないだろうか。
だが、結果論として稽古のシステムはある。
私たちの劇団では「歩く」トレーニングを繰り返してきた。いわゆるウォーキングである。一歩間違えば流行の波に乗って大金持ちになっていたかもしれない。もっと外へ向けてウォーキングを発信すれば、今、「歩く」トレーニングで世界を飛び回っていただろう。あ~、口が滑った。
残念ながらダイエットや健康に良い「歩き方」ではない。あ~、口が滑った。ダイエットなどと言えば詐欺になるから、言わないだけのこと。痩せるためのウォーキングではない。狭い舞台の上で場面を転換したり、時間を運ぶ手段としてウォーキングと位置づけている。



音楽を流す。日常感覚で「歩く」ことから始める。徐々にリズムを合わせる。ファッションショーのモデルになったつもりでポーズを決める。ターンする。・・・見られることが気持いいか。自己アピールできただろうか。問題は自分の歩く姿が「カッコいいか?」である。
カッコいいー!とは何だろう?・・・役者はお客さんに見られてナンボーの世界。男だったら女性から「キャー、ステキ!」と言われること。だが、夢桟敷の場合「変」である。「キャー、怖い!」と言われることがある。舞台は悪人も必要である。善人ばかりだと面白くない。

音楽を切る、off。歩く行為をスローモーションにする。身体が移動する際の細部の神経、筋肉を感じることが出来る。ヘタに緊張すると右足右手が同時に前に出たりする。ヘタに緊張していると不自然なことに気づかない。ヘタに気づくと笑える。・・・(注)ヘタがわかって、そのヘタさ加減を取り入れると客席が和むこともある。役者に余裕があればヘタも引き出しの一つにする貪欲さは必要。例えば、年長の座長、私、卓草四朗は見本のようなものだ。あ~、口が滑った。
ヘタな舞台俳優は個性派俳優として飽きられることがない。だから、ヘタを否定することはできない。うまい役者さんなら掃いて捨てる程いる。でも長続きはしていないような気がする。花の命は短くて・・・。

実は、スローモーションのステップは訓練を積み重ねないと危険な動作だということがわかる。重労働なのである。
体重移動を安定させていないと見る側からすると落ち着かない。アタマが揺れる。腰がふらついて見える。足が地に着いてない。
テレビや映画だとカメラワークでズームすることが出来るが、舞台だと役者の身体そのものがズームすることになる。
「歩く」こと、すなわち、身体を移動させることは劇にとって疎かにできないことだと確信しているのです。

欧米などの狩猟民族と我々農耕民族の文化の違いを「歩く」ことから考えてみる。
伝統的に日本の芸能は床を叩いて歩いたり、「すり足」のように足の裏を這わせて歩く。反面、欧米では跳ねたりする。生活習慣の違いにより、ここまで違うものかと驚いたこともあった。
今では日本人も肉食系に変わって、若者たちの身体つきは欧米化されてきている。歩く動作やリズムは欧米化されてきているようにも思える。
だが、眠っている血は農耕民族から受け継がれている。だから、欧米化された若者であっても日本の伝統的な「歩く」形は受け入れられ易い。
見本は歌舞伎や能にある。機会があれば接して欲しいと思う。同じことが出来なくても発見はある。新鮮に見えるだろう。血が騒ぎ始める。



私たち夢桟敷は、スズキメソッド(鈴木忠志さんがシステム化した訓練法)と暗黒舞踏などの肉体訓練を劇作りの入り口として取り入れて来た。今、振り返ってみると、これは日本の伝統芸能に根っこがあるのだと気付く。
基本トレーニングは休みなく続けることが大切であり、その都度、新たな発見があれば修正することも大切。
情報としての理論は洪水のように氾濫しているが、理論だけでは進化していかないこともわかる。
要は実践!
興味のある方は、劇団の稽古場へ足を運んで来てみては如何でしょうか。今年は市民の方々へ「見学体験自由」とします。
基礎トレ以外にもダンスへの応用、表現方法のアレコレなども見られると思います。

