yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

第24回壬申の乱ウオーク出発 宇陀路を歩くの条

2012-07-03 22:06:29 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 2012年6月晦日、久しぶりの壬申の乱ウオークでした。

 これも本当は5月12日に実施予定だったのですが、昨日の書き込みのような事態で急遽延期いただきこの日とさせていただいのです。

 私の入院のことを知ってか、会う方々が「もうよろしいんですか?」と声をかけて下さる。
 「鬼の霍乱ですから」とそのたび毎に笑い飛ばす。



 この日のメインは人麻呂公園と宇陀水分神社であった。特に後者は初めての見学で大いに期待された。



 人麻呂公園は宇陀市阿騎で発見された中之庄遺跡を保存し、公園化したもです。
 万葉集に残る柿本人麻呂の著名な歌

 ひんがしの のにかぎろひのたつみえて かへりみすればつきかたぶきぬ

 が文武天皇が宇陀の地で行った薬猟の舞台で詠まれたものだったというのです。そこで公園の名前に「人麻呂」が冠せられたたらしいのです。遺跡は7世紀代の複数の掘立柱建物が少なくとも二期以上に渡って立て替えながら利用された空間だというのです。2棟の中心建物が立体復元され、その周りの建物群は高さ50センチ程度の円柱を立ててそれとわかるように展示してありました。

 ただ残念なことは、この公園もご多分に漏れず整備して年月が経つらしく、管理はうまくいっていないようで、あちこちに草が生え、導線がわからなくなり、建物の印とされた柱の木材が腐食して醜くなっているのです。もちろん訪れる人は私たち一行80人以外に誰もおられませんでした。

 久留倍遺跡がこうならないようどうすればいいのか、真剣に考えないといけないのですが、今大矢知地域を二分するような形で進行している事態はとても深刻で残念なことだと思っています。せっかく丁寧に、地に脚の付いた形で「考える会」の皆さんが頑張っておられるのに・・・・。だから毎回ウオークにも100人近い方が参加して下さるのに!!アーア悲しい!もちろん僕はこの皆さん50回目指してと頑張っていきますよ。

 さて昼ご飯を食べて午後の部が始まる頃になると雲いきが怪しくなってきました。

 アッ、また「雨男」の汚名を着せられる!!

 そんな思いを胸にしながら最も楽しみだった宇陀水分神社(中社)に向かいました。
 水分神社に着く頃には土砂降り!!

 yaasan はやっぱり「雨男!!」でした。ごめんなさい皆さん。



 宇陀水分神社(中社)の本殿は国宝です。3棟ある神殿は朱塗り白壁の建物に檜皮葺きの屋根が載っている。本殿を囲っている塀越しに見ていても、周りの木々と解け合ってとても趣のある、いかにも水分の地とわかる素晴らしい光景でした。それが特別のご配慮で本殿の中にまで入れていただけるという。

 近年修復がなったばかりで朱は鮮やかに光り輝いていました。その鮮やかさと檜皮葺きの古風なたたずまいが何とも言えない緊張感を与えてくれます。皆さんため息をつくばかりでした。

 いつまでも見ていたかったのですが、出発の時間となり、後ろ髪を引かれる思いで神社を後にしました。

 次回は2012年9月15日(土) 壬申の乱最後の激戦地「勢多唐橋」です。次回もバスでの「ウオーク」になりますが、現地集合も可能です。また近づきましたらご案内しますので、是非ご参加下さい。

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お久しぶりです!!何とか生きていますの条

2012-07-03 15:56:02 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
最後のブログを3月9日にアップしてからおよそ4ヶ月。

もうブログは店じまいかな?と自分でも思っていたのですが、何となく書くことになりました。
そのきっかけがこの写真です。



今から12年前の3月、私たちの敬愛する平安時代貴族研究の第一人者・朧谷寿先生が還暦をお迎えになったのを記念して開催したパーテーの写真です。右に写っているのが安藤栄里子さん。この時はまだ京都新聞の記者だったと思います。かわいらしさすらみられるこの若々しくはつらつとし、そして心からお祝いの気持ちを表している貌、とても素敵な写真です。パーテーの司会を二人で務めたのでした。

