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ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

黒船来航に想いを馳せる 浦賀港を渡って久里浜へ

2019年05月11日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2019年5月11日(土)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成元年度第6回(2019年第18回)、「浦賀港を渡って久里浜へ」ウォーキングに参加した。

荒川沖駅7時21分発の電車を待っているところ。


土曜日なので通勤通学で混むということはなく、ゆったりと座れた。


品川から東海道線に、戸塚から横須賀線へ乗り換える。
この日の参加者は15名、ちょっと少ない感じだ。


横須賀線電車の大半は終点が逗子のため、逗子で久里浜行きに乗り替える必要がある。


4両編成の久里浜行は空いていた。


10時10分、JR横須賀駅に到着。
京浜急行逸見駅に向かうため、JR横須賀駅で降りることに。


横須賀駅で体調を整える。


横須賀港に停泊しているのは、護衛艦(イージス艦)だろうか?


京急逸見駅へ向かう。
JR久里浜駅寄りのトンネル手前の踏切を渡り、


よこすか横断地下道を潜って、


国道16号(横須賀街道)の反対側へ。


横須賀街道を京急逸見駅へ向かう。
『いやぁ 凄い高層マンションが並んでるね~っ』
『壮観だね~っ』


逸見駅入り口交差点を左折して逸見駅へ。


『もうそろそろ逸見駅かしらっ?』


10時28分、京急逸見駅に到着


ちょうど10時26分発の浦賀行電車が発車したばかりだった。
次の浦賀行は10分後になる。
駅ホームのベンチに腰を下ろしてしばし休憩だ。


10時37分、浦賀行電車が到着した。


10時55分、ようやくスタート地点の京急浦賀駅に到着した。
荒川沖駅を出発して3時間半以上が経過していた。
『けっこう時間がかかっちゃったね~っ』 『あと1時間もすればお昼だよっ』
品川から京急を利用すれば、9時42分には浦賀に到着することになるので、
1時間以上のタイムロスということになる。
しかし、JR休日お出かけパス(2,670円)の魅力には勝てない。
次もまたJRメインで来ることになるかも・・・


10時58分、いつものようにTKさんを先頭に浦賀駅を出発!
最初に向かうのは、浦賀奉行与力の中島三郎助の墓があるという東林寺である。


浦賀港沿いの県道209号を進む。


浦賀港が見えると思って楽しみにしていたが、高い塀が視界を遮っているため、港の景色は全く見えない。
「浦賀造船所(浦賀ドック)」の塀ではないかと思われる。
『見られちゃ困るようなものがあるのかねぇ』


県道209号を進む。


新町バス停を通過すると、


その先の交差点で信号待ち。


道路反対側に”渡し船 就航中”の看板が。
『浦賀港は渡れるようだねっ』


道路を横断して、右側の住宅地へ。


横須賀新町郵便局を右折して少し進むと、東林寺入口があった。


11時17分、東林寺に到着した。
東林寺には、入港した黒船に乗り込み、最初にペリーと交渉にあたった浦賀奉行与力の
中島三郎助が永眠していることで知られる。


東林寺前に小さな社が祀られていた。


社の横の石段を上って行くと、


東林寺の本堂だ。


本堂から東林寺入口方面を望む。


本堂左奥に墓地があり、入口近くに中島三郎助の墓を示す朽ちかけた標識があった。


標識が示す方へ進むと、中島三郎助(手前)と息子英次郎(次男)父子の墓が並んでいた。
浦賀奉行与力・中島三郎助は、浦賀を代表する人物で、嘉永六年(1853)ペリー来航の際、
最初に黒船(使節団)との折衝にあたるなど敏腕を見せ、翌年日本最初の洋式軍艦・鳳凰丸を建造した。
三郎助は文武に優れ、「大衆帰本塚」の碑文を書き、俳号は「木鶏(もっけい)」と称し、
人々から敬慕されていた。
明治維新では幕臣としての意志を貫き、函館の千代ヶ丘台場で二人の息子とともに戦死した、
と紹介されている。


東林寺を後にして、次の目的地東叶神社へ向かう。


”叶神社直進200m先”の標識が。


住宅地を200mほど進むと、


11時29分、突き当りに東叶神社があった。
『いやぁ なかなかの構えじゃないのっ』
東叶神社の祭神は、京都の岩清水八幡宮と同じ応神天皇(第十五代天皇)である。
この神社は養和元年(1181)八月十五日、高雄山神護寺の僧文覚が、源氏の再興を願って
岩清水八幡宮の霊を迎えたことに始まると云われ、その後源頼朝によってその願いが叶ったことから、
叶大明神の名で呼ばれるようになったと伝えられている。