劇トレ③「立つ」

2010-05-18 23:21:09 | モノローグ【エトセトラ】
日常の生活にとっては「考えすぎ」と思われる領域まで踏み入ってしまう。ここまで細かいことを考えなくてもいいのではないか。・・・その通り!考えすぎは身体によくない。
確かに、日常の生活では自然体。つまり、在るように在れば済まされる。・・・「力を抜くこと」「呼吸すること」「皮膚で感じること」そして「立ち歩くこと」を日常の生活の中でこだわっていく必要はない。

衣食住、つまり、人間の営みは経済の豊かさを求めて生きてきた。
ところが、表現に関わっていると「当たり前」のことを「?」ハテナマークで「何」を問う癖が身についてしまうのです。
だから、得にもならないことを本気で取り組める。・・・「豊かさって何?」



さて、今回は「舞台に立つ」ことについて。
稽古では、こんなことをしています。

■まっすぐ立つ。

両手を上にあげる。・・・自分では、コレがまっすぐだと思っていても前に後ろに、手が広がっていたりする。つまり、アタマのテッペンがまっすぐ上に向かっていない。自分では気づかないことがあるので、まっすぐの姿勢は他人にみてもらて点検する。
私のようにひねくれた骨を持っていると容易なことではない。お金が落ちていないか、下ばかり見て歩いてきたので猫背になってしまったよ。
あまり頻繁に両手を上げると、四十肩・五十肩になってしまうのでご注意を!
身体が「まっすぐ」を覚えると、今度は両手を上げたつもりで姿勢を確認する。
腰の上にまっすぐ背骨がノッテルかい。首はどんな感じ?顎を少しばかり引いておかないとアタマのテッペンが天頂に向かない。
まっすぐ立つと気持ちが良い。自分だけでなく、見ている側を気持よくする。

基本姿勢は「まっすぐ」から出発して、人間の様々な感情「喜怒哀楽」を作る。歪みます。ちょとした姿勢の変化で感情を表現できる。

胡坐(あぐら)をかいて座る。→アタマのテッペンを意識する。→首の力を抜く→背骨の上から腰まで徐々に力を抜く。→上体を前に倒す。→顔を横に向ける。→身体をひっくり返す。→仰向けになる。

からっぽになった身体をつくる。しばらく、そのまま。・・・そして寝た状態で身体を伸ばしてみる。

農耕民族は土にへばりついて生きてきた。前かがみの姿勢だって立派なまっすぐと言えるだろう。だが、劇ではそれを意識できるかどうか、・・・トレーニングは自分の身体探しでもあるのです。



身体ばかりを注目していると、誤解されることもあります。
いわゆる、視姦。・・・劇の場合は断乎として「セクハラ」ではありません。
それは、舞台上で「殺人事件」を演じても犯罪にならないのと同じ。・・・賢明な役者さんだったら、絶対に日常で殺人を犯すような愚かなことはない筈。
つまり、想像力の欠如が日常での悲劇を生むのだと思っています。

「狂気」を演じる場合でも、自分なりの「正気」がないと演じることはできません。
まっすぐな姿勢を知る、作ることは・・・裏返せば「歪み」を表現することにも通じるのです。
ドラマは「歪み」や「衝突」があって転がります。何もないことを淡々と流していると観客は飽きてしまう。

次④では「歩く」ことについて。

劇トレ②「皮膚感覚」

2010-05-16 23:58:36 | モノローグ【エトセトラ】
只今、自己点検・「役者体作り」のためのメソッド日記として綴ります。



息の吐き出し方のアレコレ。

意識しようがすまいが、寝ている時でさえ人間は呼吸しています。いちいち呼吸のあれこれを計算して生きている訳ではありません。

息があがる、息苦しくなる。・・・体力を消耗するとこのようなことになります。
舞台でも激しく踊ったり、大きな声を出すことにより息苦しくなることはあります。
だから役者・俳優は体力勝負で息苦しさを殺します。それでも超人・神様ではないので息苦しさの限界はあります。