写して下さり、会の後にはがきに貼って送って下さったのがそのときの主人公・朧谷寿先生でした。

達筆なのでよく読めないところもありますがお礼と次の10年会の『お花見』のお誘いのお便りでした。

横に立っている私も素敵な安藤さんとのツーショットだったからでしょうね、まだ若々しく、髪の毛もふさふさとあって??とてもいい顔をして写っています(ホント!!大体、気難しい顔をして写っているのが普通ですから、ちょっと異例ですね。(笑))

こんな写真が出てきたこともこの4ヶ月の不調と大いに関係があるのですが、それはさておき、この彼女が4月14日に亡くなったのです。まだ43歳でした。この写真から4年ほどして、血液の悪性多発性骨髄腫を発症し、闘病生活に入ったのでした。余命2年といわれた時はまだ34歳の若さでした。それから8年あまり、とても余命2年の病人の人生とは思えない輝いた「時」を生き抜いたのでした。現在可能な治療のすべてをやり尽くし、走り抜けたのでした。その人生の素敵な姿はまたいつかご紹介するとして、この頃から私の不調も増幅していったのでした。

既に過去のブログでも何度かご紹介している10年会。朧谷先生を筆頭に10歳ずつ歳の異なる5人が集まってその時々の話題を肴に宴を催す。京都の老舗の季節の旬のものをいただく幸せは贅沢そのものでした。そしてそのメンバーが気の置けない5人の研究者仲間。その最年少が彼女でした。朧谷先生の教え子でもある彼女と先生との会話はまたテンポのいいやりとりで、横にいて聞いているだけで心地よいものでした。

そんな彼女が逝ってしまったのです。

お通夜に集まった4人の悲しみは言葉にできないものでした。先生の一言で、近くの酒場で飲む酒は妙に明るいものでした。そう振る舞わざるを得なかったのだと思います。

その3日後、私の身体が思うように動かず、何とかしのいでやっていた授業もとてもできなくなり、大学病院に駆け込むと「入院!」

久しぶりのレッドカードでした。

ところがそんなものを吹き飛ばす大事件が飛び込んできたのです。

そのとき一緒に飲んでいた10年会のメンバー山田邦和氏が倒れたというのです。奥様からのメールは深刻そのものでした。心肺停止状態で救急病棟に運び込まれ、面会謝絶で生死の境をさまよっているというのです。それも原因が私と同じ「肺炎」から来ているというのです。

私の方は幸いなことに入院して点滴を打っている4~5日で随分楽になりしばらくして退院できたのですが、山田さんの病状は予断を許しませんでした。1週間ほどして山田さんの入院先の病院の医師から電話があり、私の肺炎の症状を尋ねるのです。

実は私自身も気になっていたのですが、「私が病気をうつした!!」のでは?

最終的にはこの点は杞憂に終わったのですが、当人としては気が気でありませんでした。

10日ほどしてメールが届き、心臓が自力で動き出し、呼吸も少し可能になったのいうのです。やっと大きな山を越えたのでした。

ホッとしました。ゴールデンウイークが終わる頃のことでした。

この間、広島での大学の友人の古稀のお祝いも、早くから準備していた北朝鮮の首都平壌での遺跡踏査も、今年から始まった名古屋での連続講演会も全部キャンセルになりました。そして、復帰したゴールデンウイーク後の5月・6月にはこのツケが回ってきたのでした。

7月もまだまだ過酷な仕事が続きます。でも精神的には少しは楽になりました。だからこうしてブログを少しだけ復活することができたのです。
次回がいつになるか、今のところ不明ですが、書きたいことは山ほどあります。エネルギーを補充してまた書くことにします。

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とにかく魔の4ヶ月でした。

3月に『伊勢湾岸地震履歴の総合的研究』という刊行物を編集することになり、これが忙しさに火を付けたようです。

その直前に