石段を上ると、東叶神社の拝殿だ。
神社の裏山(標高50m)を明神山と呼び、山頂にはこの神社の奥宮があり、その左手に
咸臨丸の艦長に任命された勝海舟が航海の安全を祈って断食したと伝わる「勝海舟断食の場」
の標柱が立っている、そうだ。


拝殿の左側に明神山への登山口があったが、時間の関係で次の目的地へ向かうことにした。
(結果的に浦賀の渡しの休み時間に当らなくて良かった)
(5月13日のNHK「鶴瓶の家族に乾杯」に出演していた松阪桃李さんはこの石段を上っていった)


東叶神社本殿から浦賀港を望む。


東叶神社を後にして、浦賀の渡しへ向かう。
左手に浦賀港を見ながら浦賀の渡しへ。


11時40分、浦賀の渡しに到着。
浦賀港の東西を結ぶ大切な交通手段で、片道一人200円である。


対岸から数人の客を乗せた渡し船が戻ってきた。


15名は定員オーバーのため、2回に分けて乗ることになった。
先ず7名が対岸へ。 残りの8名はこの後になる。
『お先に~っ』 『待ってるよ~っ』


先ず先陣7名が乗り込んで対岸へ。


『風が凄く気持ちが良いわね~っ』


浦賀水道方面を望む。


ものの1分ほどで対岸に到着した。
『え~っ もう着いちゃったのっ』 『早過ぎるわね~っ』 『もうちょっと乗りたかったわね~っ』


待つことしばし、残りの8名を乗せた渡し船がやって来た。


11時49分、全員渡り終えた。


『もうちょっとで昼休みになるところだったんだぁ』
12時~13時は、昼休みとある。
12時を過ぎていたら、1時間近くも待ちぼうけになるところだった。


関東大震災慰霊塔
大正十二年(1923)九月一日十一時五十八分、関東地方に大地震が発生。
ここ浦賀でも崖崩れや火災などにより大きな被害を受けた。
特に西浦賀では愛宕山が崩れ、家屋74戸と100人程の人が埋まってしまった。
ドック原(浦賀生協辺り)でも山が崩れ、通行中の7人が生き埋めとなり、
浦賀町だけでも202名の命が失われた、とのこと。
合掌!!


市道の一つ奥の道路脇に愛宕山公園への登り口があった。


愛宕山公園へ。


急な石段を上る。


『けっこう段数も多いねぇ』


12時ちょうど、愛宕山公園に到着。
咸臨丸出航記念の碑の説明に見入る。


咸臨丸出航記念の碑
安政七年(1860)、日米修好通商条約批准書交換のため、ワシントンへ赴く幕府使節団に
随行したのが、咸臨丸である。
1月13日に品川沖で碇をあげ、16日の夕方に浦賀に入港。
19日の午後にアメリカを目指し、米軍艦ポーハタン号に従う形で、咸臨丸に勝海舟・福沢諭吉ら
90有余名の日本人を乗せて出航した。
39日間かけて太平洋を渡り、サンフランシスコに無事到着した咸臨丸が再び浦賀に戻ったのは、
万延元年に年号が変わった翌年の5月5日だった。
その偉業を讃える愛宕山公園の記念碑は、サンフランシスコにある「咸臨丸入港の碑」と
向かい合って立っている。


与謝野鉄幹・晶子夫妻の文学碑
碑の歌は、昭和十年三月三日に与謝野寛(号・鉄幹)、晶子夫妻が同人たちとともに、
観音崎・浦賀・久里浜を吟行した折に詠んだものである。
思いのほかの寒さであったためか、寛は同月二十六日に肺炎で没しているので、
これは生涯最後の歌の一つといえる。(以下略)


愛宕山公園から浦賀水道が望める。


愛宕山の山頂はもう少し上のようだが、この先特に見晴らしの言い場所はなかった。


地図で確認し、上って来たのとは逆方向へ降りることにした。
『またさっきの石段を降りるよりは良いんじゃないっ?』


少し進むと、坂本龍馬像(20m)の建立予定地の看板が。
完成予定日などは書かれていない。
いつ頃完成するのだろう? 完成したら訪れてみたいものである。


『ここからの見晴らしは抜群だろうねっ』


坂道を下って行くと、


西浦賀の住宅地があり、その先に浦賀水道が見えた。
『見晴らしが良い所だね~っ』


七曲りの坂道を下る。


住宅地の中に広場があり、その角に浦賀奉行所跡の説明板があった。
奉行所は、享保五年(1720)に伊豆下田から浦賀に移管された。
業務は「船改め」をはじめ、地方役所・警察・裁判所・海難救助など広範囲にわたった。
異国船が姿を見せるようになると、江戸を防備するため、海防の最前線として、
更に重要な役割を果たすようになり、その格は長崎奉行所に次ぐものとなった。