発声練習をする場合、私たちの劇団では激しい動きの直後におこなうようにしています。あるいは、激しい動きと同時進行で台詞に入ります。
呼吸が乱れている時に発声をおこないます。
例えば・・・シャドーボクシングをしながら「祇園精舎」を語ります。中年俳優は3分間1ラウンドで酸欠状態になります。三途の川が見えます。一度、死にます。健康的ではありません。死なないように楽な方法を覚えていきます。
激しく動くふりがうまくなってきます。よく見ると上体の力を抜き、足だけ強く踏み叩きながら無駄な動きを最小限に抑えます。上体はブランとなり、下半身の動きに揺れているだけ。ポーズはパンチを出しているふり。実際に当たっても効果はない。敵にダメージを与えることもない。
逆に激しい声を出します。筋肉を消耗させない分、声や足音で発します。自分の体力の限界を他のところから埋め合わせます。
若者が3分間に100回、全力でパンチを出しているとするとキャリアは30回で100回分を見せています。残りの70回分は避ける受け身です。実際に敵がいないシャドーですから痛くも何ともない。

台詞は吐き出す息。激しく、緩やかに、大きく、小さく、伸ばしたり、縮めたり。
追いついていかない場合、顔の表情(口周りの筋肉)でコントロールします。・・・「あ」「う」「ん」の口の形を大きく作ります。阿吽(あうん)。
顔面で一番動く筋肉が集中しているところが口周りで、眼光を助けるのです。・・・感情表現は台詞よりも目の方が優れて表面に出やすいのです。

演出家が「言葉(セリフ)が身体にくっついていない!」とよく言われます。
私も演出する立場の人間として、「そうだ!」とは理解できるものの、その意味を考えると実はわかっていないのです。解決できない。役者・俳優にとって根本的なことでしょうが、接着剤が見当たらないのです。・・・演出の仕事は音や明りなど、役者・俳優をよく見せることは考えます。

呼吸は皮膚でもしています。
台詞が皮膚から発せられると「言葉ー身体」はくっつくのでは?・・・そんなことは物理的に無理でしょう。
皮膚は無言です。
ところが、皮膚で感じることはあるようです。舞台・板が人間の皮膚のように感じることがあります。
足の裏で感じます。
舞台が皮膚のように見えるのは役者・俳優の力量に拠ること大です。

役者体は筋力だけではなく、皮膚で感じる力と舞台をも皮膚で包み込む観念が要求されます。
これは考えてもダメ。

次は③は「舞台に立つ」のテーマでつづく。

劇トレ①「力を抜く」

2010-05-15 23:33:24 | モノローグ【エトセトラ】
昨年9月から始まった「薔薇色~」(三部作)を今年4月末に終えて、劇団夢桟敷は次に向かって開店休業中。

作っては壊す繰り返しが作る側の宿命。・・・無限地獄は現場からみれば、ひっくり返って極楽浄土でさえある。
解体と構築の連続。

只今、劇☆基礎トレーニングを開発中。
稽古場に一週間ぶりに集まる。顔色と目の輝き「よーし!」
ステキな仲間に囲まれて、私は幸せモンだよ。

この日記は点検のつもり。



劇トレ■ベーシック①「力を抜く」こと

舞台にあがると緊張する。人様から見られると動揺する。それを隠そうとして力む。力むと身体が思うように動かない。足や手が震える。喉が渇く。声がオクターブ高くなる。笑った顔がひきつる。
見ている側もそれが乗り移り、肩が凝る。不愉快になる。この場(劇場)から逃げ出したくなる。二度と見たくなくなる。演劇がつまらないものだと思うになる。

これは役者という立場の人間に防衛本能があるため、思ってもいない「こっちを見ないで!」という無意識が仕草となって現れることがある。
自分が恥ずかしいのである。自信がないのである。
役者・俳優を志す者は一度や二度、こんな気持ちになる。経験は誰でもある。
反対に「こっちを見て!」と主役でもないのにセンターに立ちたくなる本能も裏返しにある。・・・夢桟敷の内部では「センター病」といって、流行語になって笑っている。

