今日は2008年3月6日に他界した母の7回忌の法要をしました。
6年前、ヴェトナムで発掘中に亡くなり、急遽ハノイと京都を往復したことを思い出す。
父の時も最期を看取ることができなかったのだが、母の時も親不孝をした。
私の檀家寺は三条木屋町の浄土宗西山派の瑞泉寺。豊臣秀次が文禄4年(1595年)切腹を命じられ、その後家族側近らが三条河原で処刑された。放置された遺体を慶長16年(1611年)角倉了以が祀るために建てた寺が瑞泉寺である。
5年後に父の50回忌があるが、果たしてそこまで元気でいられるかどうか判らないので、それなりに親しい従兄弟に声をかけてお参りしてもらった。
暫く病気でほとんど外にも出てなかったおない歳の従姉妹賀来てくれたのがとても嬉しかった。
でも、原稿に追われている身、食事もそこそこに帰宅し少し休んでまた原稿である。ま、自分の身から出た錆だから仕方がない。何が何でも今夜中に書き上げねば。
早く原稿書けよ!と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→
6年前、ヴェトナムで発掘中に亡くなり、急遽ハノイと京都を往復したことを思い出す。
父の時も最期を看取ることができなかったのだが、母の時も親不孝をした。
私の檀家寺は三条木屋町の浄土宗西山派の瑞泉寺。豊臣秀次が文禄4年(1595年)切腹を命じられ、その後家族側近らが三条河原で処刑された。放置された遺体を慶長16年(1611年)角倉了以が祀るために建てた寺が瑞泉寺である。
5年後に父の50回忌があるが、果たしてそこまで元気でいられるかどうか判らないので、それなりに親しい従兄弟に声をかけてお参りしてもらった。
暫く病気でほとんど外にも出てなかったおない歳の従姉妹賀来てくれたのがとても嬉しかった。
でも、原稿に追われている身、食事もそこそこに帰宅し少し休んでまた原稿である。ま、自分の身から出た錆だから仕方がない。何が何でも今夜中に書き上げねば。
早く原稿書けよ!と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→