敷地は東西80m、南北75mの広さで、
現在は、掘割りの石垣と正門付近の石橋の一部を残すのみとなった、とある。
石垣だけが残っている。


浦賀奉行所跡周辺(川間町)は、大六天神神社の祭りの準備に余念がなさそうだった。


川間町内会の屋台格納庫からは山車が出され、最後の組み立てが行われていた。


2階建ての山車


周辺の家々の玄関には、神様を迎える提灯が下げられていた。


為朝神社前を通り過ぎると、


12時28分、広い市道に出た。


市道を進むと、


燈明堂入口バス停があった。
(これは道路反対側の標識なので、浦賀駅行となっている)
『燈明堂は近そうだねっ』


川間トンネル手前を左に曲がり、


道なりに進む。


『大分お腹が空いて来ちゃったねぇ』


12時43分、燈明崎の海岸に到着した。
目の前に広がる浦賀水道やその先の房総半島の眺望を楽しみながら休憩出来る、
絶好のスポット、とある。
江戸時代には浦賀奉行所の処刑場だったこともある、とのこと。
『いやぁ やっぱり海は広くて気持ちが良いなぁ』


弁当の前に燈明堂を見ておこう。
慶安元年(1648)から約220年間にわたり、船舶の航行を助けた日本式灯台の浦賀燈明堂が復元されている。


燈明崎の先端で浦賀水道の景色を眺めながら、


弁当タイムにしよう。


『今日は天気も良いし、最高だねっ』


景色も最高である。


正面に房総半島の鋸山が見える。


浦賀水道の沖合をゆっくりと進むMOL(大阪商船三井)の大型タンカー


13時20分、弁当も終り、燈明崎を引き上げる。
三浦半島に付きもののトビの襲来を誰も受けなかったのは幸いであった。


燈明崎入口バス停のある市道まで戻り、


市道を左に曲がり、川間トンネル方面へ。


長さ300m余りの川間トンネルを抜け、


久里浜の長瀬辺りを進む。


13時50分、港湾空港技術研究所前を通過すると、


左手目の前に久里浜港の景色が広がり、開放的な気分にさせてくれた。
ちょうど東京湾フェリー「白浜丸」が入港するところだった。


『海岸を歩くのは気持ちが良いわよねっ』


開国橋を渡り、


ペリー公園を目指す。


海岸沿いの道路(ペリー通り)は遊歩道として整備されている。
一休みしていくには格好の場所だが、時間の関係で久里浜駅を目指すことにした。


ペリー通りを横断し、


黒船食堂・黒船釣具店前を通ると、


14時2分、ペリー公園に到着した。


ペリー公園の正面には、伊藤博文の筆による上陸記念碑が立っている。
「北米合衆國水師提督伯理上陸紀念碑」と書かれている。


14時10分、ペリー公園を後にする。
ペリー公園直ぐ近くの中華五十番前を通り、


県道212号大浜交差点を右折して、JR久里浜駅を目指す。


日本キリスト教団久里浜教会前を通過


JR久里浜駅へ。


京急久里浜線の鉄橋を過ぎた辺り、ちょうど京急の電車が通過するところだった。


京急久里浜駅前を通過し、


JR久里浜駅へ。


14時36分、ゴールのJR久里浜駅に到着した。


久里浜駅14時44分発の成田空港行きに乗車


始発なので、全員ゆったりと座れた。


品川駅で16時17分発の常磐線に乗り換える。


こちらも始発になるので、楽に座ることができた。


『始発駅から座って帰れるのは楽で良いわよねっ』


この後、しばらく眠りに就いた。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


17時38分、荒川沖駅に到着
荒川沖駅西口「庄や」で軽く一杯やろうということになった。


『お疲れさまでした~っ』


「庄や」の売りは店長お薦めの日本酒である。
全国の有名銘柄が揃っており、小皿・枡・グラスからこぼれんばかりに並々と注いでくれるのが嬉しい。


「庄や」を出る頃には辺りはすっかり暗くなっていた。


京急浦賀駅から渡し船で浦賀港を渡り、JR久里浜駅までを歩いた。
黒船来航の地であり、来航に纏わる歴史に想いを馳せることができた。
燈明崎に今から370年も前から日本式灯台があったとは知らなかった。
しかも220年間もの間運用されていたとは、驚きだった。

帰宅後、この日の参加者から、5月13日(月)の19:30から「鶴瓶の家族に乾杯」で
浦賀の町の様子が放映されるとの情報があった。
これは、見逃せない番組であろう。

この日の万歩計は、18,000歩を優に超えていた。

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