本番が近付くと稽古では基礎的な訓練を省略するようになるが、大切なことは「基礎的なことは何?」である。

基礎トレーニングで大切なこと。これは、「役者としての身体を作る!」である。
スポーツ選手ではないので筋肉の作り方は違う。筋肉の大きさは問題にならないが、呼吸の仕方は問題にする。力は呼吸で表現される。

ゆっくり息を吐き出す。息を止める。瞬発的に息を吸い込む。
これに伴って身体が閉じたり開いたりする。身体と呼吸は反応する。
緊張ー弛緩する自分の身体を探してみると、これは役者の演技に大きく作用してくることがわかる。

ゆっくり息を吐き出していくと力は抜けていく。だが、訓練していないと、それでも肩に力が入ったりする。身体の違和感を自分で気付くことができれば、最初はぎくしゃくしていても力は抜けるようになる。

舞踏などのダンスの練習で「お前の身体を殺せ!まだ、日常のお前が生きている。一度、死体になって生き返れ!」と激を飛ばされた現場に立ち会ったことがある。・・・ヤバい!と思った。死にたくない!とも思った。

今になって理解できたのは、自分ではない自分を甦らさせることとは、一度は空っぽにならなきゃダメだということ。
日常を引きづり込んだまま舞台に立つのは、やっぱり、見苦しい。
インドネシアではダンサーは神様扱いされている。
役者は人間だ。さて・・・。

息を吐き出す方法のアレコレ・・・つづく。

GW つれづれ

2010-05-06 23:52:06 | モノローグ【エトセトラ】
子ども劇を作る準備

このGWは、ひとり部屋に閉じこもって台本(子ども劇用)を完成させるつもりだった。
「命」をテーマにしたもの。
私の住む熊本は、西南の役の戦場でもあり、それを調べるところから始めたのだったが・・・。

あ~、やるせない。

昔からそうだったが、私は勉強嫌いである。
目が遠くなり、活字がぼやけて見える。
資料をまとめるのが苦痛だ。

他のことをしたくなる。・・・草むしりをする。長くは続かない。



私の地域の小学・中学校では合唱など、音楽・美術の発表はあるようだが、劇の発表はない。
今から13年前、私がPTAの役員をしている時に数年間、学校内で演劇発表のお手伝いをさせてもらったことがある。
その時は校長先生の一存で体育館の借用が許可され、支持して下さる先生方と形は整ってきたが・・・。
学校では「ゆとり教育」の真っ最中で、状況が合っていたのだろう。
ところが、校長先生が変わってから、外部団体との関係は教育委員会や行政との許可が必要!ということになり、年間の予算に組み込まれることが条件とされるようになった。
私としてはボランティア感覚で活動していたつもりだったが、・・・。

地域と学校が連携して子どもたちとつながる!
6月からスタートする「子ども劇を作る。」は、いわば実験的な試みとして再チャレンジする。



劇の物語は、私の家の近くにある八景水谷(はけのみや)公園が舞台となります。
近所の子供たち(小学4年生~6年生)が20名ばかり集まってくる予定。

公園の生き物調査で集まってきた子どもたち。
この公園では、ミドリ亀(外来種)が多く生息しており、元来いた石亀が絶滅の危機に瀕しています。
生態系の変化を調査しているのです。
そこへ不思議老人が現る。一見、ホームレス老人だが、・・・。
その老人は琵琶法師である。
西南の役・田原坂の戦いを歌い始める。

♪雨は降る降る 陣羽(じんば)は濡れる
越すに越されぬ 田原坂

この戦いでは敵味方関係なく負傷者を助けた人たちがいました。
日本赤十字の精神、発祥の地です。



歴史の劇が、今の子どもたちの目線でどのように展開されていくのか・・・。
ファンタジーを取り入れて「命」に挑戦!

