yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

有り難うございました!2007年を振り返って 来年もよろしく!の条-3

2007-12-31 23:55:35 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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7月

① 昨日の検診は期待通りには行かなかった。まだ血小板は106000で足踏みしてしまっていた。だから6錠30mgにはしてもらえず、1錠だけ減らしてもらった。まだまだ先は遠そうである。
 でも元気を出して屋上から眺めていたときから行くぞ!と決めていた東福寺探検の散歩に出かけました。今回はまずアウトラインをたどる散策です。中心伽藍はまたいつか。退耕庵から南明院までと、そのまま伏見稲荷の大鳥居まで、裏道をブラブラ
歩きました。

(退耕庵に最初に出会いました。こじんまりした玄関に桃山時代という客殿が見事でした)

②  やっと自由な時間がもて、昨日、朝早くに家を出て、大阪府堺市に行ってきました。
 堺市役所の隣の総合福祉会館で開かれている「堺原爆展」に参加するためです。



(土曜日の朝早くにも関わらず沢山の人々が見学に訪れていました)

8月

 病気も落ち着いてきてまたまた活動開始です。

①  今回で第8回目になる壬申の乱ウオーク。でもここのところ続く猛暑の中どれだけの方が来て下さるのか心配だったのですが、加太駅についてびっくり!150人の参加者でびっしり。

(加太駅は無人駅。柘植と加太の間は9キロ近くある長い長い駅間。その間がクネクネ曲がる険しい山沿いのコース。鉄道マニアには有名なスポットだとも聞く。)
 今日のコースは特に健脚向きで、余り文化遺産がないのです。にもかかわらずこの沢山の参加者、有り難いことです。とは言っても今日のコースは私が案内するのではなく、亀山市教育委員会の亀山さんが全行程説明して下さることになっていて、私は参加者の一人として聞いていればいいのです。こんな楽なことはありません。

(大和街道を占拠?したウオーキングの一行)

② 17日から今日22日まで中国河南省の洛陽に滞在し、洛陽を堪能しました。
 本当はもっと早く書き込みたかったのですが、連日歩き回って、帰ってきたら20時過ぎ、風呂も入らずに(一寝入りしてから入ってますからご心配なく!!!)バタンキュウ。そんなのでなかなか書き込めませんでした。これから間もなく西安に向かって汽車で移動します。洛陽の本格的なレポートは西安に着いてから書きますが、少しだけエッセンスをお伝えしておきます。
 とにかく、5日間はとってもとっても充実していました。洛陽がこんなによく遺っているとは想像もしていませんでした。もちろん中国社会科学院の隋唐洛陽調査隊の方々が隅から隅まで案内下さったから充実していたことは言うまでもありません。しかし、今回は初めて自分の足で半日宮城内をあちこち歩き回り、私の頭に洛陽の地図を作ることができました。これが一番の成果です。今度皆さんを御案内することができるに違いありません??ホントかな?

(三度目の応天門も自分で歩くとよくわかります。この日は掃除もされていて全体がよく見えました)

9月
 
 記事にはできなかったのですが、橋本科研で難波・飛鳥・藤原を歩きました。

① 9月8日から14日まで橋本さんの科研で難波・飛鳥・藤原などいろいろなところを歩きました。専門家だけでの宮都再訪はなかなか意義深いものがありました。


(発掘調査中の藤原宮大極殿南門を見学しました。ちなみにその後、この施設の周囲で「地鎮」の跡が出たそうですが、私はこれを藤原宮造営の地鎮とする考えには反対です。余りに規模も内容も宮都の地鎮とは違いすぎているからです。)

(本薬師寺にも久しぶりに参りました。いろんな仕掛けがなされていました。)

有り難うございました!2007年を振り返って 来年もよろしく!の条-2

2007-12-31 22:56:47 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
Hadorian's Wallも良かったねと思ったらよろしくお願いします。

