lizardbrain

だらだらぼちぼち

ドイツ館

2006年11月28日 20時25分22秒 | 風景光景


BANDOロケ村内を一周して、もう少し時間があったので、すぐ近くのドイツ館へ足を伸ばした。

坂東俘虜収容所に収容されていたドイツ軍俘虜達のうち、日本に残った人達(元々日本で暮らしていて志願したドイツ兵も少なからずいたらしい)を除くと、ほとんどは母国ドイツへ帰還した。
帰ってみると故郷は焼け野原、敗戦による巨額の戦争賠償金を背負い込んだドイツ経済はドン底に陥っていた、、、、、、、、、、
勇躍、故郷に戻った彼らの前途は、さほど明るい物ではなかったらしい。

昭和30年代だったか40年代だったか(展示資料を読んだつもりだったが、あいまいな記憶しかない)坂東俘虜収容所に収容されていた元ドイツ兵から、
「坂東の町の様子はいかがですか?」
という手紙が届いたのをきっかけにして、この地とドイツの交流が始まり、現在につながっているのだという。
地元の人が、坂東俘虜収容所で亡くなった俘虜達の墓地の管理をしていたという事には、ドイツ側も感激したのに違いない。

                    

この坂東俘虜収容所に収容されていたドイツ人俘虜達は、帰国後もBANDOの名を冠した親睦組織を作り連絡を取り合っていというが、現在においては既に全員がこの世を去っている。

ところで、捕虜俘虜の違いがよくわからない。
広辞苑で調べてみると同意語として扱われているが、ワタクシにとっては捕虜という言葉の方になじんでいて、俘虜といわれてもピンと来ない。
ググってみたが、ほとんどの場合、同義語として扱われているのでさほど気にする事ではないのかもしれないが、国際条約上、第二次世界大戦以前は俘虜が正式な呼び方だったという違いがあるらしい。

外国においては、俘虜あるいは捕虜とは、全ての精力を戦闘に投入した結果として投降した勇気ある者達として扱われているのに対して、日本では敵に命乞いをした弱虫、というさげすんだ見方をされていたようだ。

それだけに、映画で描かれたようなこの坂東俘虜収容所での処遇は、当時の日本人の考え方からは少し異質な物だったらしいが、収容所の松江所長(実在の人物)の人柄と信念があったからこそだと思う。

ドイツ館の展示資料にも、
屋外作業の帰路に、「海に入って足を洗ってもよろしい。」という許可を出して、俘虜達を海で泳がせてあげた。
という記述もあった。
海水浴などさせて、逃亡や脱走の恐れさえも感じないほど、俘虜側とそれを管理する側の間に信頼関係を築いていたのだろう。

           

ドイツ館に展示されていた収容所の模型を見た限り、実際の坂東俘虜収容所は映画のオープンセットとは比べ物にならない広さだったらしい。
ドイツ館の近くに坂東俘虜収容所の跡地があり、そちらへも行ってみようかと思ったのだが、帰りのフェリーの時間が迫っていたので徳島港へと向かわなければならなかった。



(徳島港16時35分発のフェリーから)