発表は11月。じっくり、子どもたちと遊びますよ。

大きい

具合が悪いという訳ではないが・・・リハビリをしていた。
ヒアルロン酸不足で関節の油が切れていたのだった。
とにかく、ヒアルロン酸を飲んで関節を動かし、筋肉を作るように運動をする。
これが今の私のリハビリテーション。そして楽しみのひとつ。

体重が3kg増えた。只今、75kg。ジャンプすることが苦痛だが、引力を強く感じる。引力には逆らわない方が良い。

メタボっていうのは国によってスケールが違う。日本のメタボは可愛いもんだ。ちっちゃいちっちゃい。
米軍兵士の集団とアトランタ空港で遭遇したが、奴らの大きさは150kg以上、象の群れ。私の二倍は優にある。
砂糖の国ブラジルでもお相撲さんのような黒人たちと遭遇した。彼らは肉をぺロりと1kg以上食べる。豪快だ。

私は大きいものを見ると興奮する。憧れる。今でも大きい人の前ではコンプレックスを抱く。

大きくなりたい。

だが、自分の体を自由に操りたいものだ。軽やかに飛びたい!と思うこともある。最近、息切れもするし・・・。



5月5日、母93才のお見舞いに行って来た。熊本から200km離れた下関へ走った。
昨年の夏に脳梗塞で倒れ、今は右半身不随、言語障害。ずっと入院している。
何も喋れない。食べるものは直接チューブで胃に流し込んでいる。
見えているのだろうか。聞こえているのだろうか。
呼び掛けても反応が弱い。意識が朦朧としているのだろう。
だが、微かに唇で微笑んだり、目を開いて追いかけてくれる。

わかっているのだ。

何もできない体になっても、大きいものを感じる。

宇宙だ。

熊本公演@大感謝!

2010-05-01 23:20:15 | 「薔薇色之病室Ⅰ」三部作
劇団夢桟敷「薔薇色之病室」三部作は昨年9月から熊本→大阪→名古屋を経て、4月30日で熊本市健軍文化ホールにて幕を閉じました。
ご来場頂いた皆々様、そして制作や舞台作りにご協力頂いた皆様に感謝申し上げます。

私の所属する劇団夢桟敷は1979年に「犯罪劇」をテーマに劇団を立ち上げ、劇作りの方法をアンチ・リアリズムの旗を掲げてきました。
演出としては1960年代に登場したアングラ劇の旗手(テラヤマ・唐十郎・・・)に強く影響を受けました。
いつかは夢から覚めるだろう!と思いつつ、毎回、全力疾走で走り続けてきた結果、夢の中へ吸い込まれるばかり。抜き差しならない出口への迷宮入りです。

日本の小劇場界も様変わりしてきて、昔の「アングラ」は死語として捉えられているのも現状です。むしろ「アングラなんて知らない世代」が現在の小劇場です。
彼ら若い世代にとって情報としての「演劇の歴史」に過ぎないのでしょう。
しかし、世代を超えて劇に引き継がれる魔力は新しい想像力を形にしていく新しい役者の登場を待ち望んでいるように思えます。

観客は戯曲を読みに来ているのではなく、役者というとんでもない怪物に感動するのです。
怪物たちは戯曲以上のことを表現する力を持っています。

「薔薇色之病室」ではそれを意識して臨みました。
夢桟敷には怪物たちがいる。こころウキウキです。
演劇の僻地?熊本で突然変異の進化を辿っているのです。
右へならえ、横並びは嫌いです。
しかし、声に出さなくても、今、多くの方々が期待していることを見つめているつもりです。

「愛と平和」ですね。
劇はその裏返しを表現することで現実と対峙していくのです。
「笑いと涙」は、だから、古来より娯楽として受け継がれてきたのだと思うのです。

さて、次回公演は?・・・仮題「タケトリ物語」(作・夢現)。
台本はできちゃいませんが、大丈夫!
誰でも知っている物語の現代バージョンが広がっていきます。

かぐや姫たちはここに生きている。千年生きている怪物たちである。
不老不死の物語へ。
永遠の愛とは・・・。謎が謎を呼ぶ劇へ。