4月

 3月末からイギリスHadorian's Wallへ
① 今回の旅の大きな目的の一つが木簡の出土で知られるヴィンドランダ(Vindolanda)へ行くことでした。しかし、彼の地に行くには車で行く以外にありません。誰か案内してくれる人がいればいいのですが、残念ながら、先に記しましたようにこの時期は春休みで、みんな何処かにバカンスに出かけているそうです。イギリスの人達はとてもヴァカンスを大切にするそうです(これは本来当たり前のことで、日本人が働きすぎるのです!!お店が日曜日休みになるのも、わずか四半世紀程前の日本でも当たり前でした。ところがこの頃は年中開いている、それどころか24時間年中開いている店がざらにある異常さ!いつからこんなせわしない日本になったのでしょうね。どこぞの大企業の偉いさんが何でもかんでも効率、効率!そしてその後ろ盾の政治家も効率、効率!そのくせ、その人達こそ最も効率が悪い!!!変な国。)。だから御案内を頼むことができず。自ら運転する羽目に。アー恐ろしや!


(Chesterの北門。門の下にはちゃんと排水溝もありました。これも私の興味の対象。)

② 3月まで宮崎県で年季付きの嘱託職員として日向の地の発掘調査を担当していたMN君が無事いなべ市の職員として採用され、文化財担当として私達の仕事に加わってくれたことである。彼はHCさん同様、私が三重大学に赴任してから育てた?(育った!)優秀な考古学研究室の卒業生で、話によると宮崎県も惜しまれて出てきたそうだ。人間やっぱり見る人は見ているもんね。努力は決して無駄にはならない!!
その彼と行ったのが治田銀山だった。


(大通洞坑の中から外を見るとこんな感じ)
 このことが実は瓦分類に大きなヒントとなった。

5月

 昨日は新緑のまっただ中、吉野宮滝遺跡周辺のウオークに出かけました。四日市からバス2台100人、現地で参加された方50人、総勢150人で少し汗ばむほどのいい天気の中壬申の乱勃発の地吉野宮滝の遺跡巡りでした。


(河川交流センターは人で埋まりました。)
 宮滝遺跡の石碑の建つ直ぐ横にできた河川交流センターに集合し、12時から始まった見学会は熱気に溢れていました。今回は吉野町教育委員会の全面的な支援を受けて同町の池田淳さんの名調子の解説とたまたま奈良に来られていた玉城妙子さんの遺跡での解説までしていただく特別案内となりました。
 いつもながら時間と距離(3時間以内10キロメートル未満)が限られていますので、さほど沢山の場所が見学できないという問題はありますが、私にとっては手頃な距離と汗でした。


(吉野川を下に見ながら往時をしのぶ)

6月

ブログの更新を怠って早くも1ヶ月以上が経ちます。
大変ご無沙汰しています。あまりに更新しないので、間もなく皆さんに忘れ去られようとしています。
 ま、それでもいいかという最近の心境です。ハイ!タイトル通り入院しております。
 6月20日我が親友(宿敵ではなかったの?)山田邦和博士がわざわざ病室を見舞ってくださった。それも聞くところによると、午前中の面会時間外にも来られたのだとか。部屋が判らず、受付で聞くと、時間外だからと結局追い返されたとのこと。お出でいただくだけで恐縮次第なのに、授業と従業の合間を縫って二度も。申し訳ありませんでした。この御礼は必ず「出所」後に!!

 ところがそのお詫びの言葉の舌の根も乾かないうちに、今回は山田博士の桓武天皇柏原陵「桃山御陵説」は違うんじゃない?!というものなのです。怒るやろなー!

 実はこれ、今回の入院の一大成果(また、大袈裟な)の一つなんです。倒れてもタダでは済まさない!受領国司のような性格ですね。執念深い私故の成果かも知れません。もちろん東山の懐に「収容」してくださったお医者さんには大感謝しています。
 皆さんで京都の地図(何でもいいですよ)みて下さい。第一日赤は平安京の南限、九条大路が鴨川を越えて東山にぶつかるその地点にあります。


(毎日毎日二つの病棟を行ったり来たり、みんな変なおっさんと思ったに違いない。真ん中の杉木立の右手に米粒のように見えるのが「桃山城」桃山キャッスルランドの廃城の跡)


有り難うございました!2007年を振り返って 来年もよろしく!の条-1

2007-12-31 19:32:54 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
来年も訪問するよと思ったらよろしくお願いします。

2007年は波瀾万丈の1年でした。1年を総括して総集編をお送りいたします。

1月 
 がこうして始まりました。

① 新年明けましておめでとうございます今年もよろしくお願い申し上げます
 年末に突然思い立ってベトナムに行って参りました。ハノイで見学した社稷壇と南郊殿はいずれも工事に伴う事前調査であり、いつまで見ることができるか不明ということで、やむなく新年を跨いで飛んでいきました。
 

(現場の向こうには既にこのような大きなクレーン車やブルドーザーが入り遺跡下5mほどが下げられ、基盤工事が進んでいます。まるで早く調査して出ていけ!といわんばかりの居丈高な状況です。橋脚工事を進める久留倍遺跡のようです。寂しい!!)

 ついで悲しい知らせが・・・。
② 昨年末に京都新聞の佐分利記者から電話があり、高橋美久二さんのお亡くなりになったことを是非「追想」欄で取り上げたいので、話を聞かせてくれないかという。
 もちろんこちらからお願いしたいくらいのことなのでお話しをさせていただいた。
 京都の自宅で4時間くらいお話ししただろうか。
 まだまだお伝えしたいことは一杯一杯あったのだけれど、文字になるのはそのほんの一部。佐分利さんには申し訳なかったのだが、ついいろんな思い出を話することになった。もちろんその会話の中で思い出したことなどを先の「思い出」の中でも書いた。その取材記事の載った新聞が今日私の手元に届いた。

(飾られていた遺影もこの写真だった。亡くなる前に自ら出してこられた写真だという。8年前だからまだまだ若々しい元気な高橋さんだ。)

2月

 また悲しい出来事で始まりました。
①  折角前回、私の友人の順調な回復をお伝えし、ベトナムハノイの四鎮のお陰と感謝したばかりなのに、その直後に鎌田元一さんの訃報が届いたのです。
②  昨日は第6回目の壬申の乱ウオークでした。今回は初めて672年6月24日甲申初日の条を歩くことになりました。大海人皇子が吉野を出て、榛原にあった宇陀郡家を経て名張へ入りますが、名張に入ったその地が赤目付近だと言われます。赤目というのはあの有名な赤目四十八滝のあるところで、大和から伊賀に入る最初の地域です。参加者の多くの方がこれまで、四日市や鈴鹿。関の方々ですから、予め四日市方面の方用にバスをチャーターすることになりました。もちろんこれらの準備はすべて久留倍遺跡を考える会の皆さんの段取りです(本当に感謝します!!)。

(約8㎞二時間余のウオーキングはポカポカ陽気の名張赤目から夏見への旅であった。さすがに疲れたのか夏見廃寺では講堂の基壇に座り込んで皆さん動こうとしなかった。お疲れ様!!)

3月

 初めての喜界島に始まりました。
① こんな可愛らしい30人くらいしか乗れない飛行機で喜界島に向かいました。そうそう、喜界島の空港というのがどうも滑走路が短いらしく、降りるときは急ブレーキ、離陸するときは思い切りふかしておいて急発進という、何とも原始的な離着陸。スリル満点ですよ。でもご安心を、それだけパイロットは熟練!!
 


(最近公表された「石敷き道路跡」です。私は何か特殊な空間を美しく見せるために石を敷いたのではないかと思うのですが・・・)